今日の日記

2003年7月25日
 「愛してたのよ」
 悲痛な女の叫びに、知ってたよ、と言いたくなったけれど、言ったら鋭い目で睨まれることは分かり切っていた。だから、男は黙って頷いた。
「愛してたのよ、誰よりも、何よりも」
 女の涙を帯びた黒い瞳が、曇り空から降り注ぐ僅かな光を照り返し、紅に染まった。
 美しい女は顔を歪めて、さらに呟いた。
 憂いを帯びた瞳も、青ざめながらも、感情の高ぶりで紅潮した頬も、炎によく似た紅い髪と唇も、全てが美しい。
 その美しい女の中で、何よりも輝いていた紅い瞳が、狂気をはらんでいるのが、男には見て取れた。
「…愛してたのよ……」
 三度目の呟きは、震えていた。
 一度目や二度目のような強さはなく、そこには打ちひしがれた弱々しい女がいるだけだった。
「…知っていたさ」
 男はようやく唸るように答えた。
「知っていたさ。誰もが」
 もう一度、年を押すように答える。男の予想に反して、女は男を睨みつけもしなかった。
 ただただ、紅い瞳を伏せ、爪が食い込む程にきつく拳を握りしめた。
「けれど、あいつは狂っていた」
 女が愛した男のことを思い出しながら低く囁く。
 研ぎ澄まされた鋼のような男だった。引き締まった体躯と鋭い視線。そして瞳の中に隠された狂気。
 それは漣のように静かで、誰もが気づかなかった。けれどその波は海と同じだった。ふとした風で荒れ狂う大波へと変化する。
「…知っていたわ」
 女も同じように、男の瞳を思い出しているのだろう。溜息にも似た吐息と共に、掠れる声をはき出した。

 狂った男を愛した、狂った女は、どこまでも一途で、果てしなく美しかった。
「けれど、私はあの人の狂気が好きだった」
 だから、あの言葉が今でも忘れられない。

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