苛々する。
「優柔不断、中途半端、無責任、鈍感」
一目も気にせず、張りのある声で、独り言を言い放つ。
大股で走りださんばかりの速さで歩いている夕月を見て、通りすがった誰かがびくりと身を竦ませて、物陰に隠れるのが見えた。
それがまた、苛立ちを増長させる。
今日の目覚めは最悪だった。
理由は単純、隣で寝ていたはずの男が消え、かわりに手紙が残っていたというだけのこと。
驚きもしたが、夕月はそれ以上に男を殴りたい衝動に駆られた。
面と向かって話をしないことも、逃げるように消えたことも、あんな短い手紙で全てを終わらせようとしたことも、全てが勘に障った。
それから彼女の行動は素早かった。
手早く適当な衣服を身に着け、顔に冷水を浴びせて、そのまま食事もせずに家を出てきた。
普段は束ねている髪が、風に煽られてばたばたと音を立てた。
男がどこにいるのか、その検討はついていないが、とりあえずその自宅に向かう道を選んだところで、夕月は盛大に顔をしかめた。
目の前の道から、今は会いたくない種類の相手がやってきたからだ。
「やぁ、夕月。おはよう」
この上なく嫌そうな顔をしている夕月に向かって、蒼河は嫌味のない笑顔を向けた。
「おはよう。とりあえず退け。邪魔だ」
苛立った口調で用件だけを言い放つと、蒼河はぴくりと片眉を跳ね上げた。
けれど、その仕草は決して夕月の無礼をとがめるものではない。
「良いけど、羽水は家にいないよ」
「なんだと!」
怒りを露わにして言い返すと、蒼河はやっぱりと笑った。
「ちょっと話をしようと思ってさっき家にいったんだけど、いなかったよ」
「どこにいるんだ!」
もう一度言い返すと、蒼河は今度こそ不満気な顔をした。
「知らないよ。…何があったのさ?」
予想はつくけど、と続けて、蒼河は溜息を吐いた。
問われたが、何があったのか口にするのも何か癪で、夕月は朝見つけた置き手紙を乱暴に突きつけた。
蒼河はそれに素早く視線を走らせた後、何度かゆっくり瞬きを繰り返し、それからまたゆっくりと視線を走らせた。
そして天を仰いだあとに、もう一度更に大きな溜息を吐いた。
「…で?」
溜息混じりに問い掛けられ、夕月は困惑した。
「で、とはなんだ」
「羽水に会って、どうするの?」
「殴る」
即答すると、そうだろうねと意外にも蒼河は頷いた。
「まあ、これは自業自得だから、当然だね」
あっさりと言い放つと、置き手紙を夕月に手渡した。
「それで、どうするのさ?」
「何をだ!」
手紙を返され、とりあえず羽水がいそうな場所を探そうとした瞬間、もう一度質問を返された。
「結婚」
蒼河は端的に言い、それに何か言い返そうとして口を開いた瞬間、夕月から言葉が消え去った。
そんな夕月をじっと見つめ、蒼河は無表情に口を開いた。
「むしろよかったんじゃない? 結婚する前に、あいつが腰抜けだってことがわかったんだから。断る口実ができたよ」
「それは…、そうなんだ…が……」
淡々と言う蒼河とは逆に、夕月から今までの勢いが一瞬でなくなった。
その事実に初めて気づいてしまった、というそんな表情をしている。
「今回の件は明らかに羽水が悪い。今更そんなことを言い出すくらいなら、誘いにのらなきゃいよかったんだ。そうだろ?」
「当たり前だ。据え膳を食わぬような男はいらないが、食い逃げする男はもっと癪だ」
勢いはやはり弱いが、それでもしっかりと夕月は不機嫌そうに言い返した。
「…一応、ここ道の真ん中だから言葉は選ぼうね」
溜息混じりにそう前置きをしておきながら、蒼河はだったらと続けた。
「だったら、よかったじゃないか。羽水を一発殴って、この話はなかったことにすればいい。」
夕月は何故かぐっと言葉に詰まった。
何かを言い返そうとしたが、それが不思議と羽水の弁護のような気がして、言葉に出せないのだ。
そんな夕月の様子を見て、蒼河はちょっと笑った。先程までの淡々とした無表情さとはうってかわった、優しい顔だ。
「羽水はね、僕らに対して劣等感があるんだよ」
劣等感?
思わず頭の中で反芻しながら、怪訝な顔で夕月は蒼河を見返した。
「まぁ、僕の所為かもしれないんだけど」
そう言って、蒼河は空を仰いだ。
「年が同じだから、僕と羽水はは学校でも一緒だった。僕は彼が好きだったし、彼も僕を嫌ってなかった、と思う」
一旦言葉を切り、蒼河はそれから寂しげに笑った。
「でも羽水は水を扱うことでしか、僕に並べなかった。その所為でだと思うんだ」
蒼河は子供のように小首を傾げ、続けた。
「誰だって、友達とは対等になりたいと思う。……まぁ、本人に聞いたことはないから、本当かどうかはわからないけど」
夕月が何を言おうか、迷っていると、蒼河が静かに目を伏せた。
「夕月。君や羽水のことを、僕は良い友達だと思ってる」
だから。
「幸せになって欲しいんだ」
二人で。
蒼河の言葉が終わる前に、夕月はその横をすり抜けて走り出した。
彼が何を言うか、想像ができなかったわけではない。
けれど、今はまだ聞いてはいけないと思ったのだ。
羽水と一緒に、聞いてやる。
あの優柔不断で、自分のことしか考えられない無神経な男に、自分のことを考えさせてやる。
そう、夕月は思い、走った。
「優柔不断、中途半端、無責任、鈍感」
一目も気にせず、張りのある声で、独り言を言い放つ。
大股で走りださんばかりの速さで歩いている夕月を見て、通りすがった誰かがびくりと身を竦ませて、物陰に隠れるのが見えた。
それがまた、苛立ちを増長させる。
今日の目覚めは最悪だった。
理由は単純、隣で寝ていたはずの男が消え、かわりに手紙が残っていたというだけのこと。
驚きもしたが、夕月はそれ以上に男を殴りたい衝動に駆られた。
面と向かって話をしないことも、逃げるように消えたことも、あんな短い手紙で全てを終わらせようとしたことも、全てが勘に障った。
それから彼女の行動は素早かった。
手早く適当な衣服を身に着け、顔に冷水を浴びせて、そのまま食事もせずに家を出てきた。
普段は束ねている髪が、風に煽られてばたばたと音を立てた。
男がどこにいるのか、その検討はついていないが、とりあえずその自宅に向かう道を選んだところで、夕月は盛大に顔をしかめた。
目の前の道から、今は会いたくない種類の相手がやってきたからだ。
「やぁ、夕月。おはよう」
この上なく嫌そうな顔をしている夕月に向かって、蒼河は嫌味のない笑顔を向けた。
「おはよう。とりあえず退け。邪魔だ」
苛立った口調で用件だけを言い放つと、蒼河はぴくりと片眉を跳ね上げた。
けれど、その仕草は決して夕月の無礼をとがめるものではない。
「良いけど、羽水は家にいないよ」
「なんだと!」
怒りを露わにして言い返すと、蒼河はやっぱりと笑った。
「ちょっと話をしようと思ってさっき家にいったんだけど、いなかったよ」
「どこにいるんだ!」
もう一度言い返すと、蒼河は今度こそ不満気な顔をした。
「知らないよ。…何があったのさ?」
予想はつくけど、と続けて、蒼河は溜息を吐いた。
問われたが、何があったのか口にするのも何か癪で、夕月は朝見つけた置き手紙を乱暴に突きつけた。
蒼河はそれに素早く視線を走らせた後、何度かゆっくり瞬きを繰り返し、それからまたゆっくりと視線を走らせた。
そして天を仰いだあとに、もう一度更に大きな溜息を吐いた。
「…で?」
溜息混じりに問い掛けられ、夕月は困惑した。
「で、とはなんだ」
「羽水に会って、どうするの?」
「殴る」
即答すると、そうだろうねと意外にも蒼河は頷いた。
「まあ、これは自業自得だから、当然だね」
あっさりと言い放つと、置き手紙を夕月に手渡した。
「それで、どうするのさ?」
「何をだ!」
手紙を返され、とりあえず羽水がいそうな場所を探そうとした瞬間、もう一度質問を返された。
「結婚」
蒼河は端的に言い、それに何か言い返そうとして口を開いた瞬間、夕月から言葉が消え去った。
そんな夕月をじっと見つめ、蒼河は無表情に口を開いた。
「むしろよかったんじゃない? 結婚する前に、あいつが腰抜けだってことがわかったんだから。断る口実ができたよ」
「それは…、そうなんだ…が……」
淡々と言う蒼河とは逆に、夕月から今までの勢いが一瞬でなくなった。
その事実に初めて気づいてしまった、というそんな表情をしている。
「今回の件は明らかに羽水が悪い。今更そんなことを言い出すくらいなら、誘いにのらなきゃいよかったんだ。そうだろ?」
「当たり前だ。据え膳を食わぬような男はいらないが、食い逃げする男はもっと癪だ」
勢いはやはり弱いが、それでもしっかりと夕月は不機嫌そうに言い返した。
「…一応、ここ道の真ん中だから言葉は選ぼうね」
溜息混じりにそう前置きをしておきながら、蒼河はだったらと続けた。
「だったら、よかったじゃないか。羽水を一発殴って、この話はなかったことにすればいい。」
夕月は何故かぐっと言葉に詰まった。
何かを言い返そうとしたが、それが不思議と羽水の弁護のような気がして、言葉に出せないのだ。
そんな夕月の様子を見て、蒼河はちょっと笑った。先程までの淡々とした無表情さとはうってかわった、優しい顔だ。
「羽水はね、僕らに対して劣等感があるんだよ」
劣等感?
思わず頭の中で反芻しながら、怪訝な顔で夕月は蒼河を見返した。
「まぁ、僕の所為かもしれないんだけど」
そう言って、蒼河は空を仰いだ。
「年が同じだから、僕と羽水はは学校でも一緒だった。僕は彼が好きだったし、彼も僕を嫌ってなかった、と思う」
一旦言葉を切り、蒼河はそれから寂しげに笑った。
「でも羽水は水を扱うことでしか、僕に並べなかった。その所為でだと思うんだ」
蒼河は子供のように小首を傾げ、続けた。
「誰だって、友達とは対等になりたいと思う。……まぁ、本人に聞いたことはないから、本当かどうかはわからないけど」
夕月が何を言おうか、迷っていると、蒼河が静かに目を伏せた。
「夕月。君や羽水のことを、僕は良い友達だと思ってる」
だから。
「幸せになって欲しいんだ」
二人で。
蒼河の言葉が終わる前に、夕月はその横をすり抜けて走り出した。
彼が何を言うか、想像ができなかったわけではない。
けれど、今はまだ聞いてはいけないと思ったのだ。
羽水と一緒に、聞いてやる。
あの優柔不断で、自分のことしか考えられない無神経な男に、自分のことを考えさせてやる。
そう、夕月は思い、走った。
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