『月巫女』

2003年9月14日
生まれた時から、その人は傍にいた。

ねぇ、氷河。
名前を呼ぶと、年長の親友は小さく首を傾げた。
広い丘は普段生活している里から、森を一つ抜けたところにある。柔らかい緑の絨毯が広がり、その上を透明な風が通り抜けていく。
二人だけの、秘密の場所だった。

「何でもない」

そう言うと、また不思議そうな顔をしたけれど、彼は何も言わなかった。
そうやって二人並んで、遠い空を眺めるのが香月はとても好きだった。
時間がこれ以上もない程にゆっくりと緩慢に、それでも確かに過ぎていく。この感覚が好きだった。

言葉のない空間に、風が草木を揺らす音や、鳥の鳴き声だけが響いていく。
それは遠い場所から、薄い皮膜の向こう側での音のようで、どこか現実味がない。
けれど確かに時間は動いていて、太陽が東から西へと進んでいるのだ。
そして今この瞬間さえも、決して止まることはない。

「ねぇ、氷河」

隣の親友にもう一度問い掛ける。
氷河はまた同じように首を傾げた。言葉を促すように。

「死ぬのは、怖い?」

唐突な問い掛けだということは、自分にも分かっていた。けれど、こんなことは誰にも聞けない。
両親は信頼しているし、心も開いている。けれど不安や怯えをさらけ出すことはできない。
それは心配させたくないという想いなのかもしれないし、何故か恥のように感じてしまうためかもしれない。
そのため、頼ることはできるのに、どうしても寄りかかることはできない。身体を預けることだけは、どうしてもできないのだ。
けれど、親友に対してだけは違う。
完全に寄りかかる訳ではなく、彼もこちらに少し体重を預けてくれるような気がするからだ。
対等な立場でいるような、そんな錯覚を覚えるから。

「怖いよ」

彼は素っ気なく答えた。
けれど短く簡潔な言葉の中に、彼の真意の全てが入ってることなど、分かり切ったことだ。
氷河は嘘を吐かない。それくらい、知っている。

「月神様の元にいけるのに?」

遠くを見つめながら、更に尋ねた。
氷河の目を見たくなかった。そして自分の顔を見られたくなかった。
弱音を吐いている自信があったからだ。

「そうだよ。…違うな、怖いんじゃなくて、寂しいんだ」

言葉の後に、氷河は溜息を吐くように笑ったのが分かった。
自嘲するような、苦笑するような、そんな吐息。

「寂しいの?」

「寂しいよ。死んだら誰にも会えなくなる。蒼呼や父さん母さん、もちろん香月にも」

それは寂しいことじゃないかと、氷河は笑った。

「そっか」

短く答えて、香月はやっと胸の支えが取れたような気がした。
死ぬことは、月神の傍に召されるということでもあるのだから、とてもありがたいことのような気がしていた。
けれど死にたくないという気持ちも紛れもない本物で、どうして良いのか分からなかったのだ。

けれど答えは簡単なことだった。
月の神の傍に行けても、親しい人と会えなくなることは寂しい。
それはこんなにも単純なことなのだと、香月はやっと気づいた。

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