『水御子』

2003年9月16日
 大雨が降っていた。
 川は増水し、小さな池や泉からも泥にまみれた水があふれ出している。普段の清らかさを失い、変わりに荒々しい力を手にした水だった。
 雲の様子から、明日辺りに大雨が降るだろうと予想はしていたものの、この雨雲の巨大さは予想以上の物だった。山中にある人孤族の里を、のみ込んでしまうのではないかと恐怖を覚える程に。
 けれど羽水の見立てでは、この雨は今日中に止むはずだ。雨を落とす雨雲は、同じように凄まじい勢いで流れている。上空は風も強いのだ。
 羽水と夕月は着替えをすませると、杖をひっつかんで家を出た。
 羽水がこの家に婿として入ったことで、河や水の供給を司る水瀬は事実上、断絶したことになる。そのため、水災害への対処は家を問わずに、力があるものが協力することになった。そうなれば、自然とこの家に声がかかるのは分かっている。

 雨粒は大きく、文字通り叩きつけるように降り注いだ。羽水は溜息とともに、小さく言葉をはき出した。あまり意味のない言葉ではあったが、水の精霊達は喜んで彼の願いを聞き入れてくれた。つまり急ぎ足で進む二人を避けるように、雨が軌道を変えたのだ。
 水の粒が叩きつけられる痛みが無くなったことに気づき、夕月が羽水の顔を見て、礼を言うように軽く笑った。それから、急ごうと呟き、早歩きから小走りに速度を変えた。
 羽水はその半歩後ろを走り、そして二人は霧生の本家へと辿り着いた。
 大きな建物の扉は開け放たれ、泥でできた足跡がくっきりと石畳の上に刻まれていた。すでにたくさんの人が、指示を仰ぎに来ているのだろう。
 それに送れじと、夕月が門をくぐろうとすると、その後ろで羽水が足を止めた。

「どうした?」

 振り返り尋ねると、羽水はいつになく真剣な顔を向けた。

「…川が増水して、堤防が壊れてるところがある」

 羽水は早口にそう言うと、身を翻した。
 それは誰よりも水の扱いに長けた羽水だからこそ聞こえた、か細い水の精霊の声だったのだ。

「蒼河に伝えてくれ! 俺は先に行く」

 息もつかずに叫び、走り出してから彼はふと足を止めて振り返った。

「夕月、お前はこっちで怪我人の治療に当たれ!」

 彼は自分の妻が、あまり水と相性がよくないことを思いだしたのだ。
 精霊とは相性がある。羽水は誰よりも水に愛された変わりに、他の精霊からは一切力を借りることはできない。夕月は全体を通して相性は良い。全ての精霊から力を借りることができるが、水からはそれほど強い力を借りることはできない。彼女が得意とするのは、炎や風を使った術だ。
 この場に待機しろという羽水の言葉に従いたくはなかったが、何はともあれ霧生本家の当主である蒼河に堤防の決壊のことを伝えなければいけない。
 夕月も身を翻し、大きな屋敷の玄関に上がり込んだ。

 全力で走ると、正面から雨の粒が顔に飛び込んでくるように感じる。実際顔にいくつもの雨粒が辺りはしたが、この大雨からしてみれば、その被害は無いに等しいと言っても良いだろう。水の精霊たちのおかげだ。
 走りながらも羽水は、水の精霊達に言葉を投げかけた。落ち着け止まれ、と。
 彼の命令に従って、足下を這っていた泥水達が、流れを落ち着かせたりもしたが、いかんせん雨の量が多すぎる。これでは川を落ち着かせたところで、流れることのできない水が上流に溜まり、後で一気に流れ出て被害は巨大になってしまう。
 そんなことを考えながら羽水は川の近くに辿り着いた。昨日までは川縁であったところまで、水が押し寄せ浸食を始めている。
 何はともあれ、あふれ出した水を川に返し、少し流れを速くして海まで水を持っていってしまおうと考え、羽水は水の精霊たちに願った。
 水の精霊たちを操ることは、いつもなら呼吸をするほどにたやすい。言葉もいらず、単純に願うだけでも良いのだ。けれど今日は違う。水の精霊達が荒れ狂っている。何かに酔っているかのように、楽しそうに狂っている。
 収まれと声を張り上げると、はっとしたように精霊たちは大人しくなった。だが、それはほんのごく一部で、大半の精霊はまだ歌い踊っていた。
 いつもとかってが違い、焦りを感じた頃だった。上流から鉄砲水が流れて来たのだ。
 しまったと思った時は、もう遅かった。川の水が川縁どころか、平地にまで溢れだし、羽水の足をさらった。まだ狂っている水の精霊が、遊ぼうと笑いながら足を引きずって行くように、羽水は感じた。

 泥水のなかに引き込まれる瞬間、夕月の声が聞こえた気がした。
 ああ、また怒られるなと、そんなことを考えながら、ただひたすらに精霊達に言葉を放った。意識が消えるまで、ただただ、ひたすらに。

 目を開けると、窓から太陽の光が注がれていた。雨雲はどこかへ行ってしまったらしい。見立ては間違っていなかったと、そんなことを嬉しく思った。
 そしてようやく、自分が白い布団に寝かされていることに気づいた。ここはどこだと想い、身体を起こそうとして、全身を覆った疲労感と鈍い痛みに、羽水は顔をしかめた。

「羽水!」

 聞き慣れた凛とした声が、耳に響いた。
 痛む首を無理矢理声の方向にねじ曲げると、夕月が慌てたように近づいてきた。そのまま枕元に座り、ぼんやりとした羽水に向かって馬鹿となじった。

「馬鹿野郎、お前が水にさらわれてどうするんだ…」

 そう呟いて、彼女は俯いた。
 何か言わねばと思ったが、何も言う言葉が思いつかなかったので、全身に広がる痛みをこらえて、そっと右手を伸ばして、夕月の頬を手の平でそっと触れた。
 馬鹿者。また呟いて、夕月はその手を大事そうに握りしめた。

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