この世界は綺麗だからもう少し待っていかないで消えないでこの世界をただ憎まないで愛しい人泣かないで笑っていてもう少しだけ立ち止まってみてあなたはまだ来てはいけないのだからわかってこの世界は綺麗なの信じてもう一度だけ気づいて一瞬でも良いからあなたが好き誰よりも
◆ ◆ ◆
もうちょっとだけと、彼女は泣きながら呟いた。
「この腕が折れたって、あなたを抱きしめ続けるから。この脚が千切れたって、あなたの支えになるから」
だからもうちょっとだけ待ってと、彼女は泣いた。
「この世界はちっとも優しくなんかなくて、私たちを痛めつけるだけで、冷たくて残酷だけれど。だけどとても美しいから」
だからいなくならないで。
はらはらと透明な涙をこぼしながら、彼女はひたすら僕に懇願した。待ってと、まだいかないでと。その言葉があまりに真っ直ぐで、あまりに一途で、あまりに残酷だから、僕もまた泣きたくなった。
「この世界は残酷で、僕や君からいろんなものを奪っていった。それでも?」
問い掛けると、あふれ出す涙を止めようともせずに、彼女は頷いた。
「それでも、この世界は美しいから。透明な泉のように、澄んだ想いだけをはき出しているから」
彼女の言葉に、僕はゆるゆると首を振った。左右に。
この世界は僕からたくさんの物を奪っていった。最初は小さな気持ちだった。大したものじゃないけど、大事に大事に抱え続けた真っ白な気持ちを、この世界は引き裂いた。ごみでも棄てるようにあっさりと。
二つ目は、大事な人だった。幼いながら守りたいと真剣に願った人だった。けれど自分の身体も手も知識もあまりに小さすぎて、守る以前に、守られる立場となってしまった。そしてまた世界は大事な人を引き裂いた。子供が蝶の羽をもぎとるような無邪気な残酷さで、あっさりと奪っていった。
与えるだけ与えて、それが大切な物へと変わった時になって取り上げる、そんなこの世界が嫌いだった。いつか必ず出ていってやると、心に決めていた。それがいつになるかなんて、分からなかったけれど。
そしてまた、世界は僕から大事な人を奪おうとしている。
これ以上、苦しい想いはしたくない。だから彼女と一緒に、この世界を出ていこうと心に硬く決めていた。それなのに彼女は泣くのだ。透明な雫を零しながら、やめてくれと泣くのだ。その姿はあまりに悲しそうで、硬く保っていたはずの心はあっさりと砕け散ってしまった。
「君だって、大切な物をたくさん奪われたのに…」
彼女も僕と同じような存在だった。初めて会った時に、この世界は残酷だとぽつりと呟いた。その言葉は何よりも純粋な想いだったから、だから僕は彼女をこれほどまでに好きになったのだろう。
彼女はどれほどまでに悲しい想いを味わっても、それでも世界を愛そうとしていた。逆に僕は、世界をただひたすらに憎んだ。言葉を交わす度に、そんな彼女の愚かさを嘲りながら、何よりも愛しく思った。僕には真似ができないことだから。
親しくなればなるほど、二人で怖いと囁きあった。大事な物ばかり取り上げてしまうこの世界が、二人のうち独りをどこかに連れ去ってしまうのではと。それは僕が何よりも恐れたことであり、彼女が何よりも悲しんだことだった。
彼女は知っていたのだろう。連れ去られるのは自分の方だと言うことを。その身体が、病で長くはないと。そして彼女は泣いた。ごめんなさいと僕に謝りながら。
「それでも…、それでも、この世界は私に愛しいものを与えてくれたから。この世界は私の愛しい人たちそのものだから」
この世界を愛しているのだと。そして僕のことも愛しているのだと、彼女は泣く。
「だけど、僕はまた取り残される」
ぽつりと呟き俯くと、彼女がまた涙を落としたのが見えた。
いつだって、取り残されるのは僕だった。大事な物を取り上げられ、独りになっても歩くしかなくて、傷ついても無理矢理生きることしかできないのは、僕だった。いつだって、思っていた。愛しい人より、先になくなってしまいたいと。取り残されるのは、もう嫌だった。
「この世界を憎んで消えないで。美しいのだと、もう一度だけ信じて。それから選択して」
お願いだから。
彼女はいつだって、必死だった。愛しい人を奪われる痛みを知っているから、愛しい人よりも先にいなくなりたくて、だけど愛しい人に辛い思いをさせたくなくて。いつだって、必死に生きていた。永遠が欲しいと、無い物ねだりをしながら、涙を堪えて生きていた。
「…僕はこの世界が綺麗だとは思えない。だけど」
だけどだけどだけど。
「…けど、君の涙は綺麗だと思う」
だからもう少しだけ留まるよ。
君のいないこの世界に。僕が憎んだ、綺麗だなんて思えないこの世界に。
だけど君という存在を作り出し、僕に与えてくれた、残酷だけれど感謝してしまうこの世界に。
僕と同じ存在でありながら、世界を愛した君を、一瞬だけ交わってまた離れていってしまう君を、本当に愛しているから。
君の愛したこの世界に、もう少しだけ留まるよ。
そんな僕の思いを察したのが、彼女が微笑んだ。頬を伝う涙はそのままに、優しく微笑んだ。
けれど。
「…君は残酷だね」
まるで、この世界のように。儚い笑みが太陽の光だとしたら、こぼれ落ちる涙は春の雨だ。この上なく美しいのに、僕の元から去っていってしまう。どれほどまでに愛そうと、その行く手を阻むことはできないこの悔しさ。
残酷だよと小さな声でなじっても、彼女は笑うだけだった。全てを包み込んでしまうような、柔らかい太陽の光だ。そして小さな声で、ありがとうと僕に囁いた。
だって彼女はこの世界からいなくなってしまう。どれだけこの世界を愛していようと、消えて無くなってしまう。どれだけ僕が愛されていようと、留まることもできない。愛しいのに愛しいのに愛しいのに。
「……君が好きだよ」
掠れた声で呟いた。誰よりも誰よりも好きだと、自分に言い聞かせるように。
「あなたが好き。誰よりも」
優しい声が返ってきた。
そして太陽の光は雲の彼方に去っていった。暖かな春の雨も、この世界は取り上げていった。
涙がこぼれた。
◆ ◆ ◆
もうちょっとだけと、彼女は泣きながら呟いた。
「この腕が折れたって、あなたを抱きしめ続けるから。この脚が千切れたって、あなたの支えになるから」
だからもうちょっとだけ待ってと、彼女は泣いた。
「この世界はちっとも優しくなんかなくて、私たちを痛めつけるだけで、冷たくて残酷だけれど。だけどとても美しいから」
だからいなくならないで。
はらはらと透明な涙をこぼしながら、彼女はひたすら僕に懇願した。待ってと、まだいかないでと。その言葉があまりに真っ直ぐで、あまりに一途で、あまりに残酷だから、僕もまた泣きたくなった。
「この世界は残酷で、僕や君からいろんなものを奪っていった。それでも?」
問い掛けると、あふれ出す涙を止めようともせずに、彼女は頷いた。
「それでも、この世界は美しいから。透明な泉のように、澄んだ想いだけをはき出しているから」
彼女の言葉に、僕はゆるゆると首を振った。左右に。
この世界は僕からたくさんの物を奪っていった。最初は小さな気持ちだった。大したものじゃないけど、大事に大事に抱え続けた真っ白な気持ちを、この世界は引き裂いた。ごみでも棄てるようにあっさりと。
二つ目は、大事な人だった。幼いながら守りたいと真剣に願った人だった。けれど自分の身体も手も知識もあまりに小さすぎて、守る以前に、守られる立場となってしまった。そしてまた世界は大事な人を引き裂いた。子供が蝶の羽をもぎとるような無邪気な残酷さで、あっさりと奪っていった。
与えるだけ与えて、それが大切な物へと変わった時になって取り上げる、そんなこの世界が嫌いだった。いつか必ず出ていってやると、心に決めていた。それがいつになるかなんて、分からなかったけれど。
そしてまた、世界は僕から大事な人を奪おうとしている。
これ以上、苦しい想いはしたくない。だから彼女と一緒に、この世界を出ていこうと心に硬く決めていた。それなのに彼女は泣くのだ。透明な雫を零しながら、やめてくれと泣くのだ。その姿はあまりに悲しそうで、硬く保っていたはずの心はあっさりと砕け散ってしまった。
「君だって、大切な物をたくさん奪われたのに…」
彼女も僕と同じような存在だった。初めて会った時に、この世界は残酷だとぽつりと呟いた。その言葉は何よりも純粋な想いだったから、だから僕は彼女をこれほどまでに好きになったのだろう。
彼女はどれほどまでに悲しい想いを味わっても、それでも世界を愛そうとしていた。逆に僕は、世界をただひたすらに憎んだ。言葉を交わす度に、そんな彼女の愚かさを嘲りながら、何よりも愛しく思った。僕には真似ができないことだから。
親しくなればなるほど、二人で怖いと囁きあった。大事な物ばかり取り上げてしまうこの世界が、二人のうち独りをどこかに連れ去ってしまうのではと。それは僕が何よりも恐れたことであり、彼女が何よりも悲しんだことだった。
彼女は知っていたのだろう。連れ去られるのは自分の方だと言うことを。その身体が、病で長くはないと。そして彼女は泣いた。ごめんなさいと僕に謝りながら。
「それでも…、それでも、この世界は私に愛しいものを与えてくれたから。この世界は私の愛しい人たちそのものだから」
この世界を愛しているのだと。そして僕のことも愛しているのだと、彼女は泣く。
「だけど、僕はまた取り残される」
ぽつりと呟き俯くと、彼女がまた涙を落としたのが見えた。
いつだって、取り残されるのは僕だった。大事な物を取り上げられ、独りになっても歩くしかなくて、傷ついても無理矢理生きることしかできないのは、僕だった。いつだって、思っていた。愛しい人より、先になくなってしまいたいと。取り残されるのは、もう嫌だった。
「この世界を憎んで消えないで。美しいのだと、もう一度だけ信じて。それから選択して」
お願いだから。
彼女はいつだって、必死だった。愛しい人を奪われる痛みを知っているから、愛しい人よりも先にいなくなりたくて、だけど愛しい人に辛い思いをさせたくなくて。いつだって、必死に生きていた。永遠が欲しいと、無い物ねだりをしながら、涙を堪えて生きていた。
「…僕はこの世界が綺麗だとは思えない。だけど」
だけどだけどだけど。
「…けど、君の涙は綺麗だと思う」
だからもう少しだけ留まるよ。
君のいないこの世界に。僕が憎んだ、綺麗だなんて思えないこの世界に。
だけど君という存在を作り出し、僕に与えてくれた、残酷だけれど感謝してしまうこの世界に。
僕と同じ存在でありながら、世界を愛した君を、一瞬だけ交わってまた離れていってしまう君を、本当に愛しているから。
君の愛したこの世界に、もう少しだけ留まるよ。
そんな僕の思いを察したのが、彼女が微笑んだ。頬を伝う涙はそのままに、優しく微笑んだ。
けれど。
「…君は残酷だね」
まるで、この世界のように。儚い笑みが太陽の光だとしたら、こぼれ落ちる涙は春の雨だ。この上なく美しいのに、僕の元から去っていってしまう。どれほどまでに愛そうと、その行く手を阻むことはできないこの悔しさ。
残酷だよと小さな声でなじっても、彼女は笑うだけだった。全てを包み込んでしまうような、柔らかい太陽の光だ。そして小さな声で、ありがとうと僕に囁いた。
だって彼女はこの世界からいなくなってしまう。どれだけこの世界を愛していようと、消えて無くなってしまう。どれだけ僕が愛されていようと、留まることもできない。愛しいのに愛しいのに愛しいのに。
「……君が好きだよ」
掠れた声で呟いた。誰よりも誰よりも好きだと、自分に言い聞かせるように。
「あなたが好き。誰よりも」
優しい声が返ってきた。
そして太陽の光は雲の彼方に去っていった。暖かな春の雨も、この世界は取り上げていった。
涙がこぼれた。
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