『流浪の民』

2003年9月29日
  ――慣れし故郷を放たれて 夢に楽土を求めたり――

 こぢんまりとした宿のベッドはスプリングがあまり効いていなくて堅かった。けれど敷布は柔らかかった。毎日天日干しをしているのだろう。太陽の匂いがする。
 そんな布団に顔を埋めて、香月は体に纏ったシーツを引き上げた。朝のしめった空気はひんやりとして、心なしか寒い。ぼんやりとした頭が覚醒するにつれ、軽く身震いをした。
 寝ている間は気づかなかったようだが、一度目覚めてしまうと、その寒さを再認識してしまった。寒さをしのぐために体をぎゅっと縮め、一息つく。
 それから体勢が何となく気に入らなくて、寝返りを一つ打つ。すると温もりを感じた。敷布かシーツかわからないが、それに体温が移っているのだろう。
 その温もりに誘われるように擦り寄る。柔らかな布団とは一転して、ごつごつした感触が肌に触れる。けれどそれさえ心地よい。
 うっすらと目を開くと、いつの間に目覚めたのか金色の瞳がじっとこちらを見ていた。数秒考えて、隣で人間がもぞもぞ動いていれば目が覚めるかと納得した。彼は冒険者でもあるのだし。

「香月」

 耳に響く声は低いのに柔らかい。それだけで、名前を呼ばれるだけで幸せになれる。背中の方からよくわからない気持ちが込みあがってくる。
 何かと問うような視線を向ける。銀色の髪が一房目の前にこぼれていて、邪魔だと思った。髪に遮られて彼の顔がきちんと見えない。

「寒いか?」

 問いかけに香月はゆったりと首を振った。寒いわけがない。先ほどまでの肌寒さなどとうにどこかへ行ってしまった。側にいられるだけで、心の奥が熱くなってくるのだから。

 住み慣れた故郷を飛び出し、もう帰ることは叶わないだろう。親友も両親も裏切り、愛しい神さえ裏切った。
 けれどこの温もりがある限り、自分は後悔などしないだろう。これ以上望むものがないほどの幸せと、それ以上を望んでしまうほどの愛しさがある限り、大丈夫なのだ。
 彼女は楽土を見つけたのだから。

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