『父親』

2003年9月30日
 父親とは一度は超えなければならない壁だと言ったのは誰だったのか。月代には思い出すことができない。
 彼の父は、強い人ではなかった。力だけで言えば、尻尾の数の通り月代の圧勝に終わってしまう。本気で戦えば、その命を奪ってしまうことだろうと、それほど難しくはないだろう。
 逆に母はとても強い人だった。一言でいえば苛烈な人で、迂闊にさわれないほどに鋭い気配を持っている人だ。少しでも攻撃しようものなら、容赦のない十倍返しが帰ってくるような。そんな人だ。

「父さん」

 月代が呼びかけると、森の側に立っていた父はゆっくりとこちらを振り向いた。決して愚鈍な動きではない。流れるような綺麗な動きだと思った。まるで水のような。
 身長はそろそろ追いつきそうだが、月代はまだ線が細い。そのため『男』という雰囲気は、未だ父には追いついていない。

「どうした?」

 父に問われたが、月代はなんでもないとだけ言った。呼びかけておいて変なやつだと、父は小さく笑った。
 その笑いに悲しげなものが入り込んでいるような気がして、月代は首をかしげた。父はすでに森へと視線を移していた。月代のことなど忘れてしまったかのように。

「何してるの?」

 父と並び、同じように森に視線を移して尋ねる。光を通さない深い森は、見渡す限り薄暗いだけで、何も見えては来ない。

「夕月はどうしている?」

 父は月代の問いには答えず、逆に質問をよこしてきた。多少面食らいながらも、家にいると答えると、父は腕を組み、また森を見つめた。

「月代」

 今度は唐突に名前を呼ばれた。どうも今日の父はいつもの嘗てが違う。いつもより回りくどいのか、直球なのかいまいちわからないが、いつもとは違う。

「お前は、目を逸らすな」

 辛いことや悲しいことから目を逸らさずに、それを受け止められるようになれと、父は続けた。
 その言葉を神妙に受け取ってから、ようやく月代も気づいた。今日が一体なんの日であるのか。誰もが忘れたふりをしていることに、やっと気づいた。
 あの母でさえ、日常の中にその事実を埋め、忘れてしまったかのように振る舞っている。実際忘れてしまったのかもしれないし、一人耐えているのかもしれないが。

 今日は優しかった従兄の命日なのだ。

 それが十五歳の時、父を強い人だと感じた記憶。

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