死んでも良いと思った。
 けれど、あなたをおいて死んではいけないと思った。
 そして、あたしはまだ生きている。

 青い色をした風が通り抜けていった。夏がやってくる。そう、夏だ。ねっとりとした濃厚な空気と、甘ったるい眩暈のする薫りが、自分にとっての夏。
 逃れられない罠に陥ったのも夏。今まで気づかないで無理矢理壊していた足枷を、ついに認めさせられたのも夏。去年の夏。陽炎が漂う暑い夏に、すべてが終わって、すべてが始まってしまった。
 湿った風が前進にまとわりついてくる。逃がしはしないと言っているかのように。たかが風にそんなことを感じる自分に嫌気がさす。
 けれど逃げることは叶わない。逃げたいと思ってさえいない。ただ生きている。緩慢に時を生きている。この命が燃え尽きるときまで、諾々と命を消費し続けるのだろう。
 生きることへの冒涜だ。
 そう思うと、何故かふと笑いが漏れた。

 去年の夏、死んでしまうつもりだった。けれど何の因果かまだ自分は生きている。理由は簡単。彼女が望んだからだ。死なないでくれと願ったからだ。ただそれだけなのだ。
 生きたかった訳でも、逝きたかった訳でもない。ただ、逝けばすべてを終わりにできると思っていた。彼女の罪も、自分の存在も、魔女の呪いも。すべて消し去れると信じていた。
 今も時々死にたいと思う。
 それは別に人生に悲観したわけでも、絶望したわけでもない。存在が無意味に感じられ、虚しくなった訳でもない。単純に、終わりにしたくなるのだ。
 魔女の呪いはいずれ解けるだろう。自分の中で呪いが解けてしまったように。次代の魔女がもしも生まれたとしても、彼女の血の中に潜む呪いは確実に弱っているのだから。いずれなくなってしまう。初代の魔女の悲しみも、苦しみも、痛みも、すべては過去の産物でしかないのだから。

 そうやってすべてが終わっていくのだ。そんなことはずっと前から知っていた筈なのに、何故かそう思うと涙が出そうになる。
 自分ですべてを終わらせようとしていたくせに、何かが終わってしまうということに、ふと寂しさを感じてしまう。矛盾しているとは自分でも思う。けれど愚かだとは思わない。これが人間なのだと開き直っている。
 そう、これが人間なのだ。他者に対する愛しさと憎しみを持ち合わせることができるのが人間なのだ。
 自分の彼女への思いのように。

 彼女を愛している。誰よりも愛している。誰よりも幸せになって欲しいと願っている。笑っていて欲しいと願っている。救ってやりたいと思う。その罪を浄化してあげたいと思う。彼女を愛している。ただひたすらに愛している。
 だから死のうと思ったのに。そんな言葉が口から出るのだから、自分はもう彼女を愛していないのかもしれない。愛ではなく、思いは恋へと変わってしまったのかもしれない。愛にも終わりが訪れてしまったのかもしれない。
 そう思うと涙が零れた。心は無感情で、理性が不可解だと言葉をあげる。感情も別段動揺したわけでもなく、わからないとだけ言う。
 けれど無感情にあふれた涙は暖かかった。

 あなたのために生きているなどと言ったら、彼女はまたすべてを背負ってしまうだろう。それは自分の本意ではない。忘れて欲しくはないが、疎ましく思って欲しくはない。苦労をかけたくはない。少しでもその重荷を減らしてあげたいのだから。
 だから彼女とは離れた。幸せになどしていないだろう。今もまた誰かの罪に触れ、泣いているのかもしれない。ひょっとしたらお人好しの性格を利用されて、誰かにだまされているかもしれない。
 会いたいと思う。抱きしめたいと思う。
 けれどそれは叶わない。会ってはならないのだ。たとえ抱きしめようと、きっと心はすれ違うだけなのだ。
 去年の夏のように、お互いを傷つけながら、お互いを救おうと足掻くことなど、最早できないのだ。あれは過去なのだ。若かったのだ。そして愚かだっただけなのだから。
 今の自分にできることは、生きることだけなのだ。こんな自分でも死んでしまえば、彼女はきっと泣くだろう。悲しんで欲しくない。だから生きるのだ。いつまでも生きるのだ。
 いつか、あの愚かなまでに愛しい夏の日々を、笑って話せる日が来るのなら、そのときにやっとすれ違いが終わるような気がするのだ。そのときを待ちながら、まだ生き続けるしか、方法が思いつかなかった。愚かだと笑って欲しい。

 蝉の声が聞こえる。
 涙はまだ止まらない。

 そしてあたしはまだ生きている。

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