『優しい人』

2003年10月20日
 非道い人と、女は囁いた。熱に潤んだ、掠れた声音で。

「私の望みを知っているんでしょう?」

 疑問ではなく、確認のための言葉。

「ずっと知っていたんでしょう?」

 掠れた声は、耳に静かに響く。鼓膜の上を這いずり、少しでも何かを残そうとするかのように。無駄に足掻いていく。それがなんとも言えず、愛しかった。

「ええ」

 短く応じると、女は口元だけで笑った。猫のように大きな瞳が、静かに揺れていた。

「狡い人。非道い人」

 詰る声はどこまでも優しい。羽根や空気のように軽く、暖かく、心に染み渡るような。

「僕にはあなたの望みを叶えることはできない。けれど、あなたも知っていたのでしょう?」

 尋ねると、今度ははっきりと女は笑った。潤みがちな瞳が、ゆるりと微笑み、白い頬にも赤みが差した。

「ええ。知っていたわ」

 狡い人。狡い人。何度も何度も呟き、熱の籠もった声で女は囁いた。掠れていた声は、しっとりといつものなめらかさを取り戻している。

「ならば狡いのはあなたでしょう」

 言葉を返しながらも、男には笑うことができない。女のように悲しげに儚げに切なげに、そして嬉しそうに。

「痛み分けよ」

 そう言って、女は瞳を伏せた。すると途端に、顔から表情が消え去る。先ほどまでの微笑みが一瞬にして、空虚なまでの空々しさへと変化した。

「笑って」

 女は静かに囁く。感情のこもらない声で。

「笑って、今だけでも良いから」

 目を開くと、女はまた静かに微笑んだ。音もなく。
 そして男がぎこちなく、笑みを浮かべると、悲しそうな顔で笑った。そうして、男の引きつった笑いを愛しげに見つめた。

「ありがとう。愛しい人。優しい人。私のことは忘れても構わないから」

 私は忘れない。女はそう続け、男に背を向けた。

「……あなたは、何故…」

 男の問いかけは、最後まで言葉に成りはしなかった。けれど、女を振り向かせることには成功した。その顔を、男は見たいなどと思ってはいなかったけれど。

「女はね、恋を食べて生きていける唯一の生き物なのよ」

 男の願いが叶ったのか、逆光でその表情は見ることができなかった。
 けれどその声は、どこまでも優しく、ふと涙が溢れた。

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