幼い頃、とても悲しいことがあった。そして無慈悲なまでに残酷なこの世界を、恨もうと思った。
 けれど幼かった自分は、結局この世界を憎むことが出来なかった。憎みきれなかった。否、憎むという行為そのものが怖かった。たったそれだけの理由で、心の中に蓄積した感情に押しつぶされそうになり、最後には心が破裂した。

 そんなとき、救ってくれたのは姉だった。
「憎めばいいさ、この世界を」
 いつものように軽い口調で、歌うように姉は言った。けれどその声音は真剣そのもので、痛いほどに姉が悲しんでいることがわかった。破裂した心でも、他人の感情にだけは敏感だった。
「あんた、昔、言ったよね。憎むことは良くないと誰もが言う。ならばこの感情はどうして存在するのかって」
 確かに言った。ずっと昔のことだ。憎んではいけないと誰もが言った。何であっても憎むことは良くない。憎んではいけない。愛してあげなさいと、偽善にみちた言葉を教えてくれた。
 ならば、憎しみという感情はなんのためにあるのだろうか。誰もが否定するこの感情は、一体なんのためにあるのか。そんなことが気になった時期があったのだ。
「あのとき、あたしは答えを見つけられなかった。だから、今答えよう。それはね、あんたみたいな人のためにあるのさ。あんたみたいに、心が破裂しないように、心の安定を図るために、憎しみは存在するんだよ」
 愛と憎しみは表裏一体って言うだろうと、姉は続けた。
「だから憎めばいい。この世界を憎んでしまえばいい」

 だけど怖いんだ。そう本音を告げると、姉は小さく笑った。顔をくしゃっと歪め、嬉しいのにとても悲しそうな表情で。
「憎しみに溺れることが?」
 そうかもしれない。
 憎しみだけに心が染まってしまったら、きっと何も目に入らなくなってしまうだろう。憎い世界を壊したくて仕方がなくなってしまうだろう。
「じゃあ、約束しよう」
 姉は静かに言った。真剣な眼差しで。
「憎しみだけに染まって、誰かを殺してしまいそうになったら、あたしのところに来るんだ。そうしたら、あたしがあんたを止めてやる。命を賭けてでも止めてやる」
 だから憎んでしまえ。今のあんたは見てられないよと、姉はぽつりと零した。

 そして世界は憎しみの対象へと変わった。
 破けてしまった心に、薄皮を張り巡らせるためだけに。

     ◆◆◆

 予想してなかったと言えば、嘘になる。弟を信じていたと言えば、救われるかもしれないが、結局は何も変わらない。信じていなかった訳ではない。信じてはいた。ただ、心の底から信じていたのかと問われると、何も言えない。
 数年前、壊れかけた弟に憎しみの対象を与えた。そうすることで、破けてしまった心が少しでも元に戻れば良いと思った。
 優しい子だから、苦しいことがあったのに、何も憎めず、憎みたかった筈なのに、憎めなかった。憎しみを持つと言うことに、罪悪を感じていたのかもしれない。
 そんな愚かなまでの優しさは、彼の心を壊してしまった。憎めない憎しみと、不安と、悲しみや寂しさがふくれあがり、その心は破裂してしまったのだ。そんな彼を、見ていられなかった。
 だから、憎めばいいと言った。
 もし、彼が憎しみに溺れて、何も見えなくなってしまったなら、絶対に止めると約束した。

 約束なんてするもんじゃないね。
 呟くと、大きくなった弟が静かに笑ったのがわかった。口をくっと歪めるだけの笑い。無邪気さの欠片もない、どこか影の漂う微笑みだった。
「あなたが言ったんだ、憎んで良いと」
 そうだ、あたしが言ったんだ。けれど、あんたを止められなかった。
 何があったのかなんて知らない。けれど、彼は人を殺した。その事実は、新聞で知った。そして彼はあたしに会いに来た。止めてあげられなかったあたしに会いに来た。
「今でも止められると、思っているのか?」
 酷薄な笑み。胸のあたりがむかむかすると同時に、ちくちくと痛む。本当は泣き叫んでしまいたい。恥も外聞もなく、弟にさえ見せない弱い自分をさらけ出してしまいたい。
「今でも、命を賭けてくれるのか?」
 あんたがそれを望むなら。
 約束しちゃったからね。あたしはなんでもしようじゃないか。

 おいで。
 そういうと、彼は静かに歩いて此方にやってくる。右腕に血濡れの刀を下げて。誰かの血を吸って、赤黒く染まった刃をあたしは止めなければならない。
「来や」
 走る彼を止める術なんて、あたしは持っていない。
 けれど、これからの彼を止めることなら、出来ると思うんだ。

     ◆◆◆

 いつものように切り裂くのではなく、突き刺してしまったのは、姉の瞳の所為だろう。まっすぐな視線が怖かったのかもしれない。恐れることも、逸れることもないあの眼差しから、逃げたかったのかもしれない。
 一撃でなるべく深い傷を負わせなければ。そう思った。相手が実の姉であれ、何であれ。

 あっと思った時には、刀は半ばまで姉の胸にのめり込んでいた。血や油に濡れ、刃こぼれも起こしていた刀だ。手や腕に、肉の抵抗を感じた筈なのだが、それすら無かった。気づけば、凡てが終わっていた。
 そして気づいたと同時に、刀を引き抜こうとした。胸の奥がもやもやとして、気分が悪い。何かはわからないが、駄目だと思った。
「待て」
 が、姉の白い腕が自分の腕を掴んでいた。血の気の引いた白い腕に、筋が浮かんでいる。その上、小刻みに震えている。けれど、手のひらだけは別人のように力強かった。
「…約束なんてするもんじゃないね」
 血の塊を吐き出しながら、それでも姉は笑う。冗談を言うような口調で、軽く。
「あたしの罪は殺人示唆ってところかな。憎んで良いと言った、それがあたしの罪なのかもしれない。――けどね」
 肩で息をしながらの言葉は掠れていて聞き取りにくい。けれど、何を言わんとしているのかはすぐにわかる。それがとても不思議だと思った。
「――けど、あたしは約束を守らなきゃいけない。そうだろう? そのためなら、命だって賭けてやるさ。この命くらい、あんたにくれてやる」
 だからもう、終わりにしよう。
 続けて呟かれた言葉に、脳を揺さぶられた。

 姉さん。
 小さく呟くと、姉は微かに首をかしげた、ように見えた。
「あなたは、どうして」
 そこまでしてくれるのか。こんなにも愚かな自分のために。
 止めてくれないと、思っていた。止められないと思っていた。現に彼女はこうやって、自分に貫かれている。けれど、確かに止められた。受け止められた。
 避けることも、策を用いることもなく、ただ正面から受け止めてくれた。こうなったら、もう、前に進むことなど出来ない。そして、腕を捕まれ、帰ることすらままならない。
 相変わらず頭はぐらぐらと痛みを訴えるし、胃の奥が熱い。気を抜けば、胃液の塊を吐き出しそうになってしまう。苦しい。
「何を今更」
 それなのに、あなたは笑う。
「約束したじゃないか」
 嗚呼。

     ◆◆◆

 呆気にとられた顔が、いっそ小気味よかった。あの頃の、傷ついて破裂しそうだった弟の顔だったから。
 その顔から、さっきまでの嫌な笑いが消えて、だんだんと泣きそうな顔になっていく。ああ、まだ大丈夫。あたしは止めることができる。
「痛いだろう?」
 血塗れで言う言葉じゃないとは思いながらも、静かに問いかけた。
 するとやっぱり弟は珍妙な顔をして見せた。あなたの方が痛いだろうと、言いたげな。
「痛いだろう? 人を殺すっていうのは、殺される方も痛いけど、殺す方はもっと痛いんだ。憎んで我を忘れていても、その痛みは消えやしない。あんたも痛がってるじゃないか」
 泣きそうな顔で強がったって、誰も騙せやしなよ。そういってやると、彼は顔をしかめた。その歪んだ表情が泣きそうに見えて、笑ってやった。
「あたしの命をやるさ。だからもう、やめな。楽しくないだろう、こんなの。だからもう、終わりにしな」
 ふっと息を吐くと、意識が揺れた。ああ、終わるまえにちゃんと伝えなきゃ。
「それで、この痛みを忘れるな。そうすれば、憎んだって、この痛みで自分を思い出せるから」
 そうだろう。
 強くなれよ。誰かを憎むことで強くなるんじゃなくて、その逆で強くなってくれよ。

 そのために、あたしは命を賭けたんだから。

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