『訃報』

2003年11月26日
 ふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの妻の姿が消えていた。不審に思ってあたりを見渡すと、障子戸が少し開いており、月の光が静かに室内を照らしていた。

 上着を羽織り、障子を開けると、寝間着姿の妻が縁側に座り、月を眺めていた。何かを愛おしむように。
 羽水が無言で隣に腰を下ろしても、夕月は何も言わなかった。だから彼も、月に照らされた妻の横顔をしばらく見つめていた。

「香月が」

 先に口を開いたのは、夕月だった。彼女はあまり我慢強くない。長い間が嫌いなのだ。けれど、今日に限っては、口を開くまでに数分が経過していた。

「――死んだんだってな」
「……ああ」

 矢張り、と思った。羽水も無自覚ながらそのことを考えていたのだろう。普段はこんな夜中に目を覚ますことはない。
 香月――二人の長女の訃報を届けたのは、息子の月代だった。言おうか言うまいか、悩んだあげくのことだったらしい。
 あまりの衝撃に、二人そろってしばらく呆然としていたことは覚えている。娘が家を飛び出してから、十数年がたつが、あまり心配もしていなかった。何故か思いこんでいたのだ。彼女なら大丈夫だと。

「…香月は絶対に幸せだと思ってた。親不孝な娘だ」

 ぽつりぽつりと、夕月は呟く。その声にもいつもの覇気がない。急に老いてしまったかのように、力が無く、疲れ果てている。彼女らしくない。そう、思った。

「俺も思ってた。けど、これが現実なんだろうな」

 呟くと、吐息が溜息のように零れた。
 現実から逃げたくなる。娘がもういないとう事実にも、らしくない妻も、あまり見たくはない現実だ。

「私はな、あの子に憧れてたんだと思う」

 月を見つめていた視線を、膝の上の手に向け、夕月が小さく語り始めた。

「あの子は私にもお前にも似てないだろう? だからなんだか、少し羨ましかったし、あんな風になりたかったとも思ったんだ」
「……意外だな」
「そうか?」
「お前はもっと自分を好きなんだと思ってた。もっと自信があると」

 そう言い返すと、低く夕月が笑った。疲れたような、悲しいような。あまり見たくない、聴きたくもない笑いだった。

「そうかもな。私は私にそれなりに自信を持ってる。だけど、時には誰かに憧れたりもするのさ」
「…らしくないな」
「……そうか?」
「ああ」

 ふっと、溜息を吐き出した夕月が、やっと羽水を見た。紅い瞳が、濡れていた。

「らしくないと言われてもな…、お前の基準がわからないから何とも言えない」
「今のお前は…、そうだな、似合ってない」
「何に?」
「お前自身に」
「じゃあ、どんなのが私らしいんだ?」

 少しだけ考えて、羽水は頷いた。

「この場合、泣く俺を叱咤しながら慰めるのがお前らしいんじゃないのか?」
「……それ、自分で言ってて虚しくならないか?」
「五月蠅い」
「ああ、でも、そうだな。そっちの方が私らしい」

 そう言って、夕月は額を羽水の肩に押し当てて笑った。低い笑いではあったけれど、疲れた気配は少し和らいでいた。

「今日だけ、役を取り替えよう。頼むな、羽水」

 彼女が、泣きたがっているのだと。羽水はそう思った。だから、妻の頭を抱き寄せ、一度だけ頷いた。

「羽水」
「ん?」
「お前は死ぬなよ」
「お前もな」

 泣き顔を見られるのを、彼女はきっと良しとしないだろう。
 だから羽水は月を眺めた。
 今はそこにいるであろう、娘に思いをはせながら。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索