ふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの妻の姿が消えていた。不審に思ってあたりを見渡すと、障子戸が少し開いており、月の光が静かに室内を照らしていた。
上着を羽織り、障子を開けると、寝間着姿の妻が縁側に座り、月を眺めていた。何かを愛おしむように。
羽水が無言で隣に腰を下ろしても、夕月は何も言わなかった。だから彼も、月に照らされた妻の横顔をしばらく見つめていた。
「香月が」
先に口を開いたのは、夕月だった。彼女はあまり我慢強くない。長い間が嫌いなのだ。けれど、今日に限っては、口を開くまでに数分が経過していた。
「――死んだんだってな」
「……ああ」
矢張り、と思った。羽水も無自覚ながらそのことを考えていたのだろう。普段はこんな夜中に目を覚ますことはない。
香月――二人の長女の訃報を届けたのは、息子の月代だった。言おうか言うまいか、悩んだあげくのことだったらしい。
あまりの衝撃に、二人そろってしばらく呆然としていたことは覚えている。娘が家を飛び出してから、十数年がたつが、あまり心配もしていなかった。何故か思いこんでいたのだ。彼女なら大丈夫だと。
「…香月は絶対に幸せだと思ってた。親不孝な娘だ」
ぽつりぽつりと、夕月は呟く。その声にもいつもの覇気がない。急に老いてしまったかのように、力が無く、疲れ果てている。彼女らしくない。そう、思った。
「俺も思ってた。けど、これが現実なんだろうな」
呟くと、吐息が溜息のように零れた。
現実から逃げたくなる。娘がもういないとう事実にも、らしくない妻も、あまり見たくはない現実だ。
「私はな、あの子に憧れてたんだと思う」
月を見つめていた視線を、膝の上の手に向け、夕月が小さく語り始めた。
「あの子は私にもお前にも似てないだろう? だからなんだか、少し羨ましかったし、あんな風になりたかったとも思ったんだ」
「……意外だな」
「そうか?」
「お前はもっと自分を好きなんだと思ってた。もっと自信があると」
そう言い返すと、低く夕月が笑った。疲れたような、悲しいような。あまり見たくない、聴きたくもない笑いだった。
「そうかもな。私は私にそれなりに自信を持ってる。だけど、時には誰かに憧れたりもするのさ」
「…らしくないな」
「……そうか?」
「ああ」
ふっと、溜息を吐き出した夕月が、やっと羽水を見た。紅い瞳が、濡れていた。
「らしくないと言われてもな…、お前の基準がわからないから何とも言えない」
「今のお前は…、そうだな、似合ってない」
「何に?」
「お前自身に」
「じゃあ、どんなのが私らしいんだ?」
少しだけ考えて、羽水は頷いた。
「この場合、泣く俺を叱咤しながら慰めるのがお前らしいんじゃないのか?」
「……それ、自分で言ってて虚しくならないか?」
「五月蠅い」
「ああ、でも、そうだな。そっちの方が私らしい」
そう言って、夕月は額を羽水の肩に押し当てて笑った。低い笑いではあったけれど、疲れた気配は少し和らいでいた。
「今日だけ、役を取り替えよう。頼むな、羽水」
彼女が、泣きたがっているのだと。羽水はそう思った。だから、妻の頭を抱き寄せ、一度だけ頷いた。
「羽水」
「ん?」
「お前は死ぬなよ」
「お前もな」
泣き顔を見られるのを、彼女はきっと良しとしないだろう。
だから羽水は月を眺めた。
今はそこにいるであろう、娘に思いをはせながら。
上着を羽織り、障子を開けると、寝間着姿の妻が縁側に座り、月を眺めていた。何かを愛おしむように。
羽水が無言で隣に腰を下ろしても、夕月は何も言わなかった。だから彼も、月に照らされた妻の横顔をしばらく見つめていた。
「香月が」
先に口を開いたのは、夕月だった。彼女はあまり我慢強くない。長い間が嫌いなのだ。けれど、今日に限っては、口を開くまでに数分が経過していた。
「――死んだんだってな」
「……ああ」
矢張り、と思った。羽水も無自覚ながらそのことを考えていたのだろう。普段はこんな夜中に目を覚ますことはない。
香月――二人の長女の訃報を届けたのは、息子の月代だった。言おうか言うまいか、悩んだあげくのことだったらしい。
あまりの衝撃に、二人そろってしばらく呆然としていたことは覚えている。娘が家を飛び出してから、十数年がたつが、あまり心配もしていなかった。何故か思いこんでいたのだ。彼女なら大丈夫だと。
「…香月は絶対に幸せだと思ってた。親不孝な娘だ」
ぽつりぽつりと、夕月は呟く。その声にもいつもの覇気がない。急に老いてしまったかのように、力が無く、疲れ果てている。彼女らしくない。そう、思った。
「俺も思ってた。けど、これが現実なんだろうな」
呟くと、吐息が溜息のように零れた。
現実から逃げたくなる。娘がもういないとう事実にも、らしくない妻も、あまり見たくはない現実だ。
「私はな、あの子に憧れてたんだと思う」
月を見つめていた視線を、膝の上の手に向け、夕月が小さく語り始めた。
「あの子は私にもお前にも似てないだろう? だからなんだか、少し羨ましかったし、あんな風になりたかったとも思ったんだ」
「……意外だな」
「そうか?」
「お前はもっと自分を好きなんだと思ってた。もっと自信があると」
そう言い返すと、低く夕月が笑った。疲れたような、悲しいような。あまり見たくない、聴きたくもない笑いだった。
「そうかもな。私は私にそれなりに自信を持ってる。だけど、時には誰かに憧れたりもするのさ」
「…らしくないな」
「……そうか?」
「ああ」
ふっと、溜息を吐き出した夕月が、やっと羽水を見た。紅い瞳が、濡れていた。
「らしくないと言われてもな…、お前の基準がわからないから何とも言えない」
「今のお前は…、そうだな、似合ってない」
「何に?」
「お前自身に」
「じゃあ、どんなのが私らしいんだ?」
少しだけ考えて、羽水は頷いた。
「この場合、泣く俺を叱咤しながら慰めるのがお前らしいんじゃないのか?」
「……それ、自分で言ってて虚しくならないか?」
「五月蠅い」
「ああ、でも、そうだな。そっちの方が私らしい」
そう言って、夕月は額を羽水の肩に押し当てて笑った。低い笑いではあったけれど、疲れた気配は少し和らいでいた。
「今日だけ、役を取り替えよう。頼むな、羽水」
彼女が、泣きたがっているのだと。羽水はそう思った。だから、妻の頭を抱き寄せ、一度だけ頷いた。
「羽水」
「ん?」
「お前は死ぬなよ」
「お前もな」
泣き顔を見られるのを、彼女はきっと良しとしないだろう。
だから羽水は月を眺めた。
今はそこにいるであろう、娘に思いをはせながら。
コメント