ただいま。
 耳に届いた懐かしい声に、葵は部屋を飛び出した。それはどんなことがあっても聞き間違えることのない声だ。彼のおかげで、葵の聴力はぐんと良くなった。
 自室から玄関までの、普段なら何気ない距離が、今はもどかしくて仕方がない。
 けれど彼に会いたかった。この家にいる、誰よりも早く。

「春日!」

 玄関まで行くのが面倒で、庭を駆け下りて叫ぶと、遠くの人影がこちらを向いた。

「ただいま、葵」

 そう言って、春日は記憶の中にあるものと、全く同じ笑みを浮かべた。
 けれど葵が駆け寄ると、その笑みを曇らせ、彼は小さく苦笑した。

「裸足は危ないよ」

 言われて、葵はきょとんとした顔をした。それから数秒おいて、ああと呟き、自分の足を見下ろした。あまり手を加えられていない、自然のままの庭は、葵の足に細かな傷を付けていた。
 だが、葵にとってそんな傷は大した物ではなかった。
 言いたいことは山のようにあった。春日がいない間に、いろんなことが起きた。そのことも伝えたかったけれど、何より会いたかったと、言葉にしたかった。

「……お帰り」

 けれどぐっと言葉に詰まってしまい、結局彼女は平凡な言葉を発した。

「ただいま、葵」

 春日はそんな葵の葛藤を、軽く見越しているような笑顔を向けた。
 そして葵の髪を一房つまみ、考えるような仕草を見せた。

「間に合った、よね?」

 葵は小さく頷き、そのまま俯いた。
 髪を切ったのは、一年前のことだった。結婚しようと指切りをしたのは、春日からだった。だが、彼は葵が適齢期に入っても、矢張り旅ばかりしていた。それはそれで構わないと思った。とても彼らしいとも思った。
 それでも矢張り、葵は不安だった。
 だから髪を切った。彼が旅に出ると挨拶に来たその場で。そうして宣言したのだ。『この髪が元に戻るまでは待つ』と。
 そうして、彼は帰ってきてくれた。葵の言葉を覚えていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。彼女は本当に嬉しかったのだ。

「それじゃあ、約束通り」

 春日は俯いた葵の顔をのぞき込むようにして、笑った。この男の、いつだって余裕のある態度が、嫌いで、大好きで、愛おしくて葵はまた少し俯いた。

「結婚して下さいますか、お姫様」

 出会ったばかりの時と同じように言われ、葵の喉が震えた。言葉は喉の奥に詰まってしまい、掠れた嗚咽とともに、涙が溢れ出す。
 そんな彼女を見て、春日はそっとその身体を抱きしめた。

「返事はくれないの?」

 意地悪く聞いてくる彼の胸で、葵は何度も首を振り、頷いた。
 嬉しかった。けれどもう、何も言わないで欲しかった。今の気持ちを言葉にしたり、されたりしたら、全部終わってしまうような気がした。
 春日はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、彼女の身体を黙って抱きしめ続けてくれた。

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