『Don’t say any more, dear』
2004年1月31日 狐 ただいま。
耳に届いた懐かしい声に、葵は部屋を飛び出した。それはどんなことがあっても聞き間違えることのない声だ。彼のおかげで、葵の聴力はぐんと良くなった。
自室から玄関までの、普段なら何気ない距離が、今はもどかしくて仕方がない。
けれど彼に会いたかった。この家にいる、誰よりも早く。
「春日!」
玄関まで行くのが面倒で、庭を駆け下りて叫ぶと、遠くの人影がこちらを向いた。
「ただいま、葵」
そう言って、春日は記憶の中にあるものと、全く同じ笑みを浮かべた。
けれど葵が駆け寄ると、その笑みを曇らせ、彼は小さく苦笑した。
「裸足は危ないよ」
言われて、葵はきょとんとした顔をした。それから数秒おいて、ああと呟き、自分の足を見下ろした。あまり手を加えられていない、自然のままの庭は、葵の足に細かな傷を付けていた。
だが、葵にとってそんな傷は大した物ではなかった。
言いたいことは山のようにあった。春日がいない間に、いろんなことが起きた。そのことも伝えたかったけれど、何より会いたかったと、言葉にしたかった。
「……お帰り」
けれどぐっと言葉に詰まってしまい、結局彼女は平凡な言葉を発した。
「ただいま、葵」
春日はそんな葵の葛藤を、軽く見越しているような笑顔を向けた。
そして葵の髪を一房つまみ、考えるような仕草を見せた。
「間に合った、よね?」
葵は小さく頷き、そのまま俯いた。
髪を切ったのは、一年前のことだった。結婚しようと指切りをしたのは、春日からだった。だが、彼は葵が適齢期に入っても、矢張り旅ばかりしていた。それはそれで構わないと思った。とても彼らしいとも思った。
それでも矢張り、葵は不安だった。
だから髪を切った。彼が旅に出ると挨拶に来たその場で。そうして宣言したのだ。『この髪が元に戻るまでは待つ』と。
そうして、彼は帰ってきてくれた。葵の言葉を覚えていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。彼女は本当に嬉しかったのだ。
「それじゃあ、約束通り」
春日は俯いた葵の顔をのぞき込むようにして、笑った。この男の、いつだって余裕のある態度が、嫌いで、大好きで、愛おしくて葵はまた少し俯いた。
「結婚して下さいますか、お姫様」
出会ったばかりの時と同じように言われ、葵の喉が震えた。言葉は喉の奥に詰まってしまい、掠れた嗚咽とともに、涙が溢れ出す。
そんな彼女を見て、春日はそっとその身体を抱きしめた。
「返事はくれないの?」
意地悪く聞いてくる彼の胸で、葵は何度も首を振り、頷いた。
嬉しかった。けれどもう、何も言わないで欲しかった。今の気持ちを言葉にしたり、されたりしたら、全部終わってしまうような気がした。
春日はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、彼女の身体を黙って抱きしめ続けてくれた。
耳に届いた懐かしい声に、葵は部屋を飛び出した。それはどんなことがあっても聞き間違えることのない声だ。彼のおかげで、葵の聴力はぐんと良くなった。
自室から玄関までの、普段なら何気ない距離が、今はもどかしくて仕方がない。
けれど彼に会いたかった。この家にいる、誰よりも早く。
「春日!」
玄関まで行くのが面倒で、庭を駆け下りて叫ぶと、遠くの人影がこちらを向いた。
「ただいま、葵」
そう言って、春日は記憶の中にあるものと、全く同じ笑みを浮かべた。
けれど葵が駆け寄ると、その笑みを曇らせ、彼は小さく苦笑した。
「裸足は危ないよ」
言われて、葵はきょとんとした顔をした。それから数秒おいて、ああと呟き、自分の足を見下ろした。あまり手を加えられていない、自然のままの庭は、葵の足に細かな傷を付けていた。
だが、葵にとってそんな傷は大した物ではなかった。
言いたいことは山のようにあった。春日がいない間に、いろんなことが起きた。そのことも伝えたかったけれど、何より会いたかったと、言葉にしたかった。
「……お帰り」
けれどぐっと言葉に詰まってしまい、結局彼女は平凡な言葉を発した。
「ただいま、葵」
春日はそんな葵の葛藤を、軽く見越しているような笑顔を向けた。
そして葵の髪を一房つまみ、考えるような仕草を見せた。
「間に合った、よね?」
葵は小さく頷き、そのまま俯いた。
髪を切ったのは、一年前のことだった。結婚しようと指切りをしたのは、春日からだった。だが、彼は葵が適齢期に入っても、矢張り旅ばかりしていた。それはそれで構わないと思った。とても彼らしいとも思った。
それでも矢張り、葵は不安だった。
だから髪を切った。彼が旅に出ると挨拶に来たその場で。そうして宣言したのだ。『この髪が元に戻るまでは待つ』と。
そうして、彼は帰ってきてくれた。葵の言葉を覚えていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。彼女は本当に嬉しかったのだ。
「それじゃあ、約束通り」
春日は俯いた葵の顔をのぞき込むようにして、笑った。この男の、いつだって余裕のある態度が、嫌いで、大好きで、愛おしくて葵はまた少し俯いた。
「結婚して下さいますか、お姫様」
出会ったばかりの時と同じように言われ、葵の喉が震えた。言葉は喉の奥に詰まってしまい、掠れた嗚咽とともに、涙が溢れ出す。
そんな彼女を見て、春日はそっとその身体を抱きしめた。
「返事はくれないの?」
意地悪く聞いてくる彼の胸で、葵は何度も首を振り、頷いた。
嬉しかった。けれどもう、何も言わないで欲しかった。今の気持ちを言葉にしたり、されたりしたら、全部終わってしまうような気がした。
春日はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、彼女の身体を黙って抱きしめ続けてくれた。
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