『青空の誘惑』

2004年2月12日
 からりとした風が頬を撫でる。冷たくて、渇いていて、ぴりぴりとした感触ばかりを残していく、嫌な風だ。
 けれどその風に促されるように顔を上げれば、目の前に青空が広がる。冬の澄んだ空気の中で、ぴりぴりする風の中で、きらきらと輝き出しそうな空。
 手を伸ばせば、きっと届く。触れられはしないけれど、きっと届く。
 そんな、甘い幻想を抱かせるほどに、青い空。
 時折、千切れた雲が流れていく。上空は風がここより、もっと強いらしい。
 こんな冷たい風に打たれていては、雲は相当痛いに違いない。そんな子供じみた、考えを軽く笑う。悪い気分はしなかった。
 万歳をするように、両手を空に向かって差し出した。あの青に、届くように届くように。背伸びまでして、背筋をいつも以上にぴんと張って、両手を伸ばす。

 冷たい風に煽られて、この屋上から飛び降りれば、空に行けるだろう。それは間違いない。だらりと下げた自分の両腕を見ながら、一人思う。
 結局、そうでもしない限り、届きはしないのが空なのだ。あの澄んだ青。きらきらと輝いて、弱い心を誘惑する空。淡い希望を抱かせ、緩やかな感動を与え、それでもそれだけの青空。
 あんなに綺麗で、あんなに壮大で、あんなに儚くて、あんなに傲慢で、あんなに寂しくて、あんなに遠いものなんて、きっと他には無いだろう。
 誰も生きたまま空へは行けないのだから。
 力強く羽ばたく鳥でさえ、地上に巣を持つ。彼らであっても、帰る場所は空ではない。空へは、生きては行けないのだから。
 だからきっと空はあんなにも青いのだ。誰も届かないから。誰にも染められないから。いつだって、孤独であるから。あれだけ壮大でありながら、誰も触れられないのだから。

 青空の誘惑はとても甘美な物だった。
 此処ではない、どこか遠い世界への旅を誘ってくれるのだから。重苦しい肉体を捨て去り、薄皮一枚も守ってくれない心一つで、旅立っていけるのだから。
 矢張り、空も寂しいのだろうか。
 美しくありながら、いつの日もたった独り。空は壮大すぎる。だから誰も隣には並べない。地上を覆う大地や海でさえ、空の友とはなれない。空は強すぎた。それ故に、孤高なのだろう。
 孤高故に美しく、壮大すぎるが故に孤高である空。
 その空の誘惑は、とてもちっぽけだ。ほんの一瞬、心が揺らぐくらいの物でしかない。それはなんと、幼い美しさだろう。

 残念ながら、その誘惑には従えない。
 空に手が届けばと思う。空に行けたならと思う。空をこの手で掴みたいと、心底願う。けれどそれだけだ。そのために身体を棄てることはできないし、心だけ飛び立たせることもできない。
 中途半端な願いは、保留となり、いずれ忘れ去られてしまうだろう。
 空があまりに青く、あまりに強大で、あまりに美しかったから、その願いを持ち続けることもできない。何故なら、決して叶わない夢を追い続けられるほど、もう幼くはない。将来を見なければならない。明日を考えなければならない。未来を知らなければならない。
 だからもう、空を追いかけられない。
 きっともう、空を見ても、何も思わないだろう。
 手を伸ばそうとも、屋上から飛び降りようとも。空はもう、自分にとって、そこにあるだけの存在となってしまった。貼り付けられた風景と、何一つ変わらない存在。その孤独も、寂寥も、きっと感じられなくなる。
 別れの言葉を述べようとしたところで、空が赤く染まり始めた。

 ……なんだ。

 誰も染められないなんて、嘘だ。空がたった独りであるなんて、嘘だ。あまりに壮大で隣に誰も並べないなんて、嘘だ。
 太陽がいる。太陽がいた。太陽だけは空を好きに染めることができる。
 空は独りじゃない。あの誘惑は、ただの勘違いだ。ただ心が弱かったから、誰かの、何かの所為にしたかっただけだ。此処じゃない世界に生きたかったのは、僕だ。生きていられない世界に行きたかったのは、僕だ。
 孤独だったのも、きっと僕だ。
 けれど空にも太陽がいた。薄い、白に近い青から、黒によく似た藍色へ、そして誰にも真似できない茜色と、空の色を変えてしまう太陽が。それは孤独でない何よりの証拠だ。孤独でいたならば、何も変わらない。隣に誰かいるからこそ、語らい会うからこそ、心が揺れる、感情が生まれる。
 ならば、僕という存在にも、隣に並ぶ誰かがいたはずなのだ。いるはずなのだ。
 青とオレンジが混ざり合った、紫の夕焼けを見ながら、僕は微かに笑い、小さく泣いた。 

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