『春一番』

2004年2月29日
 山奥といっても差し支えがない村は、冬になれば雪に覆われてしまう。
 けれど獣人というのは、人間よりも寒さに強いらしい。それに生まれも育ちも山奥なのだから、寒さには当然慣れている。子供など、雪が降ろうが、お構いなしに外で飛び跳ねているのが常だ。
 月代はさくさくと雪を踏みしめながら、獣道を歩いていた。
 村を守るように囲んでいる森の中に、人が使うような道はない。これほど山奥まで入り込んでくる人間はまずいない。その上、村の住人も森から外へ出ようとはしないからだ。
 けれど月代にとっては、森の中は庭のようなものだ。姉や従兄妹と共に、幼い頃から走り回った遊び場なのだから。

 緩やかな上り坂を登り切ると、少しばかり木々が開けている場所がある。大きく深呼吸をして、身体から力を抜いた。
 吐く息が白く染まり、銀世界にとけ込んでいった。
 それと同時に、火照った身体を、冷たい空気が内側から冷やし始めた。それがどことなく心地良い。
 だが、だからといって、身体が冷え切ってしまわぬように、筋肉を解しながら、月代は目当てのものを探して、ぐるりと辺りを見回した。
 最近は彼も忙しい。今は亡き従兄の仕事を引き継いだり、神官長である伯父の仕事を手伝ったりと、しなければならないことが溢れかえっている。
 そして、それより何より重要なこともある。自身の結婚だ。
 この異常な忙しさも、全ては言ってしまえばそのためなのだ。身を固めるとか、一家の長となるとか、そんなこじつけのような理由で、彼にもきちんとした身分を与えることになってしまったのだ。元々身分は持っていた。が、それに次期神官長という、重しが更に乗せられたのだ。
 おかげで忙しい。はっきり言って尋常ではない。なにやら複雑な手続きやら儀式やらを踏まねばならないし、それが終わったら、山のような雑務が待っているのだ。
 そのため婚約者の若桜に会う時間もままならない。だからこそ、今日はなんとか休みをひねり出したのだ。とは言っても、休むと上司である伯父に宣言しただけなのだが、あっさり通ってしまった辺り、彼の配慮なのかもしれない。
 久々の逢瀬であるが、本当に久しぶり過ぎて、手ぶらでは行きにくいものがあった。そうして、月代は山を登っているのだ。

 目当ての物はすぐに見つかった。銀色の雪の中で、震えるように小さな紅い蕾。近寄れば、遠目には見えなかったが、白い蕾もその側に存在した。
 まるで夫婦のように寄り添っている、二本の梅だ。
 今はまだ堅い蕾だが、もう少しすればきっと花開く。月代の勘が彼にそう告げていた。だからこそ、こんな山奥まで登ってきたのだ。
 少しばかり悩んで、彼は白い蕾のついた枝を手に取った。三つ蕾がついている枝から、雪を払い落とす。そうして、手折った。
 彼女には紅梅よりも、白梅の方が似合うだろう。月代はそう思った。銀色の髪は良いが、若桜の青い瞳と紅い梅は反発してしまう。それに彼女は深紅よりも、もっと柔らかな印象があるからだ。その名の通り、薄紅色にも似た。
 白梅を選んだ理由として、もう一つ。意図したわけではないが、恐らく無意識に、紅梅を彼女に選べない理由があった。
 紅は、深紅は、彼にとって、もっとも身近にいた人の色だからだ。

 一つ息を吐いて、月代は踵を返した。
 できるだけ早く、長く、若桜に会いたくなった。

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