『昔話』

2004年3月6日
 養い親はいつになく真剣な顔をして、親族に会う気はないかと葉月に問うた。
 葉月はその言葉に首を傾げ、それから別に良いよと答えた。本当にそう思っていたのだ。
 彼にとって親戚とは、昔は両親だけだった。今では母親の従兄妹にあたる、養い親の氷河と、その妹である蒼呼しか知らない。彼らは皆優しかったし、葉月にとっては家族だった。
 見たこともない親戚を、家族と思えるかと聞かれれば、少しばかり悩んでしまうだろう。けれど、邪険にする必要も、何一つ思い浮かばなかったのだ。

 母や氷河の故郷は、山の奥にあった。悪い人間がやってこないように、そんな場所にあるのだと教えられた。まるで昔話のようだと、葉月は思った。
 濃い緑と土の匂いの中をしばらく歩き続ける。道なき道であったが、同行している氷河はきちんとわかって進んでいるようだった。
 途中でどうして方向がわかるのかと聞くと、彼は小さく笑っただけで、答えてくれなかった。けれどその笑い方から、きっとこの森は氷河にとって、大事な場所だったのだろうと、葉月は感じとった。
 森を進んでいくと、自然と息が上がってくる。葉月は小さい頃から外で遊んでいたため、基礎体力はそれなりについていたが、それでも延々と続く獣道には、うんざりし始めた頃だった。
 氷河が足を止め、振り返った。
「良い?」
 何が、とは言われなかった。葉月も問い返さなかった。
「良いよ」
 ただ、頷きながら言葉を返した。

 森の中にぽつりと泉が湧いていた。その周囲だけ、木々が途切れている。
 そして其処に、一人の男が立っていた。
 綺麗な銀色の髪は、葉月と同じ。ふさふさとした柔らかそうな尻尾も、数は違えど同じものだ。ただ、泉を見つめる瞳は、葉月の母や、氷河と同じ、綺麗な紅だった。
「月代」
 氷河が何か言った。
 それとほぼ同時に、男が顔を上げて、こちらを向いた。葉月はそれが男の名前なのだろうと、数秒かけて理解した。頭がなかなか働いてくれなかった。
 時間が急に間延びしたような錯覚に襲われた。見開いた目を動かすことが出来なかった。緊張とは違う。恐怖でもない。ただ、何かの力に押されたかのように、身体を動かすことができなかった。
 そんな葉月の様子を悟ってか、氷河が軽く背中を押してくれた。大丈夫と言うように。まるで幼子をあやすかのように。
 だが、そのおかげで、やっと間延びした時間が元に戻った。ゆったりと、静かに、時間が戻ってきた。
「葉月」
 心配げに名前を呼ばれ、葉月は氷河を見上げ、小さく笑った。大丈夫と告げるように。

 男は月代と名乗った。
 母である香月の弟で、葉月の叔父にあたるそうだ。年の頃は二十代半ば辺りに見えたが、人狐族は人間とは年齢の取り方が違うらしい。葉月は初めて知った。
 月代は普通の青年だった。葉月が知る、たくさんの人間にどこかしら似ていた。そしてそれらの部分が合わさって、誰とも違う霧生月代という人物を作り出していた。
 少しだけ交わした会話はどこかぎこちなかったが、氷河が間に入ってくれたおかげで、潤滑に流れた。
 ただ、葉月が本名を名乗ったとき、葉月・K・ガイアスと告げたときの、少しだけ寂しげな顔が、印象的だった。

 気を遣ったのか、氷河が少しだけ席を外した。
 故郷を眺めてくると告げて、去っていった彼の姿が、木々に阻まれて見えなくなってから、叔父が呟いた。
「葉月」
「なに?」
 敬語は使わなかった。月代はどこか馴染みやすかったのだ。同じ目線になってくれているのではなく、最初から同じ舞台に上がってくれているような。
「姉さんに、似てるよ」
 ぽつりと、零れてしまったように、彼は呟いた。
「似てないけど、似てるよ」
 今度は噛みしめるように、呟かれ、葉月は少し戸惑った。
「叔父さん」
 呼びかける声に、途惑いは隠しきれなかっただろう。けれど、素直な気持ちを葉月は告げた。
「叔父さんも、やっぱり母さんに似てるよ」
「…………」
 月代は驚いたような顔をして、それから少し俯いた。
「……ありがとな」
 そして小さく笑った叔父の紅い瞳は、母よりも養い親によく似ていると思った。
 少し哀しげで、けれど優しくて、何かを愛しく思っている、彼の瞳だと思った。

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