『癒せない物』

2004年9月18日
 足りない足りない、物足りない。
 戻らない戻せない、どれだけ足掻いても。

 名前を呼ばれた気がした。
 メールを打っている携帯電話から顔を上げると、もう一度、カルテか何かを持った看護婦さんに名前を呼ばれた。
 はーい、と軽く返事をして、携帯をたたんでポケットに押し込む。隣に座っていたおばさんが、ちらりとこっちを見た気がした。

 久しぶりに入る診察室は、前に来たときとあまり変わっていなかった。何一つ変わっていないと言い切るには、あの頃の記憶は曖昧すぎる。
 だけどセンセイが座ってる椅子。
 黒い革張りの高そうなそれは、診察室の中でいつだって浮いていた。どっかの社長さんが座ってそうなものだけど、それが変わっていないことがなんとなく嬉しかった。
「久しぶりだね」
「うん、そだね。とってもお久しぶりです」
 センセイの声も変わってない、気がする。
 本当に自分は何も覚えていないんだなと思った。何一つ、覚えようとしていない。だからこんな時、多分同じとしか言えない。
 それからセンセイととりとめのない話をした。今日は予約があんまり入っていないらしい。待合室も人、全然いなかったし。珍しいと言ったら、今はお盆だからと言われた。そうか。お盆ってみんないなくなっちゃうんだ。
 そうやってのんびり話をしてると、いつもどうしてココに来たのか忘れそうになる。いや、実際のところ、半分以上忘れてる。ただ、行けと言われて、仕方なく何故か来てる。その程度。

 大分落ち着いたね。
 そう言われて、ちょっと面食らった。そうか、私は落ち着いたのか。まぁ、ちょっとイカれてたあの頃よりかは、断然まともになったと思うけど。それくらいの自覚はある。
 ああ、だけど。
 落ち着いたってことは、それだけ慣れてしまったってことであって、それだけ忘れてしまったってことなんじゃないだろうか。

 こんな場所に通ったって、結局変わらない。
 センセイは好きだし、ココに行くことでみんなが安心するなら、それくらい別に構わないけど、何一つ解決なんてできてやしない。
 どうしたって、足りない。
 どうしたって、戻らない。
 センセイもきっと分かってる。分かっていて、私と世間話をする。どうしようもないことを知ってるから、無理矢理なんとかしようとしない。だからセンセイは好き。
 病気じゃないし、怪我でもない。
 ただあの頃、なくしてしまったから、不安定だっただけ。それは病気だったかもしれないけど、今はその不安定ささえ、忘れてしまった。そうして落ち着いてしまっただけ。
 薬なんかで、埋められる空白なら、とっくに埋まってる。

 センセイ。
 もう、助けないでいいよ。

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