『Noblerot』

2005年7月27日 魔女
 貴腐なるこの身体。

 あっと思った頃には、時すでに遅し。盛大な音を立て、透明なグラスはフローリングにダイブし、砕け散ってしまった。細い華奢な脚に刻まれた、薔薇の柄が気に入っていただけに、少しばかり残念だ。
 窓からの光を受け、硝子の破片はキラキラと輝く。グラスという形を持っていたときよりも、儚いながら眩いきらめき。壊れてしまったというのに、輝き続ける姿は滑稽とも純粋とも言えると思った。
 型にはめ込まれた姿を嫌い、原始に帰りたがるようにも、壊れたことさえ気付かないようにも見えたから。

 破片を一つ拾い上げた。
 尖ったそれを光に当てていると、一瞬の抵抗の後、ぷつりと音が聞こえた。そして微かな熱。
 痛みはなかった。ただじんわりとそこだけに熱さが広がり、導かれるように一滴、血が流れ落ちただけだった。
 鋭利な切っ先を伝い落ちる血液は、透明な硝子を赤黒く染めた。光はとうに失われ、粘ついた独特の臭いばかりが広がる。光を一切通さない赤黒い液体。それがこの身体を通っているのだと思うと、吐き気にも似た感動がよぎる。
 この身体に流れる血は、人よりも黒い。皮膚を薄く切り裂けば、その下には真紅の液体ではなく、混ざりに混ざった貴腐ワインが詰まっているのだ。
 よく生きて来れたね。
 独白して、溜息を零した。

 母の祖母の曾祖母よりも、もっと昔の先祖は黒い血を持っていたらしい。伝承で伝わるだけの、禍々しくも信憑性のない噂話。その事実を知る人は、こっそりと陰口をたたいたかもしれない。だが彼らは、それが真実でないと心のどこかで知っているのだ。
 だからこそ、口に出すことができる。
 そして心優しい人は、そんな陰口に真剣に怒ってくれる。
 けれど本人は知っているのだ。
 それが真実だと。
 黒い血液は、代を重ねる事に薄くなっていく。真っ当な真紅と混ざり合い、少しずつ闇を払拭して行っている。けれど黒い絵の具にどんな色を混ぜても、結局黒にしか見えないようなもの。簡単には消え去ってくれない。
 腐った黒は、命に触れても、本当に生きてはくれない。
 そういうものなのだから。

 血の付いた硝子の欠片を、指から話す。
 軽い音がして、元いた場所に落下するそれは放っておいて、指先をジーンズで拭った。傷はどうせ深くもないし、硝子の切れ味からして、すぐに直るだろう。どうでもいい。
 貴腐という言葉が頭に浮かんだ。
 そんなものは嘘だ。
 腐ったら、腐っていくだけ。
 どこまでも落ちていくだけ。

 もう赤い血に戻れない、この血族のように。

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