鈍い鉄の匂いに思わず駆け出すと、荒野のど真ん中に見慣れた姿が腰を下ろしていた。がらくたとなりはてた馬車に寄りかかっている。片膝を立て、もう一方の足は力無く投げ出されている。頭も馬車の残骸に頼らせ、静かに青空ばかりを見つめている。
全身黒い服を着ているため目立たないが、下腹の辺りからははっきりと血の匂いがする。よく見れば裾が切り裂かれている。止血に使ったのだろう。
キールの足音に気づいたのか、彼女は物憂げな仕草で視線を寄越した。黒髪の隙間から見える深紅の瞳が、一瞬だけきらりと光った。
「よう、遅かったな」
「…………」
思わず言葉を失ったキールなどお構いなしに、彼女は喉の奥で低く笑った。頬についた擦り傷を無造作に拭い、しっかりを顔をこちらに向ける。そしてまた、笑った。
「見ての通り、この様だ。仕事は成功したけどな」
そんじょそこらの男などより、余程乱雑な言葉遣い。けれど彼女にはそんな雰囲気が似合っている。低いアルトの声が紡ぎ出すのは、仕事を終えた後の軽い疲労感だけだ。苦痛の色など、微塵も伺えない。
「…大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら、お前、眼科に行ってこい」
掠れた声で問うと、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑った。
それから、「痛むだけだ」と掠れた声で返事が返ってきた。先ほどと同じで苦痛の色など見えない声だが、ふとした拍子に零れる吐息からは、いつもの勢いがない。
そしてまた彼女は空を見上げた。
「見ろよ、坊主。空が青いぞ」
「リネア」
「すげぇなぁ。今ならきっと手が届く。そんな気がしないか?」
「リネア!」
「……なんだよ」
煩ぇ、と呟きながら、リネアがやっとこちらを向いた。
「早く町に戻るぞ。医者に行こう」
「いらねぇ」
「馬鹿、死ぬぞ?」
「馬鹿はお前だ。こんな傷で走り回ってみろ、出血多量で死ぬ」
「…………」
「馬車に揺られるのも御免だからな。内臓をやられてる」
ここから動かないという意志を見せつけると、彼女はまた喉の奥でくっと笑った。
死を目の前にしながら、彼女は笑った。それは自棄になった訳でもない、ましてや卑屈な笑いでもないし、狂った訳でもない。
「死にそうになると、何でだか知らないけど笑えてくるんだ。今までずっとそうだった。今も同じだ、腹の底から笑いたくて仕方がない」
「リネア……」
「馬鹿の一つ覚えみたいに呼ぶなよ、坊や。ああ、駄目だ、お前の顔見ると笑っちまう」
そう言ってくつくつと笑い出す女を、キールは呆然と眺めた。この女はいったい何なんだと、顔に書いてある。
死を覚悟しているのかもしれないが、その瞳はまっすぐに空を見ている。その紅い視線が時折、キールを見つめ、にやりと笑う。それは彼が知っているいつもの彼女だった。
「この空をよく覚えておけよ。あたしがこれから行く空だ」
「……そんなこと、言うな」
「聞きたくなきゃ、耳塞いでな」
長いつき合いの女から立ち上る死の香りを、認めたくない一心で足掻くと、ぴしゃりと返事が飛んでくる。
彼女はいつだってそうだった。
「人殺しの最期なんてこんなもんだろ」
ふっと笑いを納め、彼女はまた静かに空を見つめ返す。その目は本当は、もう何も見えていないのかもしれない。そんな不安が胸をよぎると同時に、キールの胸の中心に鈍い痛みが走った。それは忘れようとしても、気づかないようにしても、真実を暴く痛みだ。人を殺す者として、誰よりも死の瞬間を知るものとしての経験が告げる、警鐘なのだ。
「……座れば?」
唇を噛みしめて無言になったキールにそう促し、リネアは自分の右横の隙間を軽くたたいた。
キールはそこに吸い込まれるように、ふらりと腰を下ろす。小さい頃からいろいろと命令されてきた所為か、彼女の言葉にはなんとなく従ってしまう。
「人間って、死ぬために生きてるんだぜ。知ってたか?」
「…知るかよ」
「あ、そ。あたしの師匠が教えてくれたんだ。人間はいつか死ぬ。あたしらはそれをちょっと早めてるだけだって。詭弁だよな」
「ああ、俺もそう思う」
「で、その順番が回ってきた。それだけのことだ。……あーあ、もう痛みも感じやしねぇ」
言うだけ言って、リネアは身体から力を抜いた。馬車の残骸に全体重をかけていることがわかり、キールは思わず不安になった。
「おい」
「ん?」
「……なんでもない」
「へぇ?」
大丈夫かと聞きそうになった。けれどどう見ても大丈夫ではない彼女にそんなことを言えば、また馬鹿にされたあげく、坊やと呼ばれるのが落ちだ。
結局、どう足掻いてもこの人をとどめることなどできないのだ。その身体も、心も。
ふと胸の辺りから迫り上がってきた衝動に駆られ、少しばかり無理な体勢でリネアの身体を抱きしめた。
力の入っていない女の身体は、それだけでたやすく腕の中に収まる。いつも追いかけていた背中が、想像以上に小さかったことも、今になってようやく気づいた。
「…どうした?」
「……うるせぇ」
「はっ、あたしにそんなこと言うなんて言い度胸じゃないか。でもまぁ、今日は大目に見てやるよ」
「……」
きっと今、自分は泣きそうな貌をしている。そんな気がしたから、キールはリネアの顔を自分の胸に押し込んだ。彼女は抵抗らしい抵抗もしない。ただ「苦しい」と呟いただけだった。
それからぽんとキールの腕を軽くたたいた。
「お前、でかくなったなぁ」
「当たり前だ。最初に会った時から何年たったと思ってるんだ?」
「知るかよ。五、六年ってとこか? お前は生意気なガキだったことしか覚えてねぇよ」
「あんたはきつい上に我が侭だったよ」
初めてあった日のことを思い出す。あの頃はまだ十代の半ばにも達していない子供だった。何も知らない癖に、強がりばかり言う、ただの子供だったのだ。そんな記憶に小さく笑うとリネアも笑った。
それからしみじみとした口調で、笑いながら呟いた。
「大きくなったな、キール」
はっと顔を上げると、腕の中から猫のような大きな紅玉が笑っていた。
十歳以上年上のリネアがキールの名前を呼んだことは少ない。記憶にあるのは、初めての仕事を成功させたときとか、そんな特別な日くらいだ。何より彼女はキールを顎で使っていたから、名前など呼ぶ必要もなかったし、呼ぶときも坊やとか坊主とかそんな風に呼ばれていた。
だから彼女に名前を呼ばれるのは本当に久しぶりだったのだ。
「お前、死ぬなよ」
「無茶言うな…」
「死んでも良いけど、無駄に死ぬなよ。妥協するな、死に方には拘れ。時間と場所をきっちり弁えろ。そうでなきゃ、死ぬな」
「……」
「返事は?」
「あんたはなんだってそう、いつも無茶ばっかり言うんだ……」
掠れた声で言うと、リネアの身体が微かに震えた。笑っているのだ。
「無駄に死なれたくないからさ。生きろよ、キール」
生きるんだ。そう呟いたリネアの目は、微かに濁っていた。腕の中の身体からも、徐々に熱が喪われつつある。命の名残が、少しずつ消え去ろうとしているのが、肌で感じ取られ、キールは腕に力を込めた。
「…ああ、馬鹿、泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「涙は女の武器だ。男が垂れ流していいもんじゃない。もっと大事な時のために取っておけ」
見えていないのだろうに、否、見えていない所為か、リネアは非道く敏感にキールの思いを察した。
それからおぼつかない手つきで、そっとキールの頬に触れ、「やっぱり泣いてる」と呟いた。
「でも俺は」
「あん?」
「今、泣くのは正しいと思う」
「……」
「あんたが死ぬのは、嫌だから」
噛みしめるように呟く。しばらくの間、リネアは無表情を保っていたが、急に微笑んだ。蕾がほころぶように。血と死にまみれて生きてきたとは思えないほど、優しく静かな笑顔だった。
「お前、いい男になったよ」
「……」
「生きろよ、キール。あたしが死んでも、お前は生きてるんだ」
「わかってるよ」
それから、いつものように彼女はにやりと笑った。
「冥土の土産だ。貰っておけ」
そう言って、キールの唇に自らの唇を押し当て、もう一度笑った。
そして、静かに目を閉じた。
それだけだった。
そうして、誰よりも強く傲慢で優しかった女は、雲一つ無い青空へ飛びだっていった。
全身黒い服を着ているため目立たないが、下腹の辺りからははっきりと血の匂いがする。よく見れば裾が切り裂かれている。止血に使ったのだろう。
キールの足音に気づいたのか、彼女は物憂げな仕草で視線を寄越した。黒髪の隙間から見える深紅の瞳が、一瞬だけきらりと光った。
「よう、遅かったな」
「…………」
思わず言葉を失ったキールなどお構いなしに、彼女は喉の奥で低く笑った。頬についた擦り傷を無造作に拭い、しっかりを顔をこちらに向ける。そしてまた、笑った。
「見ての通り、この様だ。仕事は成功したけどな」
そんじょそこらの男などより、余程乱雑な言葉遣い。けれど彼女にはそんな雰囲気が似合っている。低いアルトの声が紡ぎ出すのは、仕事を終えた後の軽い疲労感だけだ。苦痛の色など、微塵も伺えない。
「…大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら、お前、眼科に行ってこい」
掠れた声で問うと、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑った。
それから、「痛むだけだ」と掠れた声で返事が返ってきた。先ほどと同じで苦痛の色など見えない声だが、ふとした拍子に零れる吐息からは、いつもの勢いがない。
そしてまた彼女は空を見上げた。
「見ろよ、坊主。空が青いぞ」
「リネア」
「すげぇなぁ。今ならきっと手が届く。そんな気がしないか?」
「リネア!」
「……なんだよ」
煩ぇ、と呟きながら、リネアがやっとこちらを向いた。
「早く町に戻るぞ。医者に行こう」
「いらねぇ」
「馬鹿、死ぬぞ?」
「馬鹿はお前だ。こんな傷で走り回ってみろ、出血多量で死ぬ」
「…………」
「馬車に揺られるのも御免だからな。内臓をやられてる」
ここから動かないという意志を見せつけると、彼女はまた喉の奥でくっと笑った。
死を目の前にしながら、彼女は笑った。それは自棄になった訳でもない、ましてや卑屈な笑いでもないし、狂った訳でもない。
「死にそうになると、何でだか知らないけど笑えてくるんだ。今までずっとそうだった。今も同じだ、腹の底から笑いたくて仕方がない」
「リネア……」
「馬鹿の一つ覚えみたいに呼ぶなよ、坊や。ああ、駄目だ、お前の顔見ると笑っちまう」
そう言ってくつくつと笑い出す女を、キールは呆然と眺めた。この女はいったい何なんだと、顔に書いてある。
死を覚悟しているのかもしれないが、その瞳はまっすぐに空を見ている。その紅い視線が時折、キールを見つめ、にやりと笑う。それは彼が知っているいつもの彼女だった。
「この空をよく覚えておけよ。あたしがこれから行く空だ」
「……そんなこと、言うな」
「聞きたくなきゃ、耳塞いでな」
長いつき合いの女から立ち上る死の香りを、認めたくない一心で足掻くと、ぴしゃりと返事が飛んでくる。
彼女はいつだってそうだった。
「人殺しの最期なんてこんなもんだろ」
ふっと笑いを納め、彼女はまた静かに空を見つめ返す。その目は本当は、もう何も見えていないのかもしれない。そんな不安が胸をよぎると同時に、キールの胸の中心に鈍い痛みが走った。それは忘れようとしても、気づかないようにしても、真実を暴く痛みだ。人を殺す者として、誰よりも死の瞬間を知るものとしての経験が告げる、警鐘なのだ。
「……座れば?」
唇を噛みしめて無言になったキールにそう促し、リネアは自分の右横の隙間を軽くたたいた。
キールはそこに吸い込まれるように、ふらりと腰を下ろす。小さい頃からいろいろと命令されてきた所為か、彼女の言葉にはなんとなく従ってしまう。
「人間って、死ぬために生きてるんだぜ。知ってたか?」
「…知るかよ」
「あ、そ。あたしの師匠が教えてくれたんだ。人間はいつか死ぬ。あたしらはそれをちょっと早めてるだけだって。詭弁だよな」
「ああ、俺もそう思う」
「で、その順番が回ってきた。それだけのことだ。……あーあ、もう痛みも感じやしねぇ」
言うだけ言って、リネアは身体から力を抜いた。馬車の残骸に全体重をかけていることがわかり、キールは思わず不安になった。
「おい」
「ん?」
「……なんでもない」
「へぇ?」
大丈夫かと聞きそうになった。けれどどう見ても大丈夫ではない彼女にそんなことを言えば、また馬鹿にされたあげく、坊やと呼ばれるのが落ちだ。
結局、どう足掻いてもこの人をとどめることなどできないのだ。その身体も、心も。
ふと胸の辺りから迫り上がってきた衝動に駆られ、少しばかり無理な体勢でリネアの身体を抱きしめた。
力の入っていない女の身体は、それだけでたやすく腕の中に収まる。いつも追いかけていた背中が、想像以上に小さかったことも、今になってようやく気づいた。
「…どうした?」
「……うるせぇ」
「はっ、あたしにそんなこと言うなんて言い度胸じゃないか。でもまぁ、今日は大目に見てやるよ」
「……」
きっと今、自分は泣きそうな貌をしている。そんな気がしたから、キールはリネアの顔を自分の胸に押し込んだ。彼女は抵抗らしい抵抗もしない。ただ「苦しい」と呟いただけだった。
それからぽんとキールの腕を軽くたたいた。
「お前、でかくなったなぁ」
「当たり前だ。最初に会った時から何年たったと思ってるんだ?」
「知るかよ。五、六年ってとこか? お前は生意気なガキだったことしか覚えてねぇよ」
「あんたはきつい上に我が侭だったよ」
初めてあった日のことを思い出す。あの頃はまだ十代の半ばにも達していない子供だった。何も知らない癖に、強がりばかり言う、ただの子供だったのだ。そんな記憶に小さく笑うとリネアも笑った。
それからしみじみとした口調で、笑いながら呟いた。
「大きくなったな、キール」
はっと顔を上げると、腕の中から猫のような大きな紅玉が笑っていた。
十歳以上年上のリネアがキールの名前を呼んだことは少ない。記憶にあるのは、初めての仕事を成功させたときとか、そんな特別な日くらいだ。何より彼女はキールを顎で使っていたから、名前など呼ぶ必要もなかったし、呼ぶときも坊やとか坊主とかそんな風に呼ばれていた。
だから彼女に名前を呼ばれるのは本当に久しぶりだったのだ。
「お前、死ぬなよ」
「無茶言うな…」
「死んでも良いけど、無駄に死ぬなよ。妥協するな、死に方には拘れ。時間と場所をきっちり弁えろ。そうでなきゃ、死ぬな」
「……」
「返事は?」
「あんたはなんだってそう、いつも無茶ばっかり言うんだ……」
掠れた声で言うと、リネアの身体が微かに震えた。笑っているのだ。
「無駄に死なれたくないからさ。生きろよ、キール」
生きるんだ。そう呟いたリネアの目は、微かに濁っていた。腕の中の身体からも、徐々に熱が喪われつつある。命の名残が、少しずつ消え去ろうとしているのが、肌で感じ取られ、キールは腕に力を込めた。
「…ああ、馬鹿、泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「涙は女の武器だ。男が垂れ流していいもんじゃない。もっと大事な時のために取っておけ」
見えていないのだろうに、否、見えていない所為か、リネアは非道く敏感にキールの思いを察した。
それからおぼつかない手つきで、そっとキールの頬に触れ、「やっぱり泣いてる」と呟いた。
「でも俺は」
「あん?」
「今、泣くのは正しいと思う」
「……」
「あんたが死ぬのは、嫌だから」
噛みしめるように呟く。しばらくの間、リネアは無表情を保っていたが、急に微笑んだ。蕾がほころぶように。血と死にまみれて生きてきたとは思えないほど、優しく静かな笑顔だった。
「お前、いい男になったよ」
「……」
「生きろよ、キール。あたしが死んでも、お前は生きてるんだ」
「わかってるよ」
それから、いつものように彼女はにやりと笑った。
「冥土の土産だ。貰っておけ」
そう言って、キールの唇に自らの唇を押し当て、もう一度笑った。
そして、静かに目を閉じた。
それだけだった。
そうして、誰よりも強く傲慢で優しかった女は、雲一つ無い青空へ飛びだっていった。
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