出会い

2009年1月14日 歌う指
 目を開けて真っ先に目に入ったのは、真っ白な敷布だった。
 何度か瞬きをして、やっと視界が霞んでいることに気がついた。焦点がうまくあわせられず、それほどの大きさでない枕が、やけに大きく感じた。身体にかけられた薄い掛布も、不思議と重く感じる。喉がからからに渇いていて、声が出ない。視界と同じように、思考にも靄がかかっているようだった。
 起きあがろうとしても、指一つ動かすことが出来なかった。
 浅い呼吸と、緩慢な瞬き。
 それが私にできる全てだった。
 自分がベッドの上にいることはわかったけれど、そこに至るまでの経緯ははっきりと思い出せない。このままどこかへ沈んでしまいそうなほど、全てが疲れ切っていた。記憶を手繰ることすら億劫な私を、現実に引き留めていたのは誰かの気配だった。
 軽い足音を響かせているのは若い女性だった。
 霞んでいた目が、漸く焦点を結んでくれるようになった頃、彼女は私が起きたことに気づいたようだった。腰をかがめて視線を合わせ、「おはよう」と言いながらにっこりと笑う。その琥珀色の目がとても綺麗だと思った。
「喉が渇いてるでしょう。起き上がれる?」
 首をかしげながらそう言われた。言われてみれば口の中ははからからに渇いていた。けれど返事をしようにも指一つ動かせない私に、起きあがることができるとは到底思えない。困ったまま応えあぐねていると、彼女はその反応も予想していたのだろう。背中の下に腕を差し入れ、ゆっくりと身体を持ち上げてくれた。それからクッションを積み上げて背もたれを作ると、少し待っててと言い、足早に部屋を出て行った。
 一人になると、またどこかへ沈んでしまいそうになった。
 沈んだ先はどんな場所だろう。
 そこにサーシャはいるんだろうか。
 そんなことを思った。

 折角起こしてもらった身体が、ずるずると落ちかけ始めた頃、先ほどの女性が盆を手に戻ってきた。彼女はまた倒れそうになっている私を見て、「あらあら」と笑いながら、また身体を支えてくれた。
「白湯よ。ゆっくり飲みなさい」
 彼女は私の手を取り、白い器を持たせた。ずしりと重いそれを、私が落とさないように、そっと重ねられた手のひらは温かかった。その温かさに、やっと身体が目を覚ましたかのようだった。ほんのりと湯気をたてた白湯を口に含むと、それは乾いた口の中ですぐに消えてしまった。また一口、喉を鳴らすように飲み込めば、身体の中に広がる熱が染み渡るようだった。凍えていた全身に、やっと血が通っていくような感覚。動かなかった身体と心が、目を覚ましたかのようだった。
 あっという間に一杯を飲み干すと、女性は満足気に笑った。
 そこまできて、私はやっと目の前の女性をしげしげと見つめた。年は二十歳くらいに見えた。背が高く、女性らしい丸みを帯びた身体をしている。栗色の髪は緩く巻いていて、つやがあった。肌は薄い褐色をしている。目が合うと微笑む琥珀色の瞳は柔らかく、とても魅力的な人だと思った。
「次は温かいスープにしましょうか」
 先ほどと同じように、今度はベッドに私を寝かせながら彼女は言った。
「もう少し寝ててちょうだいね?」
 温かい手のひらでそっと髪を撫でられると、もう駄目だった。
 自然と目蓋は落ち、私はまた沈んでいった。

 そして夢を見た。
 私はまだ森の中にいて、一人きりだった。
 サーシャもいない森の中で、空を見上げて訪れる死を待っている。
 そんな夢だった。

Lyra

2009年1月3日 歌う指
 歌が聞こえた。
 鬱蒼とした森の中では、鳥の声や木々がざわめく音しか聞こえない。そんな中にあって、小さな歌声はひどく目立って聞こえた。一体どんな人間がこんな場所で歌っているのか、僅かな興味からクロードはか細い声のする方向へと足を進めた。
 耳を澄ませば、それが子守歌だということはすぐにわかった。だが、それがわかったところで、疑問は一層膨らんだ。この場所は深い森の中だ。下っていけば街道もあるが、近くに村もないため、狩りに訪れる人間もほとんどいない。そんな場所にはあまりにも不釣り合いな歌声が、女のものであることは聞けばわかったが、小さくかすれた旋律からは、それ以外の何も伺うことはできなかった。
 獣道を広げるように歩きながら、彼は僅かに眉をひそめた。
 彼が進むべき道からは、死の匂いがした。それも一人二人ではなく、それなりの人数であることがわかる。
 死んだ人間と、歌う女。
 魔族の一種かとも思ったが、そういった気配は一切しない。この先にいるのは間違いなく人間だ。クロードの感覚はそう告げている。
 ますます深くなる疑念を胸に持ちながら、歩みを進めるとその光景が目の前に広がった。

 太い樹木の下にある二つの人影。
 足を投げ出すように座っている銀髪の少女。
 その足を枕にするように横たわった金髪の少女。
 頬に散った木漏れ日から逃げるように、閉ざされた目蓋。

 自分が息を飲んだ音が、はっきりと聞こえた。
 まるで一枚の絵画を見ているようだった。けれど絵画と呼ぶには救えないほどに、二人の少女は痩せこけ、命の輝きを失っていた。横たわった少女の笑みのない口元と色を失った頬が、彼女の末路をはっきりと物語っている。
 けれど座っている少女の方は、また少し様子が違った。彼女がクロードに聞こえた歌の主であることは間違いない。震えるように唇が動き、そこから吐息のような小さな歌声が溢れていた。枯れ枝のような指が、膝の上に置かれた金の髪を、時折ゆっくりと撫でる。その口元には微かな笑みすら見てとれた。そしてそれは酷く慈愛に満ちたものだった。
 それを見て、一瞬で理解することができた。この歌は横たわる少女を眠りへ誘う歌なのだろう。自らの尽きかけた命を削りながら、先に逝った者の安寧を願う歌なのだろう。
 鎮魂歌ではなく子守歌。
 そこにこの少女二人の全てが込められている気がした。

 クロードはそんな二人に近づいていった。完成していた空間を壊すように、無造作に足を進める。その間にも、歌はどんどんか細くなり、今にも消えてしまいそうな風情だった。少女達以外にも、あちこちに人間の死体が目に入ったが、それはあえて黙殺した。興味を持てなかったからだ。
 彼が少女の前に立つと、青白い頬に影がかかった。
 他人の存在にまるで気づいていないような少女の、すぐ横に膝をつきそっと頬に手をかざす。身体の中に渦巻くものを手のひらに集め、瀕死の人間に分け与えようとすれば、それは彼の意志に従おうとした。
 けれど、そこまでの行為をほとんど無意識に行ってから、クロードははたと相手が人間であることを思い出した。
 彼は魔族であるから、魔力を持っている。その量は個人差があり、それぞれが大きさの違う器を持っていると例えられる。そして瀕死の状態であったり、身体の損傷が激しい時であっても、魔力を回復させることでそれを生命力に変え、一時的にしのぐこともできる。
 その時は自分の器から、相手の器に魔力を流し込んでやればいいだけなので、さほど難しいことはない。ただし相手によっては、流し込みにくい形であったり、本人の魔力と上手く混ざらずに反発する場合もある。
 けれど人間は魔力を持っていない。当の本人達はわかっていないようだが、魔族から見れば人間が魔力を入れる器を持っているのはわかる。けれどその器は皆とても小さく、きっちりと蓋がされているのだ。従って、直接魔力を流し込むことができない。
 いつも魔族にするように、少女に命を分け与えることができないと分かり、クロードはふと我に返った。
 瀕死の人間をかろうじて生きながらえさせたとして、彼が去ればこの少女は近いうちに死ぬだろう。
 別にこの人間を助ける利点はなにもない。
 自分は何をしようとしていたのか、自問自答をしていると、静かに歌が止まった。
 そして長い睫が静かに震えた。
 人通りの少ない山奥の街道。
 それが木々の合間に見えなくなる距離で、私は太い幹に寄りかかっていた。でこぼこした根の間に腰を下ろし、足はだらしなく伸びている。土にまみれた素足から視線を動かしていくと、骨ばかりが目立つ膝小僧、汗と砂埃で薄汚れたスカートの裾、そして膝枕をするように横たわる金色の頭があった。
 横たわっているのは金髪の少女だった。私と同じように汚れた、同じような服を着ている。やせ細った肩は今にも折れてしまいそうだ。元々は綺麗な髪だったのかもしれない。けれど何日も洗っていない金色の髪はくすんでいて、その面影を伺うことはできなかった。
 時折風に揺れる髪を、指先で梳いてはみるものの、私の指もすでに汚れきっていて、輝きを取り戻すことはできそうにない。それでも髪を撫でるのは、それ以外に何をすればいいのかわからなかったからだ。
 髪の合間から見える頬や首から、赤い斑点が見えた。
 これは今年流行った感染症の特徴だった。その病気は高熱を伴い、早急に治療をしなければすぐに死に至る。その即効性故に、たくさんの人を死に至らしめたらしい。
 らしい、などと半端な表現をする必要は本当はない。その実体を私はあまり知らなかったけれど、今は知っている。
 高熱を発する病に倒れたはずの少女の頬に、手を滑らせる。
 ひんやりとした固い手触り。
「サーシャ」
 囁くように彼女の名前を呼んでも、応えは返らない。
 のろのろと視線を動かせば、同じような格好の数人の男女が、同じように倒れている。そして同じように動かない。
 生い茂る木々の隙間にある空を探し、私はまたサーシャの髪を撫でた。それ以外にすべきことが、本当に解らなかった。

 私とサーシャを含め、倒れている人たちは、全員が奴隷として売られていく所だった。馬車とは名ばかりの狭い箱に閉じこめられ、鎖で繋がれ、息を殺しながらどこかへ運ばれていく途中だった。身じろぎすれば埃が舞い上がるような空間で、敷き詰められた藁に埋もれ眠った。食事は一日に一度。固いパンの欠片のみ。
 サーシャは私が馬車に乗ってから、数日後にやってきて私の隣に繋がれた。誰もが諦めた表情で何も言わないのに対し、あの子はいつもすすり泣いていた。怖い怖いと呟きながらも、決して助けてとは言わない。そのか弱さと現実を受け止める強さの矛盾が不思議で、思わず髪を撫でたことから、サーシャは私に寄り添うようになった。
 多分、あの子は本当に怖かったのだ。本当にそれだけだったのだろう。
 助けを請うたところで、何も変わらない。けれど恐怖を胸の内にしまっておく程は強くなかったのだ。
 だから私はサーシャが泣いたときは、髪を撫でてやった。言葉を交わすことはなかったけれど、そうやって数日を過ごしてきた。
 サーシャが来て三日目の朝、目を覚ますと彼女は高熱を出していた。どうして良いか解らず、私はやっぱり髪を撫でていた。食事を持ってきた男はサーシャの様子に気づいたようだったけれど、何も言わずに固いパンを置いて去っていった。
 そして次の日、熱の下がらないサーシャを相変わらず撫でていると、その首元に赤い斑点があるのを見つけた。それの意味するところも私は知っていた。愕然とする私にサーシャの逆隣の男が気づき、視線を彷徨わせた後声を上げた。それは波のように広がり、狭い馬車の中は半狂乱に陥った。
 昨日と同じように食事を持ってきた男は、馬車の惨状をすぐに把握すると、舌打ちをして出ていった。
 そして私たち全員を馬車から出すと、森の中に追いやり、置き去りにした。
 不衛生な馬車の中で、誰かが病気になったということは、全員がその病気にかかると言うことだ。そして売る前に死ぬような奴隷に、食事を与える程彼らは暇ではない。そういうことだ。
 狭い馬車から解放されたとはいえ、両足についた鎖はそのままだった。逃げようと不自由ながら、歩き出した人もいれば、すぐに熱を出して倒れた人もいた。
 私はもたれかかってくる熱いサーシャの髪を、ただただ撫でていた。
 サーシャが泣くことしかできなかったように、私もそうすることしかできなかった。
 そしてそれは、彼女が死に、他のみんなが死んだ今でも変わらない。
 どうして私だけが、生き残ったのだろう。
 それは私が売られる以前に、この病気にかかり、きちんとした治療を受けていたからだろう。一度治れば、免疫がつくからもう大丈夫だと、当時医者に言われた言葉を思い出す。
 どうして私だけが、生き残ったのだろう。
 自問自答する中、確実に餓死が迫っていることも私は知っていた。
 サーシャを撫でることももうできそうにない。
 だから途切れそうになる意識の中で、私は子守歌を歌った。
 そうしたら、サーシャが少しでも喜んでくれる気がしたから。
 そう思うと、微かに笑みが浮かんだ。
 きっともう終わる。私もみんなと同じようになる。
 そう、だからもう大丈夫。

 そして私は目蓋を下ろした。

歌う指

2008年12月22日 歌う指
 小さな歌姫。
 あの人は私をそう呼んだ。
 愛した人の娘だと、柔らかく頬を撫でては目を細めた。

 父様。
 あの人を私はそう呼んだ。
 愛された人の面影を、歌に乗せては何かをなくした。

 ベル。
 あの人は私をそう呼んだ。
 そしていなくなった。

 兄様。
 あの人を私はそう呼びたかった。
 けれど言葉はいつも喉の奥でつっかえるばかりで。


 父様。
 貴方が愛した人は、まだどこかで生きているでしょう。
 なのに何故、彼の人を選ばなかったのですか。
 そして何故、よく似た人形を選んでしまったのですか。

 兄様。
 貴方が愛した妹は、もうどこにもいないのです。
 幻の海に溺れて、死んでしまったのです。
 あの腕を知ってしまったあの日から。



 リラ。
 あの人は私をそう呼ぶ。
 精一杯のざらついた優しさで。
 歌を零すだけの人形を、労るように呼んでくれる。

 だからもう、ここで果てることを私は決めた。

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