目を開けて真っ先に目に入ったのは、真っ白な敷布だった。
何度か瞬きをして、やっと視界が霞んでいることに気がついた。焦点がうまくあわせられず、それほどの大きさでない枕が、やけに大きく感じた。身体にかけられた薄い掛布も、不思議と重く感じる。喉がからからに渇いていて、声が出ない。視界と同じように、思考にも靄がかかっているようだった。
起きあがろうとしても、指一つ動かすことが出来なかった。
浅い呼吸と、緩慢な瞬き。
それが私にできる全てだった。
自分がベッドの上にいることはわかったけれど、そこに至るまでの経緯ははっきりと思い出せない。このままどこかへ沈んでしまいそうなほど、全てが疲れ切っていた。記憶を手繰ることすら億劫な私を、現実に引き留めていたのは誰かの気配だった。
軽い足音を響かせているのは若い女性だった。
霞んでいた目が、漸く焦点を結んでくれるようになった頃、彼女は私が起きたことに気づいたようだった。腰をかがめて視線を合わせ、「おはよう」と言いながらにっこりと笑う。その琥珀色の目がとても綺麗だと思った。
「喉が渇いてるでしょう。起き上がれる?」
首をかしげながらそう言われた。言われてみれば口の中ははからからに渇いていた。けれど返事をしようにも指一つ動かせない私に、起きあがることができるとは到底思えない。困ったまま応えあぐねていると、彼女はその反応も予想していたのだろう。背中の下に腕を差し入れ、ゆっくりと身体を持ち上げてくれた。それからクッションを積み上げて背もたれを作ると、少し待っててと言い、足早に部屋を出て行った。
一人になると、またどこかへ沈んでしまいそうになった。
沈んだ先はどんな場所だろう。
そこにサーシャはいるんだろうか。
そんなことを思った。
折角起こしてもらった身体が、ずるずると落ちかけ始めた頃、先ほどの女性が盆を手に戻ってきた。彼女はまた倒れそうになっている私を見て、「あらあら」と笑いながら、また身体を支えてくれた。
「白湯よ。ゆっくり飲みなさい」
彼女は私の手を取り、白い器を持たせた。ずしりと重いそれを、私が落とさないように、そっと重ねられた手のひらは温かかった。その温かさに、やっと身体が目を覚ましたかのようだった。ほんのりと湯気をたてた白湯を口に含むと、それは乾いた口の中ですぐに消えてしまった。また一口、喉を鳴らすように飲み込めば、身体の中に広がる熱が染み渡るようだった。凍えていた全身に、やっと血が通っていくような感覚。動かなかった身体と心が、目を覚ましたかのようだった。
あっという間に一杯を飲み干すと、女性は満足気に笑った。
そこまできて、私はやっと目の前の女性をしげしげと見つめた。年は二十歳くらいに見えた。背が高く、女性らしい丸みを帯びた身体をしている。栗色の髪は緩く巻いていて、つやがあった。肌は薄い褐色をしている。目が合うと微笑む琥珀色の瞳は柔らかく、とても魅力的な人だと思った。
「次は温かいスープにしましょうか」
先ほどと同じように、今度はベッドに私を寝かせながら彼女は言った。
「もう少し寝ててちょうだいね?」
温かい手のひらでそっと髪を撫でられると、もう駄目だった。
自然と目蓋は落ち、私はまた沈んでいった。
そして夢を見た。
私はまだ森の中にいて、一人きりだった。
サーシャもいない森の中で、空を見上げて訪れる死を待っている。
そんな夢だった。
何度か瞬きをして、やっと視界が霞んでいることに気がついた。焦点がうまくあわせられず、それほどの大きさでない枕が、やけに大きく感じた。身体にかけられた薄い掛布も、不思議と重く感じる。喉がからからに渇いていて、声が出ない。視界と同じように、思考にも靄がかかっているようだった。
起きあがろうとしても、指一つ動かすことが出来なかった。
浅い呼吸と、緩慢な瞬き。
それが私にできる全てだった。
自分がベッドの上にいることはわかったけれど、そこに至るまでの経緯ははっきりと思い出せない。このままどこかへ沈んでしまいそうなほど、全てが疲れ切っていた。記憶を手繰ることすら億劫な私を、現実に引き留めていたのは誰かの気配だった。
軽い足音を響かせているのは若い女性だった。
霞んでいた目が、漸く焦点を結んでくれるようになった頃、彼女は私が起きたことに気づいたようだった。腰をかがめて視線を合わせ、「おはよう」と言いながらにっこりと笑う。その琥珀色の目がとても綺麗だと思った。
「喉が渇いてるでしょう。起き上がれる?」
首をかしげながらそう言われた。言われてみれば口の中ははからからに渇いていた。けれど返事をしようにも指一つ動かせない私に、起きあがることができるとは到底思えない。困ったまま応えあぐねていると、彼女はその反応も予想していたのだろう。背中の下に腕を差し入れ、ゆっくりと身体を持ち上げてくれた。それからクッションを積み上げて背もたれを作ると、少し待っててと言い、足早に部屋を出て行った。
一人になると、またどこかへ沈んでしまいそうになった。
沈んだ先はどんな場所だろう。
そこにサーシャはいるんだろうか。
そんなことを思った。
折角起こしてもらった身体が、ずるずると落ちかけ始めた頃、先ほどの女性が盆を手に戻ってきた。彼女はまた倒れそうになっている私を見て、「あらあら」と笑いながら、また身体を支えてくれた。
「白湯よ。ゆっくり飲みなさい」
彼女は私の手を取り、白い器を持たせた。ずしりと重いそれを、私が落とさないように、そっと重ねられた手のひらは温かかった。その温かさに、やっと身体が目を覚ましたかのようだった。ほんのりと湯気をたてた白湯を口に含むと、それは乾いた口の中ですぐに消えてしまった。また一口、喉を鳴らすように飲み込めば、身体の中に広がる熱が染み渡るようだった。凍えていた全身に、やっと血が通っていくような感覚。動かなかった身体と心が、目を覚ましたかのようだった。
あっという間に一杯を飲み干すと、女性は満足気に笑った。
そこまできて、私はやっと目の前の女性をしげしげと見つめた。年は二十歳くらいに見えた。背が高く、女性らしい丸みを帯びた身体をしている。栗色の髪は緩く巻いていて、つやがあった。肌は薄い褐色をしている。目が合うと微笑む琥珀色の瞳は柔らかく、とても魅力的な人だと思った。
「次は温かいスープにしましょうか」
先ほどと同じように、今度はベッドに私を寝かせながら彼女は言った。
「もう少し寝ててちょうだいね?」
温かい手のひらでそっと髪を撫でられると、もう駄目だった。
自然と目蓋は落ち、私はまた沈んでいった。
そして夢を見た。
私はまだ森の中にいて、一人きりだった。
サーシャもいない森の中で、空を見上げて訪れる死を待っている。
そんな夢だった。
歌が聞こえた。
鬱蒼とした森の中では、鳥の声や木々がざわめく音しか聞こえない。そんな中にあって、小さな歌声はひどく目立って聞こえた。一体どんな人間がこんな場所で歌っているのか、僅かな興味からクロードはか細い声のする方向へと足を進めた。
耳を澄ませば、それが子守歌だということはすぐにわかった。だが、それがわかったところで、疑問は一層膨らんだ。この場所は深い森の中だ。下っていけば街道もあるが、近くに村もないため、狩りに訪れる人間もほとんどいない。そんな場所にはあまりにも不釣り合いな歌声が、女のものであることは聞けばわかったが、小さくかすれた旋律からは、それ以外の何も伺うことはできなかった。
獣道を広げるように歩きながら、彼は僅かに眉をひそめた。
彼が進むべき道からは、死の匂いがした。それも一人二人ではなく、それなりの人数であることがわかる。
死んだ人間と、歌う女。
魔族の一種かとも思ったが、そういった気配は一切しない。この先にいるのは間違いなく人間だ。クロードの感覚はそう告げている。
ますます深くなる疑念を胸に持ちながら、歩みを進めるとその光景が目の前に広がった。
太い樹木の下にある二つの人影。
足を投げ出すように座っている銀髪の少女。
その足を枕にするように横たわった金髪の少女。
頬に散った木漏れ日から逃げるように、閉ざされた目蓋。
自分が息を飲んだ音が、はっきりと聞こえた。
まるで一枚の絵画を見ているようだった。けれど絵画と呼ぶには救えないほどに、二人の少女は痩せこけ、命の輝きを失っていた。横たわった少女の笑みのない口元と色を失った頬が、彼女の末路をはっきりと物語っている。
けれど座っている少女の方は、また少し様子が違った。彼女がクロードに聞こえた歌の主であることは間違いない。震えるように唇が動き、そこから吐息のような小さな歌声が溢れていた。枯れ枝のような指が、膝の上に置かれた金の髪を、時折ゆっくりと撫でる。その口元には微かな笑みすら見てとれた。そしてそれは酷く慈愛に満ちたものだった。
それを見て、一瞬で理解することができた。この歌は横たわる少女を眠りへ誘う歌なのだろう。自らの尽きかけた命を削りながら、先に逝った者の安寧を願う歌なのだろう。
鎮魂歌ではなく子守歌。
そこにこの少女二人の全てが込められている気がした。
クロードはそんな二人に近づいていった。完成していた空間を壊すように、無造作に足を進める。その間にも、歌はどんどんか細くなり、今にも消えてしまいそうな風情だった。少女達以外にも、あちこちに人間の死体が目に入ったが、それはあえて黙殺した。興味を持てなかったからだ。
彼が少女の前に立つと、青白い頬に影がかかった。
他人の存在にまるで気づいていないような少女の、すぐ横に膝をつきそっと頬に手をかざす。身体の中に渦巻くものを手のひらに集め、瀕死の人間に分け与えようとすれば、それは彼の意志に従おうとした。
けれど、そこまでの行為をほとんど無意識に行ってから、クロードははたと相手が人間であることを思い出した。
彼は魔族であるから、魔力を持っている。その量は個人差があり、それぞれが大きさの違う器を持っていると例えられる。そして瀕死の状態であったり、身体の損傷が激しい時であっても、魔力を回復させることでそれを生命力に変え、一時的にしのぐこともできる。
その時は自分の器から、相手の器に魔力を流し込んでやればいいだけなので、さほど難しいことはない。ただし相手によっては、流し込みにくい形であったり、本人の魔力と上手く混ざらずに反発する場合もある。
けれど人間は魔力を持っていない。当の本人達はわかっていないようだが、魔族から見れば人間が魔力を入れる器を持っているのはわかる。けれどその器は皆とても小さく、きっちりと蓋がされているのだ。従って、直接魔力を流し込むことができない。
いつも魔族にするように、少女に命を分け与えることができないと分かり、クロードはふと我に返った。
瀕死の人間をかろうじて生きながらえさせたとして、彼が去ればこの少女は近いうちに死ぬだろう。
別にこの人間を助ける利点はなにもない。
自分は何をしようとしていたのか、自問自答をしていると、静かに歌が止まった。
そして長い睫が静かに震えた。
鬱蒼とした森の中では、鳥の声や木々がざわめく音しか聞こえない。そんな中にあって、小さな歌声はひどく目立って聞こえた。一体どんな人間がこんな場所で歌っているのか、僅かな興味からクロードはか細い声のする方向へと足を進めた。
耳を澄ませば、それが子守歌だということはすぐにわかった。だが、それがわかったところで、疑問は一層膨らんだ。この場所は深い森の中だ。下っていけば街道もあるが、近くに村もないため、狩りに訪れる人間もほとんどいない。そんな場所にはあまりにも不釣り合いな歌声が、女のものであることは聞けばわかったが、小さくかすれた旋律からは、それ以外の何も伺うことはできなかった。
獣道を広げるように歩きながら、彼は僅かに眉をひそめた。
彼が進むべき道からは、死の匂いがした。それも一人二人ではなく、それなりの人数であることがわかる。
死んだ人間と、歌う女。
魔族の一種かとも思ったが、そういった気配は一切しない。この先にいるのは間違いなく人間だ。クロードの感覚はそう告げている。
ますます深くなる疑念を胸に持ちながら、歩みを進めるとその光景が目の前に広がった。
太い樹木の下にある二つの人影。
足を投げ出すように座っている銀髪の少女。
その足を枕にするように横たわった金髪の少女。
頬に散った木漏れ日から逃げるように、閉ざされた目蓋。
自分が息を飲んだ音が、はっきりと聞こえた。
まるで一枚の絵画を見ているようだった。けれど絵画と呼ぶには救えないほどに、二人の少女は痩せこけ、命の輝きを失っていた。横たわった少女の笑みのない口元と色を失った頬が、彼女の末路をはっきりと物語っている。
けれど座っている少女の方は、また少し様子が違った。彼女がクロードに聞こえた歌の主であることは間違いない。震えるように唇が動き、そこから吐息のような小さな歌声が溢れていた。枯れ枝のような指が、膝の上に置かれた金の髪を、時折ゆっくりと撫でる。その口元には微かな笑みすら見てとれた。そしてそれは酷く慈愛に満ちたものだった。
それを見て、一瞬で理解することができた。この歌は横たわる少女を眠りへ誘う歌なのだろう。自らの尽きかけた命を削りながら、先に逝った者の安寧を願う歌なのだろう。
鎮魂歌ではなく子守歌。
そこにこの少女二人の全てが込められている気がした。
クロードはそんな二人に近づいていった。完成していた空間を壊すように、無造作に足を進める。その間にも、歌はどんどんか細くなり、今にも消えてしまいそうな風情だった。少女達以外にも、あちこちに人間の死体が目に入ったが、それはあえて黙殺した。興味を持てなかったからだ。
彼が少女の前に立つと、青白い頬に影がかかった。
他人の存在にまるで気づいていないような少女の、すぐ横に膝をつきそっと頬に手をかざす。身体の中に渦巻くものを手のひらに集め、瀕死の人間に分け与えようとすれば、それは彼の意志に従おうとした。
けれど、そこまでの行為をほとんど無意識に行ってから、クロードははたと相手が人間であることを思い出した。
彼は魔族であるから、魔力を持っている。その量は個人差があり、それぞれが大きさの違う器を持っていると例えられる。そして瀕死の状態であったり、身体の損傷が激しい時であっても、魔力を回復させることでそれを生命力に変え、一時的にしのぐこともできる。
その時は自分の器から、相手の器に魔力を流し込んでやればいいだけなので、さほど難しいことはない。ただし相手によっては、流し込みにくい形であったり、本人の魔力と上手く混ざらずに反発する場合もある。
けれど人間は魔力を持っていない。当の本人達はわかっていないようだが、魔族から見れば人間が魔力を入れる器を持っているのはわかる。けれどその器は皆とても小さく、きっちりと蓋がされているのだ。従って、直接魔力を流し込むことができない。
いつも魔族にするように、少女に命を分け与えることができないと分かり、クロードはふと我に返った。
瀕死の人間をかろうじて生きながらえさせたとして、彼が去ればこの少女は近いうちに死ぬだろう。
別にこの人間を助ける利点はなにもない。
自分は何をしようとしていたのか、自問自答をしていると、静かに歌が止まった。
そして長い睫が静かに震えた。
人通りの少ない山奥の街道。
それが木々の合間に見えなくなる距離で、私は太い幹に寄りかかっていた。でこぼこした根の間に腰を下ろし、足はだらしなく伸びている。土にまみれた素足から視線を動かしていくと、骨ばかりが目立つ膝小僧、汗と砂埃で薄汚れたスカートの裾、そして膝枕をするように横たわる金色の頭があった。
横たわっているのは金髪の少女だった。私と同じように汚れた、同じような服を着ている。やせ細った肩は今にも折れてしまいそうだ。元々は綺麗な髪だったのかもしれない。けれど何日も洗っていない金色の髪はくすんでいて、その面影を伺うことはできなかった。
時折風に揺れる髪を、指先で梳いてはみるものの、私の指もすでに汚れきっていて、輝きを取り戻すことはできそうにない。それでも髪を撫でるのは、それ以外に何をすればいいのかわからなかったからだ。
髪の合間から見える頬や首から、赤い斑点が見えた。
これは今年流行った感染症の特徴だった。その病気は高熱を伴い、早急に治療をしなければすぐに死に至る。その即効性故に、たくさんの人を死に至らしめたらしい。
らしい、などと半端な表現をする必要は本当はない。その実体を私はあまり知らなかったけれど、今は知っている。
高熱を発する病に倒れたはずの少女の頬に、手を滑らせる。
ひんやりとした固い手触り。
「サーシャ」
囁くように彼女の名前を呼んでも、応えは返らない。
のろのろと視線を動かせば、同じような格好の数人の男女が、同じように倒れている。そして同じように動かない。
生い茂る木々の隙間にある空を探し、私はまたサーシャの髪を撫でた。それ以外にすべきことが、本当に解らなかった。
私とサーシャを含め、倒れている人たちは、全員が奴隷として売られていく所だった。馬車とは名ばかりの狭い箱に閉じこめられ、鎖で繋がれ、息を殺しながらどこかへ運ばれていく途中だった。身じろぎすれば埃が舞い上がるような空間で、敷き詰められた藁に埋もれ眠った。食事は一日に一度。固いパンの欠片のみ。
サーシャは私が馬車に乗ってから、数日後にやってきて私の隣に繋がれた。誰もが諦めた表情で何も言わないのに対し、あの子はいつもすすり泣いていた。怖い怖いと呟きながらも、決して助けてとは言わない。そのか弱さと現実を受け止める強さの矛盾が不思議で、思わず髪を撫でたことから、サーシャは私に寄り添うようになった。
多分、あの子は本当に怖かったのだ。本当にそれだけだったのだろう。
助けを請うたところで、何も変わらない。けれど恐怖を胸の内にしまっておく程は強くなかったのだ。
だから私はサーシャが泣いたときは、髪を撫でてやった。言葉を交わすことはなかったけれど、そうやって数日を過ごしてきた。
サーシャが来て三日目の朝、目を覚ますと彼女は高熱を出していた。どうして良いか解らず、私はやっぱり髪を撫でていた。食事を持ってきた男はサーシャの様子に気づいたようだったけれど、何も言わずに固いパンを置いて去っていった。
そして次の日、熱の下がらないサーシャを相変わらず撫でていると、その首元に赤い斑点があるのを見つけた。それの意味するところも私は知っていた。愕然とする私にサーシャの逆隣の男が気づき、視線を彷徨わせた後声を上げた。それは波のように広がり、狭い馬車の中は半狂乱に陥った。
昨日と同じように食事を持ってきた男は、馬車の惨状をすぐに把握すると、舌打ちをして出ていった。
そして私たち全員を馬車から出すと、森の中に追いやり、置き去りにした。
不衛生な馬車の中で、誰かが病気になったということは、全員がその病気にかかると言うことだ。そして売る前に死ぬような奴隷に、食事を与える程彼らは暇ではない。そういうことだ。
狭い馬車から解放されたとはいえ、両足についた鎖はそのままだった。逃げようと不自由ながら、歩き出した人もいれば、すぐに熱を出して倒れた人もいた。
私はもたれかかってくる熱いサーシャの髪を、ただただ撫でていた。
サーシャが泣くことしかできなかったように、私もそうすることしかできなかった。
そしてそれは、彼女が死に、他のみんなが死んだ今でも変わらない。
どうして私だけが、生き残ったのだろう。
それは私が売られる以前に、この病気にかかり、きちんとした治療を受けていたからだろう。一度治れば、免疫がつくからもう大丈夫だと、当時医者に言われた言葉を思い出す。
どうして私だけが、生き残ったのだろう。
自問自答する中、確実に餓死が迫っていることも私は知っていた。
サーシャを撫でることももうできそうにない。
だから途切れそうになる意識の中で、私は子守歌を歌った。
そうしたら、サーシャが少しでも喜んでくれる気がしたから。
そう思うと、微かに笑みが浮かんだ。
きっともう終わる。私もみんなと同じようになる。
そう、だからもう大丈夫。
そして私は目蓋を下ろした。
それが木々の合間に見えなくなる距離で、私は太い幹に寄りかかっていた。でこぼこした根の間に腰を下ろし、足はだらしなく伸びている。土にまみれた素足から視線を動かしていくと、骨ばかりが目立つ膝小僧、汗と砂埃で薄汚れたスカートの裾、そして膝枕をするように横たわる金色の頭があった。
横たわっているのは金髪の少女だった。私と同じように汚れた、同じような服を着ている。やせ細った肩は今にも折れてしまいそうだ。元々は綺麗な髪だったのかもしれない。けれど何日も洗っていない金色の髪はくすんでいて、その面影を伺うことはできなかった。
時折風に揺れる髪を、指先で梳いてはみるものの、私の指もすでに汚れきっていて、輝きを取り戻すことはできそうにない。それでも髪を撫でるのは、それ以外に何をすればいいのかわからなかったからだ。
髪の合間から見える頬や首から、赤い斑点が見えた。
これは今年流行った感染症の特徴だった。その病気は高熱を伴い、早急に治療をしなければすぐに死に至る。その即効性故に、たくさんの人を死に至らしめたらしい。
らしい、などと半端な表現をする必要は本当はない。その実体を私はあまり知らなかったけれど、今は知っている。
高熱を発する病に倒れたはずの少女の頬に、手を滑らせる。
ひんやりとした固い手触り。
「サーシャ」
囁くように彼女の名前を呼んでも、応えは返らない。
のろのろと視線を動かせば、同じような格好の数人の男女が、同じように倒れている。そして同じように動かない。
生い茂る木々の隙間にある空を探し、私はまたサーシャの髪を撫でた。それ以外にすべきことが、本当に解らなかった。
私とサーシャを含め、倒れている人たちは、全員が奴隷として売られていく所だった。馬車とは名ばかりの狭い箱に閉じこめられ、鎖で繋がれ、息を殺しながらどこかへ運ばれていく途中だった。身じろぎすれば埃が舞い上がるような空間で、敷き詰められた藁に埋もれ眠った。食事は一日に一度。固いパンの欠片のみ。
サーシャは私が馬車に乗ってから、数日後にやってきて私の隣に繋がれた。誰もが諦めた表情で何も言わないのに対し、あの子はいつもすすり泣いていた。怖い怖いと呟きながらも、決して助けてとは言わない。そのか弱さと現実を受け止める強さの矛盾が不思議で、思わず髪を撫でたことから、サーシャは私に寄り添うようになった。
多分、あの子は本当に怖かったのだ。本当にそれだけだったのだろう。
助けを請うたところで、何も変わらない。けれど恐怖を胸の内にしまっておく程は強くなかったのだ。
だから私はサーシャが泣いたときは、髪を撫でてやった。言葉を交わすことはなかったけれど、そうやって数日を過ごしてきた。
サーシャが来て三日目の朝、目を覚ますと彼女は高熱を出していた。どうして良いか解らず、私はやっぱり髪を撫でていた。食事を持ってきた男はサーシャの様子に気づいたようだったけれど、何も言わずに固いパンを置いて去っていった。
そして次の日、熱の下がらないサーシャを相変わらず撫でていると、その首元に赤い斑点があるのを見つけた。それの意味するところも私は知っていた。愕然とする私にサーシャの逆隣の男が気づき、視線を彷徨わせた後声を上げた。それは波のように広がり、狭い馬車の中は半狂乱に陥った。
昨日と同じように食事を持ってきた男は、馬車の惨状をすぐに把握すると、舌打ちをして出ていった。
そして私たち全員を馬車から出すと、森の中に追いやり、置き去りにした。
不衛生な馬車の中で、誰かが病気になったということは、全員がその病気にかかると言うことだ。そして売る前に死ぬような奴隷に、食事を与える程彼らは暇ではない。そういうことだ。
狭い馬車から解放されたとはいえ、両足についた鎖はそのままだった。逃げようと不自由ながら、歩き出した人もいれば、すぐに熱を出して倒れた人もいた。
私はもたれかかってくる熱いサーシャの髪を、ただただ撫でていた。
サーシャが泣くことしかできなかったように、私もそうすることしかできなかった。
そしてそれは、彼女が死に、他のみんなが死んだ今でも変わらない。
どうして私だけが、生き残ったのだろう。
それは私が売られる以前に、この病気にかかり、きちんとした治療を受けていたからだろう。一度治れば、免疫がつくからもう大丈夫だと、当時医者に言われた言葉を思い出す。
どうして私だけが、生き残ったのだろう。
自問自答する中、確実に餓死が迫っていることも私は知っていた。
サーシャを撫でることももうできそうにない。
だから途切れそうになる意識の中で、私は子守歌を歌った。
そうしたら、サーシャが少しでも喜んでくれる気がしたから。
そう思うと、微かに笑みが浮かんだ。
きっともう終わる。私もみんなと同じようになる。
そう、だからもう大丈夫。
そして私は目蓋を下ろした。
小さな歌姫。
あの人は私をそう呼んだ。
愛した人の娘だと、柔らかく頬を撫でては目を細めた。
父様。
あの人を私はそう呼んだ。
愛された人の面影を、歌に乗せては何かをなくした。
ベル。
あの人は私をそう呼んだ。
そしていなくなった。
兄様。
あの人を私はそう呼びたかった。
けれど言葉はいつも喉の奥でつっかえるばかりで。
父様。
貴方が愛した人は、まだどこかで生きているでしょう。
なのに何故、彼の人を選ばなかったのですか。
そして何故、よく似た人形を選んでしまったのですか。
兄様。
貴方が愛した妹は、もうどこにもいないのです。
幻の海に溺れて、死んでしまったのです。
あの腕を知ってしまったあの日から。
リラ。
あの人は私をそう呼ぶ。
精一杯のざらついた優しさで。
歌を零すだけの人形を、労るように呼んでくれる。
だからもう、ここで果てることを私は決めた。
あの人は私をそう呼んだ。
愛した人の娘だと、柔らかく頬を撫でては目を細めた。
父様。
あの人を私はそう呼んだ。
愛された人の面影を、歌に乗せては何かをなくした。
ベル。
あの人は私をそう呼んだ。
そしていなくなった。
兄様。
あの人を私はそう呼びたかった。
けれど言葉はいつも喉の奥でつっかえるばかりで。
父様。
貴方が愛した人は、まだどこかで生きているでしょう。
なのに何故、彼の人を選ばなかったのですか。
そして何故、よく似た人形を選んでしまったのですか。
兄様。
貴方が愛した妹は、もうどこにもいないのです。
幻の海に溺れて、死んでしまったのです。
あの腕を知ってしまったあの日から。
リラ。
あの人は私をそう呼ぶ。
精一杯のざらついた優しさで。
歌を零すだけの人形を、労るように呼んでくれる。
だからもう、ここで果てることを私は決めた。