Safety Base
2006年10月25日 狐 月が綺麗な晩に葉月は養い親と二人で、揺れる月見草を見ていた。幽かな風に揺れる黄色い花。その静かな音が背景を彩る中で、氷河はいつものように亡き母の思い出を語ってくれた。
とても静かに。
そんな彼に、葉月が父について尋ねてみると、彼は非常に嫌そうに口を開いた。
「知ってるけど、あまり知らないよ」
それだけ言うと、子どものようにそっぽを向いてみせた。
「氷河は父さんが嫌いだったの?」
あからさまに透けて見える嫌悪。それについて一応確認を取ろうとすると、彼は今度は渋々というように口を開いた。
「嫌いじゃないよ。好きじゃないだけで。――大体ね」
それから溜息を一つはき出すと、仕方ないじゃないかと小さく零した。
「僕は香月が、……誰より好きだったんだから」
照れるでもなく、しみじみとそういってから、もう一度氷河は仕方ないじゃないかと呟いた。
とても静かに。
そんな彼に、葉月が父について尋ねてみると、彼は非常に嫌そうに口を開いた。
「知ってるけど、あまり知らないよ」
それだけ言うと、子どものようにそっぽを向いてみせた。
「氷河は父さんが嫌いだったの?」
あからさまに透けて見える嫌悪。それについて一応確認を取ろうとすると、彼は今度は渋々というように口を開いた。
「嫌いじゃないよ。好きじゃないだけで。――大体ね」
それから溜息を一つはき出すと、仕方ないじゃないかと小さく零した。
「僕は香月が、……誰より好きだったんだから」
照れるでもなく、しみじみとそういってから、もう一度氷河は仕方ないじゃないかと呟いた。
君を守るよ。
ふざけたような口調で、けれど真剣に言ってしまったのは、いつだって心の中でそう思っていたからなのだろう。
親友から預かった養い子は、すくすくと大きくなっていった。大した病気も怪我もなければ、悪い遊びを覚えることもない。親がいないからと言って、捻くれたりもしなかった。
とても素直に、自分がまっすぐ大きくなることを、当然のことと受け取っているかのように。否、そんなことすら意識しないほど自然に成長してくれた。
それが氷河には嬉しかった。
と、同時に愛おしかった。
昔、村で暮らしていた頃、よく遊んだ幼馴染みの中で、彼は最年長だった。物心が付いたころに従妹が生まれ、世界に目を向け始めた頃に妹が生まれ、村を出ようと思い始めた矢先に従弟が生まれた。
だから彼にとって、子供の成長というものは、いつも側にあったのだ。
そして葉月の成長は、氷河にとって見たことのあるものだった。
生きることを疑わない眼差し。
太陽の光と水を浴び、空を目指す若木のようなしなやかな成長。
それは遠い昔、あまりの美しさに、子供ながら感嘆を抱いたものと寸分違わぬものだった。
あの誰よりも美しかった人と同じものだった。
葉月、と呼びかけると、養い子はくるりと振り返る。
勢いよく動くため、銀色の髪が一瞬ふわりと舞い上がって、光を反射させた。
君を守るよ、とつぶやくと、葉月は不思議そうに首を傾けた。
突拍子もないことを言ってしまったと、少しだけ反省し、両親の代わりみたいなものだとかなんとか、ぼそぼそと氷河は付け加えた。
葉月はそんな彼を不思議そうに見ていたが、すぐに納得した様子で大丈夫だよと笑った。
それからありがとう、と目を細めた。
本当に、遺伝子というものはすごいと思う。
どうしてこんなところばかり葉月は母に似てしまったのだろう。
ずっと彼女に言いたかったのだ。
本当は誰よりも守りたかったのだ。
恋とか愛とか、そんな陳腐な言葉じゃなくて、単純に彼女の隣はあまりに居心地がよすぎたから。
その温もりと笑顔を守り、自分を守り、二人そろって幸せでありたかったのだ。
一度だけ、同じようなことをほのめかしたことがある。
直接的な言葉はさけたけれど、彼女はすぐに氷河の言いたいことを察し、ありがとうと目を細めた。
私は大丈夫。
だけど、そう思ってくれてありがとう。
それに、私だってあなたが心配で、あなたを守りたいと思っている。
そう言いたげな笑い方だった。
懐かしいけれど、同時に少し寂しくもあった。
きっともう二度と、守るだなんて言えなくなってしまったから。
ふざけたような口調で、けれど真剣に言ってしまったのは、いつだって心の中でそう思っていたからなのだろう。
親友から預かった養い子は、すくすくと大きくなっていった。大した病気も怪我もなければ、悪い遊びを覚えることもない。親がいないからと言って、捻くれたりもしなかった。
とても素直に、自分がまっすぐ大きくなることを、当然のことと受け取っているかのように。否、そんなことすら意識しないほど自然に成長してくれた。
それが氷河には嬉しかった。
と、同時に愛おしかった。
昔、村で暮らしていた頃、よく遊んだ幼馴染みの中で、彼は最年長だった。物心が付いたころに従妹が生まれ、世界に目を向け始めた頃に妹が生まれ、村を出ようと思い始めた矢先に従弟が生まれた。
だから彼にとって、子供の成長というものは、いつも側にあったのだ。
そして葉月の成長は、氷河にとって見たことのあるものだった。
生きることを疑わない眼差し。
太陽の光と水を浴び、空を目指す若木のようなしなやかな成長。
それは遠い昔、あまりの美しさに、子供ながら感嘆を抱いたものと寸分違わぬものだった。
あの誰よりも美しかった人と同じものだった。
葉月、と呼びかけると、養い子はくるりと振り返る。
勢いよく動くため、銀色の髪が一瞬ふわりと舞い上がって、光を反射させた。
君を守るよ、とつぶやくと、葉月は不思議そうに首を傾けた。
突拍子もないことを言ってしまったと、少しだけ反省し、両親の代わりみたいなものだとかなんとか、ぼそぼそと氷河は付け加えた。
葉月はそんな彼を不思議そうに見ていたが、すぐに納得した様子で大丈夫だよと笑った。
それからありがとう、と目を細めた。
本当に、遺伝子というものはすごいと思う。
どうしてこんなところばかり葉月は母に似てしまったのだろう。
ずっと彼女に言いたかったのだ。
本当は誰よりも守りたかったのだ。
恋とか愛とか、そんな陳腐な言葉じゃなくて、単純に彼女の隣はあまりに居心地がよすぎたから。
その温もりと笑顔を守り、自分を守り、二人そろって幸せでありたかったのだ。
一度だけ、同じようなことをほのめかしたことがある。
直接的な言葉はさけたけれど、彼女はすぐに氷河の言いたいことを察し、ありがとうと目を細めた。
私は大丈夫。
だけど、そう思ってくれてありがとう。
それに、私だってあなたが心配で、あなたを守りたいと思っている。
そう言いたげな笑い方だった。
懐かしいけれど、同時に少し寂しくもあった。
きっともう二度と、守るだなんて言えなくなってしまったから。
赤い雲が黒い空に沈んで、僕は一人になった。
夕暮れ時だった。
赤い空の下で、ふらふらとあぜ道を歩いていると、誰かが僕の隣に立った。後ろを歩く人の気配なんて、少しも感じられなかったのに。不思議に思いながらも、その人が通りやすいように、身体を避ける。
けれどその人は僕を追い越しはしなかった。ただ隣に並ぶように、ゆっくりと歩き始めた。変だとは思ったけれど、それ以上のことは考えられなかった。
どこか胡乱に視線を向けても、その人の顔は影になっていてよく見えなかった。体格は僕よりも少し小さいくらい。風に揺れる髪の端が、動きに合わせてきらりと光った。
そのまましばらく並んで歩いたところで、不思議と口が動いた。
「君は誰?」
僕の言葉を聴いて、影に隠れた顔が不意に笑った気がした。
「今は黄昏時だから」
僕は誰でもないんだ。そう続けて影は呟いた。よく知った声だった。
「じゃあ――」
続けて、尋ねた。
僕は誰、と。
すると、影はまた笑った。
君は僕。
ざぁっと風が流れた。
太陽が沈む。
闇が訪れる。
そうして、影は消えてしまう。
その前に何か言わねば、と思った。
僕は君を愛しているよ。
寂しがりやで、我が儘で、いつも明るく振る舞いながらも、その裏でいろんなことを考えていて、誰かに構って欲しく、両親に会いたくて会いたくて仕方がなくて、けれど良い子でいようとしたり、時々同情してもらえるような言葉を吐いて、慰めて欲しがるような無知で愚かでどうしようもないくらいに子どもな君だったけれど。
僕は今、確かに君を愛しているんだ。
影に縁取られた顔が、ふっと笑った。
ありがとうと花が咲くように笑った。
そして闇の中に溶けて消えた。
黄昏時。
誰ぞ、彼。
見えない誰かに出会う時。
僕が出会ったのは、いつかの僕自身だった。
夕暮れ時だった。
赤い空の下で、ふらふらとあぜ道を歩いていると、誰かが僕の隣に立った。後ろを歩く人の気配なんて、少しも感じられなかったのに。不思議に思いながらも、その人が通りやすいように、身体を避ける。
けれどその人は僕を追い越しはしなかった。ただ隣に並ぶように、ゆっくりと歩き始めた。変だとは思ったけれど、それ以上のことは考えられなかった。
どこか胡乱に視線を向けても、その人の顔は影になっていてよく見えなかった。体格は僕よりも少し小さいくらい。風に揺れる髪の端が、動きに合わせてきらりと光った。
そのまましばらく並んで歩いたところで、不思議と口が動いた。
「君は誰?」
僕の言葉を聴いて、影に隠れた顔が不意に笑った気がした。
「今は黄昏時だから」
僕は誰でもないんだ。そう続けて影は呟いた。よく知った声だった。
「じゃあ――」
続けて、尋ねた。
僕は誰、と。
すると、影はまた笑った。
君は僕。
ざぁっと風が流れた。
太陽が沈む。
闇が訪れる。
そうして、影は消えてしまう。
その前に何か言わねば、と思った。
僕は君を愛しているよ。
寂しがりやで、我が儘で、いつも明るく振る舞いながらも、その裏でいろんなことを考えていて、誰かに構って欲しく、両親に会いたくて会いたくて仕方がなくて、けれど良い子でいようとしたり、時々同情してもらえるような言葉を吐いて、慰めて欲しがるような無知で愚かでどうしようもないくらいに子どもな君だったけれど。
僕は今、確かに君を愛しているんだ。
影に縁取られた顔が、ふっと笑った。
ありがとうと花が咲くように笑った。
そして闇の中に溶けて消えた。
黄昏時。
誰ぞ、彼。
見えない誰かに出会う時。
僕が出会ったのは、いつかの僕自身だった。
我が子よりも愛しいと感じた。
そのいとけない無力な両腕に。
ふらふらと森を歩いて帰ると、家の前に小さな影が座り込んでいた。のばし始めたばかりの銀色の髪を、暇を持て余すように何度も編み込んでいるのはまだ十にも満たない姪だった。
少年の頃からどこか大人びていた兄とは対照的に、妹の方はいつまでたっても幼い瞳をしていた。言葉遣いは舌足らずなままで、論理的なことはあまり言わない。いつもいつも年上の兄をちょこまかとついていき、置いて行かれると目に涙を浮かべるような子だ。
尤も、この年頃ならばそれが当然のような気もする。
自分の娘が、それほど泣かない子だったことに、今更ながら彼は気付いた。
「蒼呼」
名前を呼ぶと、幼い姪はぱっと顔を上げ、にっこりと笑った。
「おじさん」
あのね、とやはり舌足らずに呟くと、姪はちょっとだけ困った顔をした。
「どうした。香月に用か?」
自分よりもずっと親しくしている娘の名をあげると、姪はふるふると首を大きく振った。違うの。あのね、ともう一度繰り返し、上目遣いに彼を見る仕草から、何か訳があるということはすぐにわかった。
けれど一体自分に何を話すと言うのだろう。
何の力もないちっぽけなこの男に。
散歩に行こうと誘うと、蒼呼は元気よく立ちあがった。銀色の尾をぱたぱたと揺らしながら、自分の周りをくるくると回る姪に、彼は少し苦笑した。こういう風に子ども懐かれたことは、実際初めてだった。
少しだけ歩き、自分が一番気に入っている細い川縁に行くことにした。ひんやりとしたゆるい流れの川の側に腰を下ろすと、姪もすとんと座った。それから彼女が口を開くまで、彼は煌めく水面を見つめた。
「あのね」
十分ほど経過したころだろうか。蒼呼がまた辿々しく口を開いた。
「しっぽが一つしかないのって、いけないことなの?」
おじさん、と呟き、蒼呼は俯いた。
がんと頭を殴られたような気がした。視界が一瞬真っ白に染まり、次に真っ黒になった。かと思えば、原色の光が瞼の中で暴れ出し、彼は目を押さえた。
その仕草を姪が何か思う前に、彼は口を開いた。
「いけないことじゃない」
囁くように呟くと、隣でほっとしたように小さな姪は笑った。
「いつもいつもね、なんでっていわれるんだ。ぼく、なんにもしてないのに、なんでって言われるの」
そして哀しげな顔で小さく笑った。大人びた、表情だった。
どうしてなのだろう、といつも思う。
この上なく力を持つ男の長男は、誰よりも月に愛され、それにふさわしい力を持っていた。それなのに妹はほんの小さな力しか与えられず、腫れ物のような扱いすら受けている。
けれど力のないことが何故いけないのだろう。
この小さな娘は、どうして最も信頼している兄に、そのことを尋ねることすらできなかったのか。
問題はこの村にある。
月神様。
あなたは何故、このような世界を造ったのですか。
それとも愛されるべき力のない、僕らの祈りは届かないのでしょうか。
青い空に見えない月を探し、この子を守ろうと心に決めた。
そのいとけない無力な両腕に。
ふらふらと森を歩いて帰ると、家の前に小さな影が座り込んでいた。のばし始めたばかりの銀色の髪を、暇を持て余すように何度も編み込んでいるのはまだ十にも満たない姪だった。
少年の頃からどこか大人びていた兄とは対照的に、妹の方はいつまでたっても幼い瞳をしていた。言葉遣いは舌足らずなままで、論理的なことはあまり言わない。いつもいつも年上の兄をちょこまかとついていき、置いて行かれると目に涙を浮かべるような子だ。
尤も、この年頃ならばそれが当然のような気もする。
自分の娘が、それほど泣かない子だったことに、今更ながら彼は気付いた。
「蒼呼」
名前を呼ぶと、幼い姪はぱっと顔を上げ、にっこりと笑った。
「おじさん」
あのね、とやはり舌足らずに呟くと、姪はちょっとだけ困った顔をした。
「どうした。香月に用か?」
自分よりもずっと親しくしている娘の名をあげると、姪はふるふると首を大きく振った。違うの。あのね、ともう一度繰り返し、上目遣いに彼を見る仕草から、何か訳があるということはすぐにわかった。
けれど一体自分に何を話すと言うのだろう。
何の力もないちっぽけなこの男に。
散歩に行こうと誘うと、蒼呼は元気よく立ちあがった。銀色の尾をぱたぱたと揺らしながら、自分の周りをくるくると回る姪に、彼は少し苦笑した。こういう風に子ども懐かれたことは、実際初めてだった。
少しだけ歩き、自分が一番気に入っている細い川縁に行くことにした。ひんやりとしたゆるい流れの川の側に腰を下ろすと、姪もすとんと座った。それから彼女が口を開くまで、彼は煌めく水面を見つめた。
「あのね」
十分ほど経過したころだろうか。蒼呼がまた辿々しく口を開いた。
「しっぽが一つしかないのって、いけないことなの?」
おじさん、と呟き、蒼呼は俯いた。
がんと頭を殴られたような気がした。視界が一瞬真っ白に染まり、次に真っ黒になった。かと思えば、原色の光が瞼の中で暴れ出し、彼は目を押さえた。
その仕草を姪が何か思う前に、彼は口を開いた。
「いけないことじゃない」
囁くように呟くと、隣でほっとしたように小さな姪は笑った。
「いつもいつもね、なんでっていわれるんだ。ぼく、なんにもしてないのに、なんでって言われるの」
そして哀しげな顔で小さく笑った。大人びた、表情だった。
どうしてなのだろう、といつも思う。
この上なく力を持つ男の長男は、誰よりも月に愛され、それにふさわしい力を持っていた。それなのに妹はほんの小さな力しか与えられず、腫れ物のような扱いすら受けている。
けれど力のないことが何故いけないのだろう。
この小さな娘は、どうして最も信頼している兄に、そのことを尋ねることすらできなかったのか。
問題はこの村にある。
月神様。
あなたは何故、このような世界を造ったのですか。
それとも愛されるべき力のない、僕らの祈りは届かないのでしょうか。
青い空に見えない月を探し、この子を守ろうと心に決めた。
天空の城はとても高い場所にあった。
僕は虹の橋を渡る人に無理を言い、その流れに乗せてもらっただけのしがない冒険者だ。自らの力でこの場所へ来たのではない。そもそも僕には登城する資格がない。そのために神具など一つも持っていない。
けれど僕は神の城へ入り込んだ。無理矢理に。
虹の橋はそのうち消えるだろう。地上に帰ることができるのが、いつになるかはわからない。その前に生きて戻れるのだろうか。この場所で果てる可能性だって、十分にあるというのに。
それでも僕はこの地に来た。
大した意味もなく。
城への入り口となる、門の側に腰を下ろし、僕は膝を抱えた。
どうしてここまで来てしまったんだろう。そう自問自答しながら、不思議だねと首を傾げる。
なんとなく、行きたいと思った。行かねばならないと心から思ってしまった。そして次の瞬間には、もう行動を起こしていた。
けれど理由は分かっているのだ。
認めたくないというだけで。
誰よりも近い場所で夕焼けを迎えれば、あとは日が暮れるだけだ。
暗くなっていく空を見上げ、ついに姿を現した月に、僕は大きく溜息を漏らしてしまった。
思わず目を逸らしたくなる気持ちを叱咤し、ぐっと首を持ち上げ、月を見つめる。
「はじめまして、月の神様」
自然と微笑めたことが、何よりも嬉しかった――
僕の母と養い親は、いつも祈っていた。
表だっては祈っていなかったかもいしれないが、その心はいつだって月の側にいた。近寄れないと知っていながらも、焦がれて見つめ続けていた。僕はそれを知っている。誰よりも近い場所で見てきたのだから。
神を裏切った巫女と、加護からはずれた神官。
言葉にすれば陳腐だけれど、本人達は必死だった。その愛を自分は受け取れなくなっても構わない。けれど、自分の愛しい人達に、どうかご加護を、と祈っていた。
愚かなまでの、一途さで。
何故なら彼らは誰よりも、月の神に愛されていたから。
子供の頃は、どこか他人事のように見ていた光景も、今ではなんとなく落ち着かない。
結局のところ、血なのだと思う。
連綿たる血の流れが、月を恐れ、崇め、愛おしみながら、敬っている。断ち切ることなどできない力が、そこには存在しているのだ。その上、断ち切ろうとさえ思えない。
だからきっと、僕はこのまま進むのだと思う。
正しい祈り方さえ知らず、祈りの言葉も、何に祈るのかさえも分からないまま。
神の城へ登ったのは、貴方に会いたかったからなのです。
愛されているだなんて、思わないけれど。
そう呟くと、また溜息が零れた。
僕は虹の橋を渡る人に無理を言い、その流れに乗せてもらっただけのしがない冒険者だ。自らの力でこの場所へ来たのではない。そもそも僕には登城する資格がない。そのために神具など一つも持っていない。
けれど僕は神の城へ入り込んだ。無理矢理に。
虹の橋はそのうち消えるだろう。地上に帰ることができるのが、いつになるかはわからない。その前に生きて戻れるのだろうか。この場所で果てる可能性だって、十分にあるというのに。
それでも僕はこの地に来た。
大した意味もなく。
城への入り口となる、門の側に腰を下ろし、僕は膝を抱えた。
どうしてここまで来てしまったんだろう。そう自問自答しながら、不思議だねと首を傾げる。
なんとなく、行きたいと思った。行かねばならないと心から思ってしまった。そして次の瞬間には、もう行動を起こしていた。
けれど理由は分かっているのだ。
認めたくないというだけで。
誰よりも近い場所で夕焼けを迎えれば、あとは日が暮れるだけだ。
暗くなっていく空を見上げ、ついに姿を現した月に、僕は大きく溜息を漏らしてしまった。
思わず目を逸らしたくなる気持ちを叱咤し、ぐっと首を持ち上げ、月を見つめる。
「はじめまして、月の神様」
自然と微笑めたことが、何よりも嬉しかった――
僕の母と養い親は、いつも祈っていた。
表だっては祈っていなかったかもいしれないが、その心はいつだって月の側にいた。近寄れないと知っていながらも、焦がれて見つめ続けていた。僕はそれを知っている。誰よりも近い場所で見てきたのだから。
神を裏切った巫女と、加護からはずれた神官。
言葉にすれば陳腐だけれど、本人達は必死だった。その愛を自分は受け取れなくなっても構わない。けれど、自分の愛しい人達に、どうかご加護を、と祈っていた。
愚かなまでの、一途さで。
何故なら彼らは誰よりも、月の神に愛されていたから。
子供の頃は、どこか他人事のように見ていた光景も、今ではなんとなく落ち着かない。
結局のところ、血なのだと思う。
連綿たる血の流れが、月を恐れ、崇め、愛おしみながら、敬っている。断ち切ることなどできない力が、そこには存在しているのだ。その上、断ち切ろうとさえ思えない。
だからきっと、僕はこのまま進むのだと思う。
正しい祈り方さえ知らず、祈りの言葉も、何に祈るのかさえも分からないまま。
神の城へ登ったのは、貴方に会いたかったからなのです。
愛されているだなんて、思わないけれど。
そう呟くと、また溜息が零れた。
『STARDUST』
2004年9月9日 狐 貴方は私にとって、煌めく星でした。
二人で旅をするのは、大抵の場合が歩きだった。時には乗合馬車を利用したりもしたが、基本は常に徒歩の旅。昼も夜も、気が向いたときに休む以外は、大したあてもなくさまよい歩いた。
元々私は山育ちであるし、キールも体力勝負の仕事をしていただけあって、歩くことは全く苦にならなかった。
何より、一人でなく、二人でいたのだから。
夜道を歩くとき、キールは静かに星を見ていた。方角を調べるかのように、長い指先で星空をなぞる。
その横顔を眺めてから、私はいつも月を見る。そうして、祈ってもよろしいでしょうか、と心で呟いてから、静かに祈りの言葉を唇に載せるのだ。
どうかどうか。
何を祈る訳でもなく、全てを願った。
荒野に並んで腰を下ろし、いつも星を見る訳を尋ねると、矢張り彼は方角を見ていたのだそうだ。大した意味はないけれど、と笑うその声が香月はとても好きだった。
従兄とも父とも違う声。声変わりをしていない弟は除外したとして、叔父とも違う。私の身近には存在しなかった声。
低いざらつきが鼓膜を震わせると、心の中心部が溜息を吐いて、喘ぐ。どうしようもない思い。
そっと身体を寄せ、高い位置にあるキールの肩に頭を乗せた。彼が身じろぎ一つせず、当然のように受け止めてくれたことが酷く嬉しくて、小さく笑みがこぼれた。まるで子供のように。
ならば、私にとっての星は貴方だった。
月ばかりを見つめ、盲目になっていた私を、あの狭い世界から連れ出してくれたのは、他ならぬ貴方だった。貴方以外の誰でもなかった。
空の小さな星の如く、目をこらさなければ見えない多くの人の世界で、たった一人、私を導いてくれた人なのだから。
私にとっての唯一の人は、もうすでに決まっているけれど、それでも――
この気持ちは、紛れもなく恋なのです。
だから我が儘を言い、多くの人を裏切りながら、貴方に縋り付いているのです。
二人で旅をするのは、大抵の場合が歩きだった。時には乗合馬車を利用したりもしたが、基本は常に徒歩の旅。昼も夜も、気が向いたときに休む以外は、大したあてもなくさまよい歩いた。
元々私は山育ちであるし、キールも体力勝負の仕事をしていただけあって、歩くことは全く苦にならなかった。
何より、一人でなく、二人でいたのだから。
夜道を歩くとき、キールは静かに星を見ていた。方角を調べるかのように、長い指先で星空をなぞる。
その横顔を眺めてから、私はいつも月を見る。そうして、祈ってもよろしいでしょうか、と心で呟いてから、静かに祈りの言葉を唇に載せるのだ。
どうかどうか。
何を祈る訳でもなく、全てを願った。
荒野に並んで腰を下ろし、いつも星を見る訳を尋ねると、矢張り彼は方角を見ていたのだそうだ。大した意味はないけれど、と笑うその声が香月はとても好きだった。
従兄とも父とも違う声。声変わりをしていない弟は除外したとして、叔父とも違う。私の身近には存在しなかった声。
低いざらつきが鼓膜を震わせると、心の中心部が溜息を吐いて、喘ぐ。どうしようもない思い。
そっと身体を寄せ、高い位置にあるキールの肩に頭を乗せた。彼が身じろぎ一つせず、当然のように受け止めてくれたことが酷く嬉しくて、小さく笑みがこぼれた。まるで子供のように。
ならば、私にとっての星は貴方だった。
月ばかりを見つめ、盲目になっていた私を、あの狭い世界から連れ出してくれたのは、他ならぬ貴方だった。貴方以外の誰でもなかった。
空の小さな星の如く、目をこらさなければ見えない多くの人の世界で、たった一人、私を導いてくれた人なのだから。
私にとっての唯一の人は、もうすでに決まっているけれど、それでも――
この気持ちは、紛れもなく恋なのです。
だから我が儘を言い、多くの人を裏切りながら、貴方に縋り付いているのです。
細い四肢。
所々筋が張っているのに、ごつごつとしていない。骨があまり目立たないし、肉もどことなく柔らかい。決して太くならない、力強さの欠けた腕。
薄い上半身。
男性のような厚みのない、薄っぺらい胸。かといって、女性のようなふくよかさも柔らかさも持ち合わせていない。何もない。空っぽな身体。
いつまで経っても幼い顔。
まるで成長することを戸惑っているかのように。
いらない知識。
家族の一人がくれた物。
これだけ。これで全部。これしか持っていない。
けれど、絶対的に足りなくて、少し苦しいような気がした。
所々筋が張っているのに、ごつごつとしていない。骨があまり目立たないし、肉もどことなく柔らかい。決して太くならない、力強さの欠けた腕。
薄い上半身。
男性のような厚みのない、薄っぺらい胸。かといって、女性のようなふくよかさも柔らかさも持ち合わせていない。何もない。空っぽな身体。
いつまで経っても幼い顔。
まるで成長することを戸惑っているかのように。
いらない知識。
家族の一人がくれた物。
これだけ。これで全部。これしか持っていない。
けれど、絶対的に足りなくて、少し苦しいような気がした。
香月がふと目を覚ますと、窓から白い光が差し込んでいた。カーテンを閉め忘れたまま眠っていたらしい。良い夢を見ていた気がしたのに、眩しくて目が覚めたのだろう。
カーテンを閉めようかとも思ったが、身体を動かすことが億劫で、彼女はぼんやりと窓の外を眺め、溜息を吐いた。
自由に動かせない身体と、いつの間にか気力やら体力を奪い去っていく病が、この上なく憎らしかった。
気がつけば、細くなっている自分の四肢や、外に出ないために白すぎる肌も、健康だった時よりも明らかに鈍っている思考回路も、全てが憎かった。
死にたくないなぁ。
口には出さずに呟き、彼女は遠い空を見上げた。
太陽が昇りきっていない白い空には、微かに月が浮かんで見える。今にもかき消されてしまいそうな、薄い色の真っ白な月。
その、本来の姿とは同じでありながらも大きく違う、儚い姿に香月はふと親友の姿を思い出した。風に揺れ、光を透かし、影さえできず、血も涙も流せなくなってしまった親友を。
約束を破り、月の加護からはずされた悲しい亡霊。
「本当に、馬鹿な人」
ぽつりと呟くと、病の所為か昔よりもずっと弱くなっている心が、軋むように悲鳴を上げた気がした。
約束を破った代償に、身を引くとか、会わないとか。そんな訳の分からないことを言った彼は、その言葉通り香月の前に姿を現そうとはしない。
死んでしまったとて、亡霊となってしまったとて、それでもやはり変わらないものがあるというのに。
「なんて、馬鹿な人」
もう一度呟き、喉の奥から迫り上がってくる言葉にならない思いを、香月は噛み殺した。
そうして気づいてしまった。
先程見た、良い夢の光景の中に、誰がいたのかを。
月はもう、彼のことなど愛していないだろう。
それでも彼女には、彼の幸せを月に祈ることしかできなかった。
愚かなことと、知りつつも。
カーテンを閉めようかとも思ったが、身体を動かすことが億劫で、彼女はぼんやりと窓の外を眺め、溜息を吐いた。
自由に動かせない身体と、いつの間にか気力やら体力を奪い去っていく病が、この上なく憎らしかった。
気がつけば、細くなっている自分の四肢や、外に出ないために白すぎる肌も、健康だった時よりも明らかに鈍っている思考回路も、全てが憎かった。
死にたくないなぁ。
口には出さずに呟き、彼女は遠い空を見上げた。
太陽が昇りきっていない白い空には、微かに月が浮かんで見える。今にもかき消されてしまいそうな、薄い色の真っ白な月。
その、本来の姿とは同じでありながらも大きく違う、儚い姿に香月はふと親友の姿を思い出した。風に揺れ、光を透かし、影さえできず、血も涙も流せなくなってしまった親友を。
約束を破り、月の加護からはずされた悲しい亡霊。
「本当に、馬鹿な人」
ぽつりと呟くと、病の所為か昔よりもずっと弱くなっている心が、軋むように悲鳴を上げた気がした。
約束を破った代償に、身を引くとか、会わないとか。そんな訳の分からないことを言った彼は、その言葉通り香月の前に姿を現そうとはしない。
死んでしまったとて、亡霊となってしまったとて、それでもやはり変わらないものがあるというのに。
「なんて、馬鹿な人」
もう一度呟き、喉の奥から迫り上がってくる言葉にならない思いを、香月は噛み殺した。
そうして気づいてしまった。
先程見た、良い夢の光景の中に、誰がいたのかを。
月はもう、彼のことなど愛していないだろう。
それでも彼女には、彼の幸せを月に祈ることしかできなかった。
愚かなことと、知りつつも。
闇とは優しいものだ。
月代にとって、闇というのは、生まれたときから側にあった。
彼よりもずっと力を持っている母や姉も、闇の精霊だけは言葉を聞くことも叶わなかった。彼女たちは、光の中で生きる人たちであったのだから、それはある意味当然のことなのかもしれない。
元々、月の光を浴びて生きる一族だけあって、闇を心底疎んじているような人はいない。けれど矢張り、誰もが求めるのは月の光なのだ。夜の闇ではない。
彼はその光の途切れた、新月の夜に生まれた。
だからなのだろうか。闇をとても優しいと思ってしまうのは。
新月の夜は、一族の誰もが命からがらといった風情だ。月の恩恵を受けられないと言うことが、本当に耐え難い苦痛なのだそうだ。確かに両親も姉も、このときばかりは自分のことだけで精一杯という様子だった。
そんな中、新月の加護をもって生まれた月代は、闇に苦しむこともなく、いつも通りの生活を続けることができる。
星の灯りばかりが目立つ夜空を見上げ、しっとりとした草原に寝ころぶと、闇の精霊がふわりと近寄ってくるのが分かった。
いつもそうだ。
身体を包み込むように、そっと身を寄せてくる闇は、どうしようもないほどに緩やかな温もりを持っている。それでいて触れた瞬間だけ、ふっと空気が涼しく感じられるのだ。
闇は終わりを司ると言うが、それは本当に真実だと思う。
終末と、そこから新たに何かが生まれる再生。傷をつけておきながら、もう大丈夫と耳元で囁くような、静かな誘惑。
純粋な優しさと労りで、闇は何かを奪っていく。そうして、忘却の川に溺れながら、また明日を手に入れることができてしまうのだ。
目を閉じても広がる暗闇の向こう側に、手を伸ばしそうになり、月代は寝返りを打った。
その瞬間、しっとりとした夜露が頬に触れ、そっと流れ落ちていった。
月代にとって、闇というのは、生まれたときから側にあった。
彼よりもずっと力を持っている母や姉も、闇の精霊だけは言葉を聞くことも叶わなかった。彼女たちは、光の中で生きる人たちであったのだから、それはある意味当然のことなのかもしれない。
元々、月の光を浴びて生きる一族だけあって、闇を心底疎んじているような人はいない。けれど矢張り、誰もが求めるのは月の光なのだ。夜の闇ではない。
彼はその光の途切れた、新月の夜に生まれた。
だからなのだろうか。闇をとても優しいと思ってしまうのは。
新月の夜は、一族の誰もが命からがらといった風情だ。月の恩恵を受けられないと言うことが、本当に耐え難い苦痛なのだそうだ。確かに両親も姉も、このときばかりは自分のことだけで精一杯という様子だった。
そんな中、新月の加護をもって生まれた月代は、闇に苦しむこともなく、いつも通りの生活を続けることができる。
星の灯りばかりが目立つ夜空を見上げ、しっとりとした草原に寝ころぶと、闇の精霊がふわりと近寄ってくるのが分かった。
いつもそうだ。
身体を包み込むように、そっと身を寄せてくる闇は、どうしようもないほどに緩やかな温もりを持っている。それでいて触れた瞬間だけ、ふっと空気が涼しく感じられるのだ。
闇は終わりを司ると言うが、それは本当に真実だと思う。
終末と、そこから新たに何かが生まれる再生。傷をつけておきながら、もう大丈夫と耳元で囁くような、静かな誘惑。
純粋な優しさと労りで、闇は何かを奪っていく。そうして、忘却の川に溺れながら、また明日を手に入れることができてしまうのだ。
目を閉じても広がる暗闇の向こう側に、手を伸ばしそうになり、月代は寝返りを打った。
その瞬間、しっとりとした夜露が頬に触れ、そっと流れ落ちていった。
ぱらぱらという雨音に、ふと目が覚めた。どうもうたた寝をしていたらしい。やる気のないぼやけた欠伸を一つして、氷河は何度も瞬きを繰り返した。
夢を見た。
それは過去の再現だった。
どうもこの雨音の所為らしく、夢の舞台も雨の中だった。森に囲まれた故郷の土と緑の匂い。温い夕立を浴びて、一層濃くなったその匂いの中に響いた声が、今でも鼓膜の裏でがんがんと耳鳴りのように、それでいておぼろに聞こえてくる。
繰り返す瞬きの合間にも、夢で見た懐かしい風景がちらほらと見え隠れしてならない。懐かしい景色と楽しげに笑う紅い瞳。親友の姿だった。
目を閉じてはいけない。あの風景を思い出してはいけない。
そんな命令を理性が必死になって発していたけれど、何も考えないまま氷河は目を閉じていた。
そうして鮮明な映像と、色褪せない言葉の数々を手にしてしまった。
その後のことは、なにがなんだか彼には分からなかった。
ただ、何かがぐちゃぐちゃになるような感覚を味わい、自分のどこかがぶるぶると震えるような感覚を味わったことだけ、それだけ分かった。
知っていた筈なのだ。
分かっていた筈なのに。
――彼女の記憶だけは、心の準備もなく思い出してはいけないと。
氷河にとって、彼女だけはどうしようもないほどに、特別だったのだ。
特別という陳腐な言葉でしか、言い表せないほどに。他のどんな言葉でも代用できないほどに、唯一無二の存在だった。
まだ彼女が近くにいた、あの頃の生活はとても幸せなものだった。柔らかな真綿にくるまれ、爽やかな緑の風に包まれているような、穏やかで優しすぎる日々。
あの懐かしい日々は、今となってはあまりにも、遠い。
何も見たくないと、空虚な目を見開いていると、今度は本当に何も見えなくなって、氷河は半ば無意識に目を閉じた。
今度は暗闇が広がっただけ。
懐かしい光景が見えないことに、安堵と落胆を感じながら、彼は細い溜息を吐いた。
夕立のように唐突に現れ、何事もなかったかのように消え去っていく風景は、壊れかけた心に染み渡ることもなく、ただ冷たすぎる優しさで、彼の何かを毀していった。
夢を見た。
それは過去の再現だった。
どうもこの雨音の所為らしく、夢の舞台も雨の中だった。森に囲まれた故郷の土と緑の匂い。温い夕立を浴びて、一層濃くなったその匂いの中に響いた声が、今でも鼓膜の裏でがんがんと耳鳴りのように、それでいておぼろに聞こえてくる。
繰り返す瞬きの合間にも、夢で見た懐かしい風景がちらほらと見え隠れしてならない。懐かしい景色と楽しげに笑う紅い瞳。親友の姿だった。
目を閉じてはいけない。あの風景を思い出してはいけない。
そんな命令を理性が必死になって発していたけれど、何も考えないまま氷河は目を閉じていた。
そうして鮮明な映像と、色褪せない言葉の数々を手にしてしまった。
その後のことは、なにがなんだか彼には分からなかった。
ただ、何かがぐちゃぐちゃになるような感覚を味わい、自分のどこかがぶるぶると震えるような感覚を味わったことだけ、それだけ分かった。
知っていた筈なのだ。
分かっていた筈なのに。
――彼女の記憶だけは、心の準備もなく思い出してはいけないと。
氷河にとって、彼女だけはどうしようもないほどに、特別だったのだ。
特別という陳腐な言葉でしか、言い表せないほどに。他のどんな言葉でも代用できないほどに、唯一無二の存在だった。
まだ彼女が近くにいた、あの頃の生活はとても幸せなものだった。柔らかな真綿にくるまれ、爽やかな緑の風に包まれているような、穏やかで優しすぎる日々。
あの懐かしい日々は、今となってはあまりにも、遠い。
何も見たくないと、空虚な目を見開いていると、今度は本当に何も見えなくなって、氷河は半ば無意識に目を閉じた。
今度は暗闇が広がっただけ。
懐かしい光景が見えないことに、安堵と落胆を感じながら、彼は細い溜息を吐いた。
夕立のように唐突に現れ、何事もなかったかのように消え去っていく風景は、壊れかけた心に染み渡ることもなく、ただ冷たすぎる優しさで、彼の何かを毀していった。
『a deficiency disease』
2004年8月7日 狐 何が足りないのかと言われれば、全て足りなかった。
そのくせ、具体的に何がと聞かれたら、葉月は言葉に詰まるしかなかった。
思い出すのは父の背中。
追いかけることしかできない背中。手を伸ばしても、背伸びしても、そのままジャンプしても届かない高い壁。そんな父に葉月は憧れや尊敬や、それでいて拭いきれない曖昧な感情を抱いた。
父は我が子である葉月より、きっと母を愛していた。むしろ、我が子であるからこそ、自分の血を引いているからこそのことだったのだと、なんとなくは分かる年齢になった。
不器用な人だったのだ。感情というものをどこか余所余所しく見ているような人だった。素直に自分を好きになれない人だった。
きっと父は自分のことが嫌いだったのだ。
だから母の方を愛していたのだ。
それが恨めしいとか、悔しいとか思ったりはしない。ただ、命を失いつつある母と過ごした、あの日々を思い出しては、何故家にいてくれなかったのかと。時々、思ってしまう。
ああ、けれど。
父は決して強い人ではなかったのだろう。優しく弱く、何かに怯えていたのだろう。
身体の大きさを感じさせないほど、音もなく動き、時折振り返るあの眼差し。そして負ぶさったとき、自分が腕を回した首筋のたくましさは、今でも感触として残っている。
瞼に焼き付いたのは母の手のひら。
白く細い指先。仕事で少しがさついた体温。柔らかな愛おしさと緩やかな儚さばかりが、喉の奥から込み上がってくる。
暖かい眼差しを葉月に向け、白い両腕でそっと抱き寄せては、何かに安堵するように笑う母。その微笑みは微かな面影としてのみ、記憶に残っている。
母が病に倒れ、父が旅に出て行き、二人きりになった日々。
静かに、けれど確実に死へと向かう母と二人の生活は、幼く何も知らなかったからこそできたものだろう。あの頃は死というものが分からなかった。母がいなくなるということが、よく理解できていなかった。だからあんなにも自然に、葉月は笑えたのだ。
もし今、またあんな生活をすることがあったなら。
きっと涙がとまらない。
母は強い人だった。とても強い人だった。
怒って笑って、抱きしめて、怒鳴る姿は、何よりも真っ直ぐだった筈なのに、その姿は一つとして葉月の記憶に残っていない。
耳に残っているのは養い親の声。
幼かった葉月の前に突然現れた亡霊は、母が眠ったことを教えてくれた。他愛のない優しい嘘で、無知な子供を慰めて、そうして世界を見せてくれると言った。その声だ。
母の親友だという彼はとてもつかみ所のない人で、過保護だと思えば、急に放任主義に変わり、真面目と不真面目の間を行き来しながら、それでも葉月を可愛がってくれていたのだろう。
魔法の使い方や、独りでの生き方を教えてくれたのも、きっと彼だった。今更ながらにそう思う。
そのくせ、養い親はなんというか、馬鹿な人だった。
あんなに一緒に暮らしたというのに、結局分かってくれないことも山ほどあった。
だから、彼と過ごした日々が、穏やかとは言い切れないほどに騒がしく、けれどそんな慌ただしい日々が何よりも優しかっただなんて。
口が裂けても言ってはやらないのだ。
三人の家族がこの世界から消えてから流れる時間は、あまりに穏やかで、時々不安になる。本当に時間が動いているのか。それくらいに世界は静かに感じられる。
生活に大して不自由さは感じていない。
父に教えてもらったおかげか、武器の扱いもそれなりにできる。
母の血筋のおかげで、魔法も使える。尤もその実力は母の足下にも及ばないが、不思議と精霊には好かれている。
養い親は魔法の使い方と、様々な道具を作り出す術を教えてくれた。おかげである程度の収入は安定して手に入れられる。
けれど。
どれもが中途半端に終わってしまっているとも言えるのだ。
いつだって何かしら足りなかった。
両親からたくさんの物を貰い、養い親にたくさんのことを教えてもらったにもかかわらず、それでもまだ足りていない。
みんな、いないからだ。
ぽつりと呟いた言葉は、葉月自身にさえ聞き取れないほど、小さく響いた。
そのくせ、具体的に何がと聞かれたら、葉月は言葉に詰まるしかなかった。
思い出すのは父の背中。
追いかけることしかできない背中。手を伸ばしても、背伸びしても、そのままジャンプしても届かない高い壁。そんな父に葉月は憧れや尊敬や、それでいて拭いきれない曖昧な感情を抱いた。
父は我が子である葉月より、きっと母を愛していた。むしろ、我が子であるからこそ、自分の血を引いているからこそのことだったのだと、なんとなくは分かる年齢になった。
不器用な人だったのだ。感情というものをどこか余所余所しく見ているような人だった。素直に自分を好きになれない人だった。
きっと父は自分のことが嫌いだったのだ。
だから母の方を愛していたのだ。
それが恨めしいとか、悔しいとか思ったりはしない。ただ、命を失いつつある母と過ごした、あの日々を思い出しては、何故家にいてくれなかったのかと。時々、思ってしまう。
ああ、けれど。
父は決して強い人ではなかったのだろう。優しく弱く、何かに怯えていたのだろう。
身体の大きさを感じさせないほど、音もなく動き、時折振り返るあの眼差し。そして負ぶさったとき、自分が腕を回した首筋のたくましさは、今でも感触として残っている。
瞼に焼き付いたのは母の手のひら。
白く細い指先。仕事で少しがさついた体温。柔らかな愛おしさと緩やかな儚さばかりが、喉の奥から込み上がってくる。
暖かい眼差しを葉月に向け、白い両腕でそっと抱き寄せては、何かに安堵するように笑う母。その微笑みは微かな面影としてのみ、記憶に残っている。
母が病に倒れ、父が旅に出て行き、二人きりになった日々。
静かに、けれど確実に死へと向かう母と二人の生活は、幼く何も知らなかったからこそできたものだろう。あの頃は死というものが分からなかった。母がいなくなるということが、よく理解できていなかった。だからあんなにも自然に、葉月は笑えたのだ。
もし今、またあんな生活をすることがあったなら。
きっと涙がとまらない。
母は強い人だった。とても強い人だった。
怒って笑って、抱きしめて、怒鳴る姿は、何よりも真っ直ぐだった筈なのに、その姿は一つとして葉月の記憶に残っていない。
耳に残っているのは養い親の声。
幼かった葉月の前に突然現れた亡霊は、母が眠ったことを教えてくれた。他愛のない優しい嘘で、無知な子供を慰めて、そうして世界を見せてくれると言った。その声だ。
母の親友だという彼はとてもつかみ所のない人で、過保護だと思えば、急に放任主義に変わり、真面目と不真面目の間を行き来しながら、それでも葉月を可愛がってくれていたのだろう。
魔法の使い方や、独りでの生き方を教えてくれたのも、きっと彼だった。今更ながらにそう思う。
そのくせ、養い親はなんというか、馬鹿な人だった。
あんなに一緒に暮らしたというのに、結局分かってくれないことも山ほどあった。
だから、彼と過ごした日々が、穏やかとは言い切れないほどに騒がしく、けれどそんな慌ただしい日々が何よりも優しかっただなんて。
口が裂けても言ってはやらないのだ。
三人の家族がこの世界から消えてから流れる時間は、あまりに穏やかで、時々不安になる。本当に時間が動いているのか。それくらいに世界は静かに感じられる。
生活に大して不自由さは感じていない。
父に教えてもらったおかげか、武器の扱いもそれなりにできる。
母の血筋のおかげで、魔法も使える。尤もその実力は母の足下にも及ばないが、不思議と精霊には好かれている。
養い親は魔法の使い方と、様々な道具を作り出す術を教えてくれた。おかげである程度の収入は安定して手に入れられる。
けれど。
どれもが中途半端に終わってしまっているとも言えるのだ。
いつだって何かしら足りなかった。
両親からたくさんの物を貰い、養い親にたくさんのことを教えてもらったにもかかわらず、それでもまだ足りていない。
みんな、いないからだ。
ぽつりと呟いた言葉は、葉月自身にさえ聞き取れないほど、小さく響いた。
曇った夜空を眺めていると、なぜだか溜息ばかりがこぼれ落ちる。
否、何故かなんて、分かり切っている。
月が見えない。ただそれだけ。
分厚い雲に遮られた灰色の夜空は、どことなく空々しく感じられる。家の縁側に座り、ぼんやりと上空を眺めながら、月代はそんなことを思った。
柔らかな銀色の光を、完全に遮ってしまう雲。
新月とは比べるまでもないけれど、それでも矢張り、月代たちの一族にとって、これは小さな拷問だ。きっと今頃、父は母と親友を宥めるのに必死になっているのだろう。
彼は月の加護をほんの少ししかもらえなかった。そのため、皮肉にもこんな夜だろうと、新月の晩だろうと、比較的その影響を受けずにいられるのだ。その逆が、母やその従兄だ。
難儀なものだと思う。
愛されれば愛された分だけ、その愛情が途絶えた時の衝撃は激しい。苦しいくて苦しくて、息も出来ない。いつだったか、母が笑いながらそう言ったことを、月代はよく覚えている。
いっそ最初から愛されなければ。そうすれば楽でいられる。
けれどそんなこと、誰も望めない。
生まれたときから、月は神であり、尊敬と崇拝と愛情を捧げるべき存在であるのだから。
だからこんな夜は、誰もが寄り添い合って、慰め合う。独りではいられないと。
そうでないのは、ほんの一部の例外のみ。
その僅かな例外に当てはまってしまう月代は、だからこうやって独り空を眺めている。
彼がこの世に命を受けたその日、空に月は輝かなかった。
そして彼は闇の加護を受け取った。本当に稀なことだ。極々希少で、珍しい例外。勿論、両親の血を受け継いだこともあり、光の加護も持っているし、月にも愛されている。
だがしかし、こんな晩も新月の夜も、大した苦しみもなく独りでいられるのは、喜ぶべきことなのだろうか。不満はないけれど、喜ぶことも出来ないのは、贅沢なのだろうか。
苦しみを誰かと分かち合い、寄り添い、傷を舐めあいながらも、頼り合える関係が、とても素晴らしく思えるのは、痛みを知らない者の錯覚なのだろうか。
月代には分からない。
ただ、今はもういない姉と、恐らく彼女と支え合っていた従兄を思い出した。彼女たちは本当の意味で支え合っていた。弱い部分と強い部分を補い合いながら、生きていくことの出来る人たちだった。
そして自分に与えられた力を心から愛せる父を、羨ましく思いながら尊敬する。彼は本当に強い人だ。弱さに負けない強さを持っている人だ。
ああ、けれど――。
ただ独りになりたくないんだ。
小さく呟いた月代の銀の髪に、闇の精霊が小さく口付けた。
否、何故かなんて、分かり切っている。
月が見えない。ただそれだけ。
分厚い雲に遮られた灰色の夜空は、どことなく空々しく感じられる。家の縁側に座り、ぼんやりと上空を眺めながら、月代はそんなことを思った。
柔らかな銀色の光を、完全に遮ってしまう雲。
新月とは比べるまでもないけれど、それでも矢張り、月代たちの一族にとって、これは小さな拷問だ。きっと今頃、父は母と親友を宥めるのに必死になっているのだろう。
彼は月の加護をほんの少ししかもらえなかった。そのため、皮肉にもこんな夜だろうと、新月の晩だろうと、比較的その影響を受けずにいられるのだ。その逆が、母やその従兄だ。
難儀なものだと思う。
愛されれば愛された分だけ、その愛情が途絶えた時の衝撃は激しい。苦しいくて苦しくて、息も出来ない。いつだったか、母が笑いながらそう言ったことを、月代はよく覚えている。
いっそ最初から愛されなければ。そうすれば楽でいられる。
けれどそんなこと、誰も望めない。
生まれたときから、月は神であり、尊敬と崇拝と愛情を捧げるべき存在であるのだから。
だからこんな夜は、誰もが寄り添い合って、慰め合う。独りではいられないと。
そうでないのは、ほんの一部の例外のみ。
その僅かな例外に当てはまってしまう月代は、だからこうやって独り空を眺めている。
彼がこの世に命を受けたその日、空に月は輝かなかった。
そして彼は闇の加護を受け取った。本当に稀なことだ。極々希少で、珍しい例外。勿論、両親の血を受け継いだこともあり、光の加護も持っているし、月にも愛されている。
だがしかし、こんな晩も新月の夜も、大した苦しみもなく独りでいられるのは、喜ぶべきことなのだろうか。不満はないけれど、喜ぶことも出来ないのは、贅沢なのだろうか。
苦しみを誰かと分かち合い、寄り添い、傷を舐めあいながらも、頼り合える関係が、とても素晴らしく思えるのは、痛みを知らない者の錯覚なのだろうか。
月代には分からない。
ただ、今はもういない姉と、恐らく彼女と支え合っていた従兄を思い出した。彼女たちは本当の意味で支え合っていた。弱い部分と強い部分を補い合いながら、生きていくことの出来る人たちだった。
そして自分に与えられた力を心から愛せる父を、羨ましく思いながら尊敬する。彼は本当に強い人だ。弱さに負けない強さを持っている人だ。
ああ、けれど――。
ただ独りになりたくないんだ。
小さく呟いた月代の銀の髪に、闇の精霊が小さく口付けた。
『Fly me to the moon』
2004年7月2日 狐 月までつれていって。
本当は貴方と月へ行きたかった。
そこで死んで、果てて、生まれ変わって、もう一度貴方に会いたい。
そんなことを思うくらいには、貴方のことが好き。
本当は貴方と月へ行きたかった。
そこで死んで、果てて、生まれ変わって、もう一度貴方に会いたい。
そんなことを思うくらいには、貴方のことが好き。
誰にしても、この人以上に好きな人はいない、という人が現れるらしい。
大事で大切で愛しくて、少し切なくて、厳しく叱咤し、優しく抱き留め、無言で寄り添いながらも、恋しくて堪らない人が。
愛という言葉で表すには、あまりにも小さく、幼く、不器用で。
恋と呼ぶには、大きすぎて、抱えきれず、重すぎる。
そんな人が。
最近、ようやく理解したことがある。
それは、母にとって、それくらい大事な人というのが、葉月の養い親であるだろう、ということだ。父ではなく、親友であり、従兄である彼を、きっと母は誰より大切に思っていた。
そのことを今更ながら気づいた訳は、きっと彼が消えてしまったからだろう。月へ行こうかと思う。そんな軽い言葉を残して、あっさりと消えてしまった養い親。
大事な物は、失ってやっと気がつくとはよく言うけれど、彼が消えてしまって、彼のことをやっと理解できたなど。
口が裂けても言う気にはなれなかった。
大事で大切で愛しくて、少し切なくて、厳しく叱咤し、優しく抱き留め、無言で寄り添いながらも、恋しくて堪らない人が。
愛という言葉で表すには、あまりにも小さく、幼く、不器用で。
恋と呼ぶには、大きすぎて、抱えきれず、重すぎる。
そんな人が。
最近、ようやく理解したことがある。
それは、母にとって、それくらい大事な人というのが、葉月の養い親であるだろう、ということだ。父ではなく、親友であり、従兄である彼を、きっと母は誰より大切に思っていた。
そのことを今更ながら気づいた訳は、きっと彼が消えてしまったからだろう。月へ行こうかと思う。そんな軽い言葉を残して、あっさりと消えてしまった養い親。
大事な物は、失ってやっと気がつくとはよく言うけれど、彼が消えてしまって、彼のことをやっと理解できたなど。
口が裂けても言う気にはなれなかった。
『Yesterday once more』
2004年6月28日 狐 昨日という日が、やけに懐かしく感じられるのは、いるはずの人がいないからなのだと、ようやく羽水は気づいた。
月が隠れた、とは言ってしまえば、力ある誰かが死んだということだ。今回は、それが親友だった。
同じ日に生まれ、同じ光を浴びて育ちながら、全く違う性質の力を持ち、正反対の家に生まれた親友。先日、彼は眠るように月へ旅だってしまった。
きっと今頃は、もう月の光に溶けてしまったに違いない。そうして早々と生まれ変わる準備をしているのかもしれない。
昨日までは、すぐ隣にいたというのに。
今ではもう、こんなにも、これほどまでに遠い。
最初に死んだのは、親友の妻でもある妹だった。
そして次に、羽水の妻が死んだ。病気だった。
親友は、妻と同じ病に倒れ、そして月へと帰って行った。
取り残された、とは思わない。
ただ、けれど、独り残ってしまったと、そればかり思ってしまう。
共に逝けないことなど、知っていた。それがどうしたって無理であることくらい、知っていた。
けれどその、思いこみや無知にも似た知識のおかげで、ずるずると生き延びてしまったこともまた事実で、時折羽水は泣きたくなる。
昨日が愛しいとは思うまい。
もう一度、昨日を手に入れたいとは思うまい。
ただ矢張り、懐かしさと愛しさと切なさばかりが募って、涙も溢れなかった。
月が隠れた、とは言ってしまえば、力ある誰かが死んだということだ。今回は、それが親友だった。
同じ日に生まれ、同じ光を浴びて育ちながら、全く違う性質の力を持ち、正反対の家に生まれた親友。先日、彼は眠るように月へ旅だってしまった。
きっと今頃は、もう月の光に溶けてしまったに違いない。そうして早々と生まれ変わる準備をしているのかもしれない。
昨日までは、すぐ隣にいたというのに。
今ではもう、こんなにも、これほどまでに遠い。
最初に死んだのは、親友の妻でもある妹だった。
そして次に、羽水の妻が死んだ。病気だった。
親友は、妻と同じ病に倒れ、そして月へと帰って行った。
取り残された、とは思わない。
ただ、けれど、独り残ってしまったと、そればかり思ってしまう。
共に逝けないことなど、知っていた。それがどうしたって無理であることくらい、知っていた。
けれどその、思いこみや無知にも似た知識のおかげで、ずるずると生き延びてしまったこともまた事実で、時折羽水は泣きたくなる。
昨日が愛しいとは思うまい。
もう一度、昨日を手に入れたいとは思うまい。
ただ矢張り、懐かしさと愛しさと切なさばかりが募って、涙も溢れなかった。
ぐるり廻って、元の位置。
一段登って、元の位置。
いつまでも終わらない時間があるのだと、信じていた時があった。恋人が出来るまでのことだ。
彼と出会うことで、やっと自分の中にある時間の流れを認識することができた。それまではずっと、ずっと今が続くのだと、心のどこかで信じていたのだろう。それほど、穏やかな時間だった。
辛いことがないわけでもなかった。苦しいことも一応あった。けれどそれらに目がいかないほど、楽しいことは山のようにあった。嬉しいこともあった。愛しい人と、愛しい神の側にいられた。
けれど彼と出会った。
その瞬間、私の中で一つの永遠が崩れ去った。終わってしまった。今の位置から、自然と動いてしまったのだ。
そうして、永遠がないことを知ってしまった。いつか、全ては終わる。終わってしまう。そのことに気がついた。
永遠に続くと思っていた生活は終わりを告げ、恋人との生活が始まった。
永遠に続くと、幼い頃から信じていたのは、家族と親友と神のいる生活だった。それは終わることのない、永遠だと信じていた。何よりも近いけれど遠い話だと、思っていた。
けれどまた、全ては廻るのだろう。
新しい生活も、きっと終わらない。けれどふとした拍子に、壁が崩れ落ちてしまう。
巡り廻って。
それでも、私は、貴方を思う。
一段登って、元の位置。
いつまでも終わらない時間があるのだと、信じていた時があった。恋人が出来るまでのことだ。
彼と出会うことで、やっと自分の中にある時間の流れを認識することができた。それまではずっと、ずっと今が続くのだと、心のどこかで信じていたのだろう。それほど、穏やかな時間だった。
辛いことがないわけでもなかった。苦しいことも一応あった。けれどそれらに目がいかないほど、楽しいことは山のようにあった。嬉しいこともあった。愛しい人と、愛しい神の側にいられた。
けれど彼と出会った。
その瞬間、私の中で一つの永遠が崩れ去った。終わってしまった。今の位置から、自然と動いてしまったのだ。
そうして、永遠がないことを知ってしまった。いつか、全ては終わる。終わってしまう。そのことに気がついた。
永遠に続くと思っていた生活は終わりを告げ、恋人との生活が始まった。
永遠に続くと、幼い頃から信じていたのは、家族と親友と神のいる生活だった。それは終わることのない、永遠だと信じていた。何よりも近いけれど遠い話だと、思っていた。
けれどまた、全ては廻るのだろう。
新しい生活も、きっと終わらない。けれどふとした拍子に、壁が崩れ落ちてしまう。
巡り廻って。
それでも、私は、貴方を思う。
彼は無邪気に笑うから。
この劣情など、見向きもせずに。
だから親友という立場にいられ、少しばかり強気に出られ、彼のことを好きになれたのだろう。
最近、ふとそう思った。
この劣情など、見向きもせずに。
だから親友という立場にいられ、少しばかり強気に出られ、彼のことを好きになれたのだろう。
最近、ふとそう思った。
『Shooting Star』
2004年6月22日 狐 流星が見れるらしい。
そう教えてくれた親友の声が、まるで子供のように弾んでいたから、羽水は少し呆れたような顔をしてみせた。特に意味はない。ただ、嬉しそうな蒼河と共に、嬉しそうな顔をするのは少しばかり癪だと思った。それだけだ。
けれどそんな羽水にはお構いもせず、蒼河は話を進めていた。だから今晩は星を見に行こう。何時には出掛けよう。行き先はどこか。これもいつものこと。
その晩、森を小一時間歩いた場所にある、少し広がった丘に二人で寝そべり、空を見上げた。
月が相も変わらず、銀色の光を放っている。柔らかな光が、世界に降り注ぎ、愛情を持って、命ある物を祝福している。そんな気がした。
今のところ、月にもっとも愛されているであろう親友は、矢張り月の光を浴びて、幸せそうにゆったりとしていた。午睡を貪る猫のように、ふっと邪気が消えた表情をしている。
「蒼河」
なんとなく名前を呼ぶと、彼は紅い瞳でじっと羽水を見つめ、それから首を傾げるような仕草をした。
「なんでもない」
羽水はそれだけいって、空を見上げた。
自分がそれほど月に愛されていないことを、悲しいと思ったことは、羽水にはあまりない。ただ力が欲しいと思ったことはあったが、水がいれば良いと、それだけ思った。
月ではなく水に愛されたことを、悔しいと思ったりはしない。愛された分だけ、愛しているのだから。
それでも矢張り、時々光が恋しくなる。
柔らかな銀色の光に包まれ、神々しくいられる親友を、その時ばかりはつくづく羨ましいと思ってしまう。
ただ、羽水は思うのだ。
月に愛されていなくとも、月に最も愛されている男に、愛されてはいるだろう、と。それくらいは自惚れても構わないだろう、と。
藍色の空を流星の群れが走り抜けるのを確認し、羽水は目を閉じた。
月が、まるで星の群れを従えているかのように、巨大な月が、矢張り銀色に輝いていた。
そう教えてくれた親友の声が、まるで子供のように弾んでいたから、羽水は少し呆れたような顔をしてみせた。特に意味はない。ただ、嬉しそうな蒼河と共に、嬉しそうな顔をするのは少しばかり癪だと思った。それだけだ。
けれどそんな羽水にはお構いもせず、蒼河は話を進めていた。だから今晩は星を見に行こう。何時には出掛けよう。行き先はどこか。これもいつものこと。
その晩、森を小一時間歩いた場所にある、少し広がった丘に二人で寝そべり、空を見上げた。
月が相も変わらず、銀色の光を放っている。柔らかな光が、世界に降り注ぎ、愛情を持って、命ある物を祝福している。そんな気がした。
今のところ、月にもっとも愛されているであろう親友は、矢張り月の光を浴びて、幸せそうにゆったりとしていた。午睡を貪る猫のように、ふっと邪気が消えた表情をしている。
「蒼河」
なんとなく名前を呼ぶと、彼は紅い瞳でじっと羽水を見つめ、それから首を傾げるような仕草をした。
「なんでもない」
羽水はそれだけいって、空を見上げた。
自分がそれほど月に愛されていないことを、悲しいと思ったことは、羽水にはあまりない。ただ力が欲しいと思ったことはあったが、水がいれば良いと、それだけ思った。
月ではなく水に愛されたことを、悔しいと思ったりはしない。愛された分だけ、愛しているのだから。
それでも矢張り、時々光が恋しくなる。
柔らかな銀色の光に包まれ、神々しくいられる親友を、その時ばかりはつくづく羨ましいと思ってしまう。
ただ、羽水は思うのだ。
月に愛されていなくとも、月に最も愛されている男に、愛されてはいるだろう、と。それくらいは自惚れても構わないだろう、と。
藍色の空を流星の群れが走り抜けるのを確認し、羽水は目を閉じた。
月が、まるで星の群れを従えているかのように、巨大な月が、矢張り銀色に輝いていた。
目を覚ますと、薄汚れた天井がぼんやりと光っていた。
朝が来たらしい。
大して柔らかくもないベッドで休んだせいか、身体が少し痛い。軋んだ骨を伸ばすように、身体を反らせ、一つ欠伸を漏らした。
それから零れた涙を拭おうとして、気がついた。
頬を涙が伝っていた。
欠伸で零れるような物ではない。それとは比べものにならないくらい、暖かくて、冷たくて、ぐっと心を締め付ける涙。
それが気づかないうちに流れ出していた。
原因は分かり切っていた。夢のせいだ。
だけど。
なんの夢を見たかだなんて、口に出したくもなかった。
もう二度と会えない本当の家族達のことは、心の中だけにしまっておけばいい。
そう、思った。
朝が来たらしい。
大して柔らかくもないベッドで休んだせいか、身体が少し痛い。軋んだ骨を伸ばすように、身体を反らせ、一つ欠伸を漏らした。
それから零れた涙を拭おうとして、気がついた。
頬を涙が伝っていた。
欠伸で零れるような物ではない。それとは比べものにならないくらい、暖かくて、冷たくて、ぐっと心を締め付ける涙。
それが気づかないうちに流れ出していた。
原因は分かり切っていた。夢のせいだ。
だけど。
なんの夢を見たかだなんて、口に出したくもなかった。
もう二度と会えない本当の家族達のことは、心の中だけにしまっておけばいい。
そう、思った。