『I love you more』

2003年11月6日
 眠たげに目をこすりながら葉月がおはようと掠れた声を上げた。
 いつもの光景というわけではないが、見慣れた風景の一つだ。昨夜は帰らなかった氷河がいることに、養い子は今更驚いたりはしない。現状を淡々と受け止めている。

「おはよう、ただいま」

 軽く挨拶をすると、葉月は欠伸をかみ殺しながら、部屋から出て行った。洗面所にでも行ったのだろう。ぱたぱたとスリッパが床をこする音が静かに響いた。

 しばらくして部屋に戻ってきた葉月は、こぎれいな格好に変わっていた。丈の短いズボンとゆったりしたシャツを着ている。頬には少し水滴が着いていた。顔を洗った時に拭き忘れたのだろう。そんなところが、まだ幼い。

「氷河はさぁ」
「ん?」

 唐突に話しかけられ、読んでいた新聞から目を離した。なんだと聞き返すように小さく首をかしげると、大きな金色の瞳がじっと此方を見ていた。

「親らしくないよね」
「なんだよ、それ」

 不意に言われた言葉は、予想外というか予想以上というか、なんというか妙な内容で思わず、とげとげしい声が出てしまった。
 けれど、葉月はそんな声はものともせず、けろりとした様子で続けた。

「普通、思春期の子供の前で朝帰りとかってやらないよ?」
「…………」

 反論は、できなかった。
 葉月の言葉への返事はさっぱり思いつかなかったが、代わりにああこいつも大きくなったなぁとか、そんな感慨深い気持ちがふつふつと湧いた。
 現実逃避に近いものがある。

「…それだけ」

 氷河が反論しないのがつまらなかったのか、葉月は少し顔をしかめるとそのまま部屋を出て行った。
 苦しそうな、悲しそうな、何とも言えない顔が目に焼き付いて、しばらく氷河は考え込んだ。

「……そうか」

 答えは急に思いついた。当たっているかどうか、確信はないがなんとなくこれだと思う。

「最近、構ってやらなかったから拗ねてるのか」

 そう思うと、小さく笑いが零れた。
 なんだかんだと言っても、葉月はまだ子供なのだ。

『守護』

2003年11月2日
 守りたいものがある。護りたい人がいる。それはずっと昔から同じことだった。

 守るべき対象は最初は家族だった。水の扱い方を教えてくれた父。その父が老いて、母が亡くなった。水の管理の仕事が自分に降りかかるようになり、自分も少し大人になったのだと、なんとなく実感していた。
 そして大人になったからには、自分が守らなければいけないと思ったのだ。この家族を守らなければいけないと、信じていた。
 けれど、愛しい人たちを守るには自分の力はあまりにもちっぽけだった。水がなければ戦うことも出来ない。形だけの出世もままならない。それがとても歯がゆかった。
 生まれた年月が同じと言うだけで、何故か幼なじみになってしまった男は、自分とは比べものにならない力を持っていた。凡ての精霊に愛され、言葉少なにそれらを操ることが出来た。何をせずとも将来は約束されており、陽気で性格も悪くない。
 だからが憧れと妬み、尊敬と劣等感は、当時に自分においては同義語だったのだ。

 しばらくして父も亡くなった。家族が家族という形を喪っていくような気がして、非道く悲しい気持ちになったことを覚えている。その直後だった。強い友のところに、妹が嫁ぐことになった。そして自分は守る対象を失った。
 もう妹を守る必要は、無くなってしまったのだ。強い力と、高い身分を持った男の元へ嫁げば、彼がきっと守ってくれる。もう、自分が出しゃばる必要はない。ただ笑って祝福してやればいいのだ。ただ、あまりに身分差があったから、反対はしたけれど。
 それでも挙式の時に、幸せそうに微笑む妹を見て、これでよかったのだと安堵したのもまた事実だ。友は妹を慈しんでくれるだろう。

 そんなこんなで、気づけば自分も結婚することになった。それも身分の高い人のところへ婿として入ることになった。これで、自分の家は終わってしまった。水瀬という姓を継ぐものはいなくなってしまったのだ。それはとても寂しいことのように思えたが、彼女が嫁いでくることは不可能に近い。だからこうなった。
 彼女はおとなしく守られてくれるような人ではなく、逆に自分が守られる立場となった。そもそも持って生まれた力が全く違う。
 彼女の力は鮮烈な炎だった。まっすぐでおそれを知らない。炎や光に特に愛された人であった代わりに、水の言葉は少しも聞けない人でもあった。けれど相対的にみれば、明らかに自分の方が弱い。
 それに女だから、妻だからという理由で守りたいなどと言えば、彼女は烈火のごとく怒るだろう。それは彼女の誇りを傷つけるだけの理由だ。

 ずっとそんな状態が続いていたが、子供が生まれると少しばかり状況が変わった。烈火のような妻は、意外と子煩悩だった。炎のような激しさが熱を納め、少しずつ大地のようにおおらかに変化してった。最も、本質的にはあまり変わってはいなかったが。
 そして自分も、小さな子供を見ると、守らなければならないという気持ちに駆られた。守りたい、守らなければいけない。そんな強い気持ちを持つことは初めてだったのかもしれない。
 最初にもった気持ちは、半ば義務感に近いものがあった。自分は長男なのだから、という気持ちだ。
 けれど子供が生まれ、新しく家族が増えると、その気持ちはますます強さを増した。ただひたすらに、愛しいと思った。

 その気持ちを持てるということが、とても幸せなのだと、最近ようやく気が付いた。

『父親』

2003年9月30日
 父親とは一度は超えなければならない壁だと言ったのは誰だったのか。月代には思い出すことができない。
 彼の父は、強い人ではなかった。力だけで言えば、尻尾の数の通り月代の圧勝に終わってしまう。本気で戦えば、その命を奪ってしまうことだろうと、それほど難しくはないだろう。
 逆に母はとても強い人だった。一言でいえば苛烈な人で、迂闊にさわれないほどに鋭い気配を持っている人だ。少しでも攻撃しようものなら、容赦のない十倍返しが帰ってくるような。そんな人だ。

「父さん」

 月代が呼びかけると、森の側に立っていた父はゆっくりとこちらを振り向いた。決して愚鈍な動きではない。流れるような綺麗な動きだと思った。まるで水のような。
 身長はそろそろ追いつきそうだが、月代はまだ線が細い。そのため『男』という雰囲気は、未だ父には追いついていない。

「どうした?」

 父に問われたが、月代はなんでもないとだけ言った。呼びかけておいて変なやつだと、父は小さく笑った。
 その笑いに悲しげなものが入り込んでいるような気がして、月代は首をかしげた。父はすでに森へと視線を移していた。月代のことなど忘れてしまったかのように。

「何してるの?」

 父と並び、同じように森に視線を移して尋ねる。光を通さない深い森は、見渡す限り薄暗いだけで、何も見えては来ない。

「夕月はどうしている?」

 父は月代の問いには答えず、逆に質問をよこしてきた。多少面食らいながらも、家にいると答えると、父は腕を組み、また森を見つめた。

「月代」

 今度は唐突に名前を呼ばれた。どうも今日の父はいつもの嘗てが違う。いつもより回りくどいのか、直球なのかいまいちわからないが、いつもとは違う。

「お前は、目を逸らすな」

 辛いことや悲しいことから目を逸らさずに、それを受け止められるようになれと、父は続けた。
 その言葉を神妙に受け取ってから、ようやく月代も気づいた。今日が一体なんの日であるのか。誰もが忘れたふりをしていることに、やっと気づいた。
 あの母でさえ、日常の中にその事実を埋め、忘れてしまったかのように振る舞っている。実際忘れてしまったのかもしれないし、一人耐えているのかもしれないが。

 今日は優しかった従兄の命日なのだ。

 それが十五歳の時、父を強い人だと感じた記憶。

『流浪の民』

2003年9月29日
  ――慣れし故郷を放たれて 夢に楽土を求めたり――

 こぢんまりとした宿のベッドはスプリングがあまり効いていなくて堅かった。けれど敷布は柔らかかった。毎日天日干しをしているのだろう。太陽の匂いがする。
 そんな布団に顔を埋めて、香月は体に纏ったシーツを引き上げた。朝のしめった空気はひんやりとして、心なしか寒い。ぼんやりとした頭が覚醒するにつれ、軽く身震いをした。
 寝ている間は気づかなかったようだが、一度目覚めてしまうと、その寒さを再認識してしまった。寒さをしのぐために体をぎゅっと縮め、一息つく。
 それから体勢が何となく気に入らなくて、寝返りを一つ打つ。すると温もりを感じた。敷布かシーツかわからないが、それに体温が移っているのだろう。
 その温もりに誘われるように擦り寄る。柔らかな布団とは一転して、ごつごつした感触が肌に触れる。けれどそれさえ心地よい。
 うっすらと目を開くと、いつの間に目覚めたのか金色の瞳がじっとこちらを見ていた。数秒考えて、隣で人間がもぞもぞ動いていれば目が覚めるかと納得した。彼は冒険者でもあるのだし。

「香月」

 耳に響く声は低いのに柔らかい。それだけで、名前を呼ばれるだけで幸せになれる。背中の方からよくわからない気持ちが込みあがってくる。
 何かと問うような視線を向ける。銀色の髪が一房目の前にこぼれていて、邪魔だと思った。髪に遮られて彼の顔がきちんと見えない。

「寒いか?」

 問いかけに香月はゆったりと首を振った。寒いわけがない。先ほどまでの肌寒さなどとうにどこかへ行ってしまった。側にいられるだけで、心の奥が熱くなってくるのだから。

 住み慣れた故郷を飛び出し、もう帰ることは叶わないだろう。親友も両親も裏切り、愛しい神さえ裏切った。
 けれどこの温もりがある限り、自分は後悔などしないだろう。これ以上望むものがないほどの幸せと、それ以上を望んでしまうほどの愛しさがある限り、大丈夫なのだ。
 彼女は楽土を見つけたのだから。

『遠い記憶』

2003年9月28日
 朧気な記憶が脳裏をかすめた。
 一面に広がる月見草の花。鮮烈なまでの黄色とそれを照らす銀の光。薄暗い光の中で、黄色い花弁が黄金のように輝いていた。どこまでも美しく、儚げな光景。それは涙が出るほどに。

 ゆっくりを瞼を押し上げると、視界が歪んでいた。薄絹をかぶせたかのように曖昧な風景をしばらく眺め、ようやく目が潤んでいるのだということに気がついた。
 泣いていたらしい。
 それほどまでに悲しいのかと、自分に問いかけ、自嘲気味に笑った。悲しいに決まっているのだから。思い出すだけで、涙があふれてくる。言葉にならない思いの代わりとでもいうように。

 ごろりと寝ころんで空を眺める。忌々しいほどにすんだ青がこちらを見ている。そんな気がして目を細めた。太陽の光がやけに眩しい。目を焼かれると、ふと思った。
 懐かしいな。言葉に出さずに思う。寂しいな。悲しいな。会いたいな。言葉にならない思いならば、山のように存在する。けれどそれを声に乗せてしまえば、それは儚くも崩れ去り、涙となるだけなのだ。
 情けないね。つぶやいてみた。こちらはきちんと言葉になった。
 会いたいね。無駄とは知りつつも呟いた。愛しい人に会えるならば、きっとどんな無茶でもやるだろう。

 愛しい。
 ただただそれだけ思った。こんな思いは言葉になんかできやしない。ただ切ないほどに愛しくて、胸を占める思いに締め付けられる。微かに覚える痛みさえ、愛しさの証なのだと喜んでしまうほどに。

 馬鹿げているのかもしれない。
 けれど、なんといわれようと、ただただ愛しいのだ。
 ただそれだけなのだ。

『水鏡』

2003年9月26日
「どうした?」

「水」

「水が?」

「おいでって言ってた…」

「…………」

「行った方がよかった?」

「まさか」

「僕、別に水と仲良くないよね?」

「そうだね」

「なんでだろう」

「なんでだろうね」

「水の精霊がさ、喜んでるんだ。会えてうれしいって」

「……そう」

「変だね」

「そうだね」

「なんでか知ってる?」

「知ってるよ」

「ふぅん」

「知りたい?」

「いいや」

「本当に?」

「うん。いいよ。僕も水は嫌いじゃないし」

「そう」

「だけど」

「だけど?」

「水に言わなきゃいけない」

「何を?」

「――バイバイ」

『ユニセックス』

2003年9月25日
 うーんと首を傾げるような仕草をした後、閃いたように葉月は氷河に向かって言った。

「思い出した、アレだよ。異種交配」

 異種交配とは同じ属内の違う種を交配することだ。有り体に言ってしまえば、ラバとかその類になる。
 ことの始まりは、冒険の仲間に性別を聞かれたことだった。氷河が聞いた限り、葉月は半分とか真ん中とかそんなことを言っていた。しつこく聞かれると、知らないよと拗ねたような顔もしていた。
 それから日の高いうちに帰るのが無理な時間になってしまい、ここで野営をしているのだ。

「それが何?」

 焚き火の炎を見ながら尋ねると、葉月は至極当然のように答えた。

「僕が」

 ああ。ここまできてやっと氷河にも飲み込めた。葉月は氷河と同じ人孤族と人間のハーフだ。姿は似ていても、その性質は異なる二種の混合だと言いたいのだろう。
 異種交配で生まれた動物は、総じて生殖能力を持たないのだ。

「母さんがね、昔、僕がちっちゃい頃に謝ったんだ。ごめんねって」

 性別を持たせてあげられなくてごめんね。氷河にはそんな葉月の母の声が聞こえたような気がした。彼女ならそれくらいのことは言うだろう。さっぱりとした気性の人だったけれど、愛情は深い人だったのだから。

「子供も作れないし、その前に恋もできないかもしれないって」

 葉月はそんな氷河の心中を知ってか知らずか、淡々と言葉を続けた。
 ぱちぱちと焚き火の火の爆ぜる音が、静かな空間に響き渡っていく。その薄ぼんやりとした光の中で、葉月が氷河をじっと見ているのが分かった。金色の瞳が、こちらをじっと見つめていた。

「僕は、可哀想?」

 首を傾げながら、葉月はじっと氷河を見つめた。
 恋もできず、子供も作れない僕は可哀想な存在?
 葉月は、そう問うているのだと、それが分かったから、氷河はしばらく黙り込んでしまった。
 けれど金色の瞳が、じっと氷河を見つめている。その大きな瞳は、嘘を許さないと無言で告げている。
 こんな所だけ、母親――香月に似ていると、氷河は独りごちた。嘘を許そうとしない、真実を見極めようとするときの香月の瞳と、葉月の瞳はよく似ている。色は全く違うのに。
 そして嘘を吐くことに恐怖を感じる程の、真っ直ぐな視線。
 その視線を受け止めて、氷河は答えた。

「いいや」

 葉月はしばらく黙っていたが、唇の端を無理矢理つり上げたような笑いを作り、言った。

「嘘吐き」

 そして身を翻して、夜の闇の中に消えていった。

 言葉の消えた空間に独り佇み、氷河はああと溜息にも歓声にも似た声を漏らした。
 葉月はきっと見抜いている。自分や香月があの故郷を出るきっかけとなった、あの感情を。恋という言葉に収まりきらない程大きくて、愛は言えない程に幼かった、あの切なく燃え上がる熱情を。
 苦しみながらも、その感情の波に翻弄されながらも、自分たちが何よりも幸せだったことも、きっと勘づいている。
 そしてその感情を持つことができないかも知れない養い子に、幾ばくかの哀れみを自分が持っていることも。

 似ていない母子だと思っていた。
 葉月のあの脳天気と言えるばかりの明るさは、香月が持っていた明るさとは別種の物だったし、母と比べて少しばかり頭の回転は鈍いようだったから。
 けれどあの勘の鋭さと、何でもかんでも自分で背負おうとするあの姿勢。それは、何処までも似ていた。同じだった。

 ああ。また声を漏らし、氷河は空を仰いだ。
 ぱちぱちと爆ぜる火の音が、聞こえなくなるまで。

『弱い男』

2003年9月23日
 五月蠅いと夕月は顔を顰め、長年の友人を睨みつけた。切れ長の紅い目を細めながら睨むと、これがなかなか迫力がある。大抵は皆すまなそうな顔をして、こそこそと逃げていくのだが、この友人にはそれは通用しないらしい。

「無粋だとは思うけどね」

 悪びれる様子もなく、蒼河はさらりと言い放った。夕月の視線など物ともしない。というより、綺麗に受け流している。慣れているのだろう。

「でもさぁ、みんな不釣り合いだって言ってるよ、身分とかじゃなくって」

 そう言って蒼河は声を上げて笑った。きっと彼は今、同い年の親友の姿を思い出しているのだろう。
 それは歳の割に幼くて、けれど自分ではしっかりしてると思いこんでいて、自らの力不足に嘆き、力を持つ親友に劣等感を抱きながらも、その感情を押し殺そうとする夕月の婚約者だ。

「確かにあいつは情けないからな」

 吐き捨てるように言うと、けんもほろろだとまた蒼河が笑った。けれど庇ったり否定するような発言は決してしない。彼だってどうせ同じように思っているのだ。

「でもまぁ…、そこが良いんだろう?」

 今度は試すように尋ねられた。
 それは蒼河自身の疑問でもあるのだろう。あの情けない男を、どうして親友としているのか。どうして構ってしまうのか。酷いことを言いながらも、嫌われたくないと願うのか。

「だろうな。…それにあいつはどちらかというと守られるタイプだろう?」

 夫となる人物への、厳しい評価に蒼河は笑いが止まらない様子だった。腹が痛いと言いながら身体を捩るように笑っている。
 そしてまた否定はしない。彼も言われてまさにその通りだと気づいてしまったのだろう。あいつは自分に与えられた領域を必死に守るので精一杯な男だ。攻めていくことも、それ以上の領域を守ることもできない。
 ただそれが婚約者の優しさなのだと、夕月は思う。

「それじゃあ、羽水を頼むよ、奥さん」

 目の端に溜まった涙を拭いながら、蒼河は言った。けれどその冗談に見せかけた言葉の中に、紛れもない真剣さが入っていることを、夕月はとっくに知っていた。

『親友の恋人』

2003年9月22日
 親友が恋をしてることは知っていた。
 そしてそれに悩んで、不眠症に陥っていることも知っていた。
 いつしか彼の思いが通じたことも、何となく知っていた。

 どんな人かと尋ねると、彼はしばらく考え込むような仕草をした。そして沈黙した。これは埒があかないと香月は瞬時に判断し、無難な質問に変えた。

「美人?」

 実際問題、親友の恋人が美人だろうとそうでなかろうと構わない。問題は人間性であって見た目ではない。けれど無難な問いかけが他に思いつかなかったのだ。

「……そう、なんじゃないかな」

 首を傾げるような仕草をしながら、対する氷河はこれまた無難な返事を返した。
 まぁ、香月としては、ここでものすごい美人だと大げさに語られたあげく惚気られるよりは、無難な解答の方が好ましい。

 ふぅんとかへぇとか、そんな返事を氷河に返し、今度は香月が首を傾げた。

「好き?」

 聞いてはいけない質問だと、何かが警告を発していた気がする。だがそれは後の祭りだった。

「とても」

 そう言って、氷河は笑った。この上なく幸せそうな顔で。それは今まで十数年、親友として隣にいた香月でさえ、見たことのない顔だった。とろける程に甘く、優しく、熱っぽく、それでいて愛しい人しか見えていない微笑み。

「…お幸せに」

 親友の表情に、少しばかり動揺しながらも、笑って祝いの言葉を述べた。
 他に言う言葉などない。
 ただ、彼にこんな表情をさせる誰かに会ってみたいとだけ、それだけ思った。

 しばらく何でもない会話に花を咲かせると、外はもうすっかり夜の帳が降りていた。
 帰ると呟き、氷河の家を辞して暗い夜道を歩いた。

 森の方から、空気を叩きつける羽音と聞こえ、大きな影が一瞬だけ月光に浮かんで、消えた。

『父娘』

2003年9月20日
心配に決まってるじゃないと娘は口癖のように言った。

「まぁ、母さんがいれば大丈夫だと思うけど」

 そう言って目をきらりと光らせてから笑う。その様は、妻である母によく似ている。というよりも、顔も性格も娘は母に似ている。自分とはあまり似ていないと思う。
 ただ雰囲気はどちらにも似ていない。妻の雰囲気は凛としている様を通り越して、鋭い。触れれば切れそうな空気がある。それに比べると、自分の雰囲気はどうにもぼんやりしているような気がしてならない。
 そして娘の雰囲気は丁度その二つを相殺させた感がある。柔らかく拒絶はしないが、気高く、下心を持っては近づけない。

 父さんは心配よねと良いながら、娘は幼い弟の髪をそっと撫でた。
 十歳以上年下の弟を、娘は自分の子のように可愛がっている。そして息子も少しばかりきつい母より、どう見ても鬱陶しい父よりも、姉を慕っている。

「でもね」

 そう言って、娘は紅い瞳で微笑んだ。

「みんな父さんのことを好きで、みんな父さんのことを心配してるのよ」

 ねぇ、と同意を求めるように呟き、娘はまた弟の髪を撫でた。

『水御子』

2003年9月16日
 大雨が降っていた。
 川は増水し、小さな池や泉からも泥にまみれた水があふれ出している。普段の清らかさを失い、変わりに荒々しい力を手にした水だった。
 雲の様子から、明日辺りに大雨が降るだろうと予想はしていたものの、この雨雲の巨大さは予想以上の物だった。山中にある人孤族の里を、のみ込んでしまうのではないかと恐怖を覚える程に。
 けれど羽水の見立てでは、この雨は今日中に止むはずだ。雨を落とす雨雲は、同じように凄まじい勢いで流れている。上空は風も強いのだ。
 羽水と夕月は着替えをすませると、杖をひっつかんで家を出た。
 羽水がこの家に婿として入ったことで、河や水の供給を司る水瀬は事実上、断絶したことになる。そのため、水災害への対処は家を問わずに、力があるものが協力することになった。そうなれば、自然とこの家に声がかかるのは分かっている。

 雨粒は大きく、文字通り叩きつけるように降り注いだ。羽水は溜息とともに、小さく言葉をはき出した。あまり意味のない言葉ではあったが、水の精霊達は喜んで彼の願いを聞き入れてくれた。つまり急ぎ足で進む二人を避けるように、雨が軌道を変えたのだ。
 水の粒が叩きつけられる痛みが無くなったことに気づき、夕月が羽水の顔を見て、礼を言うように軽く笑った。それから、急ごうと呟き、早歩きから小走りに速度を変えた。
 羽水はその半歩後ろを走り、そして二人は霧生の本家へと辿り着いた。
 大きな建物の扉は開け放たれ、泥でできた足跡がくっきりと石畳の上に刻まれていた。すでにたくさんの人が、指示を仰ぎに来ているのだろう。
 それに送れじと、夕月が門をくぐろうとすると、その後ろで羽水が足を止めた。

「どうした?」

 振り返り尋ねると、羽水はいつになく真剣な顔を向けた。

「…川が増水して、堤防が壊れてるところがある」

 羽水は早口にそう言うと、身を翻した。
 それは誰よりも水の扱いに長けた羽水だからこそ聞こえた、か細い水の精霊の声だったのだ。

「蒼河に伝えてくれ! 俺は先に行く」

 息もつかずに叫び、走り出してから彼はふと足を止めて振り返った。

「夕月、お前はこっちで怪我人の治療に当たれ!」

 彼は自分の妻が、あまり水と相性がよくないことを思いだしたのだ。
 精霊とは相性がある。羽水は誰よりも水に愛された変わりに、他の精霊からは一切力を借りることはできない。夕月は全体を通して相性は良い。全ての精霊から力を借りることができるが、水からはそれほど強い力を借りることはできない。彼女が得意とするのは、炎や風を使った術だ。
 この場に待機しろという羽水の言葉に従いたくはなかったが、何はともあれ霧生本家の当主である蒼河に堤防の決壊のことを伝えなければいけない。
 夕月も身を翻し、大きな屋敷の玄関に上がり込んだ。

 全力で走ると、正面から雨の粒が顔に飛び込んでくるように感じる。実際顔にいくつもの雨粒が辺りはしたが、この大雨からしてみれば、その被害は無いに等しいと言っても良いだろう。水の精霊たちのおかげだ。
 走りながらも羽水は、水の精霊達に言葉を投げかけた。落ち着け止まれ、と。
 彼の命令に従って、足下を這っていた泥水達が、流れを落ち着かせたりもしたが、いかんせん雨の量が多すぎる。これでは川を落ち着かせたところで、流れることのできない水が上流に溜まり、後で一気に流れ出て被害は巨大になってしまう。
 そんなことを考えながら羽水は川の近くに辿り着いた。昨日までは川縁であったところまで、水が押し寄せ浸食を始めている。
 何はともあれ、あふれ出した水を川に返し、少し流れを速くして海まで水を持っていってしまおうと考え、羽水は水の精霊たちに願った。
 水の精霊たちを操ることは、いつもなら呼吸をするほどにたやすい。言葉もいらず、単純に願うだけでも良いのだ。けれど今日は違う。水の精霊達が荒れ狂っている。何かに酔っているかのように、楽しそうに狂っている。
 収まれと声を張り上げると、はっとしたように精霊たちは大人しくなった。だが、それはほんのごく一部で、大半の精霊はまだ歌い踊っていた。
 いつもとかってが違い、焦りを感じた頃だった。上流から鉄砲水が流れて来たのだ。
 しまったと思った時は、もう遅かった。川の水が川縁どころか、平地にまで溢れだし、羽水の足をさらった。まだ狂っている水の精霊が、遊ぼうと笑いながら足を引きずって行くように、羽水は感じた。

 泥水のなかに引き込まれる瞬間、夕月の声が聞こえた気がした。
 ああ、また怒られるなと、そんなことを考えながら、ただひたすらに精霊達に言葉を放った。意識が消えるまで、ただただ、ひたすらに。

 目を開けると、窓から太陽の光が注がれていた。雨雲はどこかへ行ってしまったらしい。見立ては間違っていなかったと、そんなことを嬉しく思った。
 そしてようやく、自分が白い布団に寝かされていることに気づいた。ここはどこだと想い、身体を起こそうとして、全身を覆った疲労感と鈍い痛みに、羽水は顔をしかめた。

「羽水!」

 聞き慣れた凛とした声が、耳に響いた。
 痛む首を無理矢理声の方向にねじ曲げると、夕月が慌てたように近づいてきた。そのまま枕元に座り、ぼんやりとした羽水に向かって馬鹿となじった。

「馬鹿野郎、お前が水にさらわれてどうするんだ…」

 そう呟いて、彼女は俯いた。
 何か言わねばと思ったが、何も言う言葉が思いつかなかったので、全身に広がる痛みをこらえて、そっと右手を伸ばして、夕月の頬を手の平でそっと触れた。
 馬鹿者。また呟いて、夕月はその手を大事そうに握りしめた。

『水皇子』

2003年9月15日
手の平を動かすと、水がふわりと浮かび上がった。
目を瞑っていてでも、その水の動きははっきりと認識できる。
水を操ることなど、実にたやすい。
それは羽水にとって、呼吸をすることに等しいのだから。

けれど、それだけ。
羽水は水を操ることにかけては、一族のなかでも右に出る物はそうそういない。
だが、他の術に関しては、小さな子供の横に並ぶのが精一杯なのだ。
そんな自分が彼は嫌いだった。

羽水には親友がいる。
水も風も炎も大地も、思いのままに動かすことのできる親友だ。
一族のなかで最も力を持っていると言っても過言ではない。
呼吸をするように、全てを思いのままに操った。

親友は控えめに見ても良い奴だった。
だからこそ、羽水は辛かった。
ただ、息苦しかった。

『月巫女』

2003年9月14日
生まれた時から、その人は傍にいた。

ねぇ、氷河。
名前を呼ぶと、年長の親友は小さく首を傾げた。
広い丘は普段生活している里から、森を一つ抜けたところにある。柔らかい緑の絨毯が広がり、その上を透明な風が通り抜けていく。
二人だけの、秘密の場所だった。

「何でもない」

そう言うと、また不思議そうな顔をしたけれど、彼は何も言わなかった。
そうやって二人並んで、遠い空を眺めるのが香月はとても好きだった。
時間がこれ以上もない程にゆっくりと緩慢に、それでも確かに過ぎていく。この感覚が好きだった。

言葉のない空間に、風が草木を揺らす音や、鳥の鳴き声だけが響いていく。
それは遠い場所から、薄い皮膜の向こう側での音のようで、どこか現実味がない。
けれど確かに時間は動いていて、太陽が東から西へと進んでいるのだ。
そして今この瞬間さえも、決して止まることはない。

「ねぇ、氷河」

隣の親友にもう一度問い掛ける。
氷河はまた同じように首を傾げた。言葉を促すように。

「死ぬのは、怖い?」

唐突な問い掛けだということは、自分にも分かっていた。けれど、こんなことは誰にも聞けない。
両親は信頼しているし、心も開いている。けれど不安や怯えをさらけ出すことはできない。
それは心配させたくないという想いなのかもしれないし、何故か恥のように感じてしまうためかもしれない。
そのため、頼ることはできるのに、どうしても寄りかかることはできない。身体を預けることだけは、どうしてもできないのだ。
けれど、親友に対してだけは違う。
完全に寄りかかる訳ではなく、彼もこちらに少し体重を預けてくれるような気がするからだ。
対等な立場でいるような、そんな錯覚を覚えるから。

「怖いよ」

彼は素っ気なく答えた。
けれど短く簡潔な言葉の中に、彼の真意の全てが入ってることなど、分かり切ったことだ。
氷河は嘘を吐かない。それくらい、知っている。

「月神様の元にいけるのに?」

遠くを見つめながら、更に尋ねた。
氷河の目を見たくなかった。そして自分の顔を見られたくなかった。
弱音を吐いている自信があったからだ。

「そうだよ。…違うな、怖いんじゃなくて、寂しいんだ」

言葉の後に、氷河は溜息を吐くように笑ったのが分かった。
自嘲するような、苦笑するような、そんな吐息。

「寂しいの?」

「寂しいよ。死んだら誰にも会えなくなる。蒼呼や父さん母さん、もちろん香月にも」

それは寂しいことじゃないかと、氷河は笑った。

「そっか」

短く答えて、香月はやっと胸の支えが取れたような気がした。
死ぬことは、月神の傍に召されるということでもあるのだから、とてもありがたいことのような気がしていた。
けれど死にたくないという気持ちも紛れもない本物で、どうして良いのか分からなかったのだ。

けれど答えは簡単なことだった。
月の神の傍に行けても、親しい人と会えなくなることは寂しい。
それはこんなにも単純なことなのだと、香月はやっと気づいた。

『水炎』

2003年8月27日
苛々する。

「優柔不断、中途半端、無責任、鈍感」
一目も気にせず、張りのある声で、独り言を言い放つ。
大股で走りださんばかりの速さで歩いている夕月を見て、通りすがった誰かがびくりと身を竦ませて、物陰に隠れるのが見えた。
それがまた、苛立ちを増長させる。

今日の目覚めは最悪だった。
理由は単純、隣で寝ていたはずの男が消え、かわりに手紙が残っていたというだけのこと。

驚きもしたが、夕月はそれ以上に男を殴りたい衝動に駆られた。
面と向かって話をしないことも、逃げるように消えたことも、あんな短い手紙で全てを終わらせようとしたことも、全てが勘に障った。
それから彼女の行動は素早かった。
手早く適当な衣服を身に着け、顔に冷水を浴びせて、そのまま食事もせずに家を出てきた。
普段は束ねている髪が、風に煽られてばたばたと音を立てた。

男がどこにいるのか、その検討はついていないが、とりあえずその自宅に向かう道を選んだところで、夕月は盛大に顔をしかめた。
目の前の道から、今は会いたくない種類の相手がやってきたからだ。
「やぁ、夕月。おはよう」
この上なく嫌そうな顔をしている夕月に向かって、蒼河は嫌味のない笑顔を向けた。
「おはよう。とりあえず退け。邪魔だ」
苛立った口調で用件だけを言い放つと、蒼河はぴくりと片眉を跳ね上げた。
けれど、その仕草は決して夕月の無礼をとがめるものではない。
「良いけど、羽水は家にいないよ」
「なんだと!」
怒りを露わにして言い返すと、蒼河はやっぱりと笑った。
「ちょっと話をしようと思ってさっき家にいったんだけど、いなかったよ」
「どこにいるんだ!」
もう一度言い返すと、蒼河は今度こそ不満気な顔をした。
「知らないよ。…何があったのさ?」
予想はつくけど、と続けて、蒼河は溜息を吐いた。
問われたが、何があったのか口にするのも何か癪で、夕月は朝見つけた置き手紙を乱暴に突きつけた。
蒼河はそれに素早く視線を走らせた後、何度かゆっくり瞬きを繰り返し、それからまたゆっくりと視線を走らせた。
そして天を仰いだあとに、もう一度更に大きな溜息を吐いた。

「…で?」
溜息混じりに問い掛けられ、夕月は困惑した。
「で、とはなんだ」
「羽水に会って、どうするの?」
「殴る」
即答すると、そうだろうねと意外にも蒼河は頷いた。
「まあ、これは自業自得だから、当然だね」
あっさりと言い放つと、置き手紙を夕月に手渡した。
「それで、どうするのさ?」
「何をだ!」
手紙を返され、とりあえず羽水がいそうな場所を探そうとした瞬間、もう一度質問を返された。
「結婚」
蒼河は端的に言い、それに何か言い返そうとして口を開いた瞬間、夕月から言葉が消え去った。

そんな夕月をじっと見つめ、蒼河は無表情に口を開いた。
「むしろよかったんじゃない? 結婚する前に、あいつが腰抜けだってことがわかったんだから。断る口実ができたよ」
「それは…、そうなんだ…が……」
淡々と言う蒼河とは逆に、夕月から今までの勢いが一瞬でなくなった。
その事実に初めて気づいてしまった、というそんな表情をしている。
「今回の件は明らかに羽水が悪い。今更そんなことを言い出すくらいなら、誘いにのらなきゃいよかったんだ。そうだろ?」
「当たり前だ。据え膳を食わぬような男はいらないが、食い逃げする男はもっと癪だ」
勢いはやはり弱いが、それでもしっかりと夕月は不機嫌そうに言い返した。
「…一応、ここ道の真ん中だから言葉は選ぼうね」
溜息混じりにそう前置きをしておきながら、蒼河はだったらと続けた。
「だったら、よかったじゃないか。羽水を一発殴って、この話はなかったことにすればいい。」

夕月は何故かぐっと言葉に詰まった。
何かを言い返そうとしたが、それが不思議と羽水の弁護のような気がして、言葉に出せないのだ。
そんな夕月の様子を見て、蒼河はちょっと笑った。先程までの淡々とした無表情さとはうってかわった、優しい顔だ。

「羽水はね、僕らに対して劣等感があるんだよ」
劣等感?
思わず頭の中で反芻しながら、怪訝な顔で夕月は蒼河を見返した。
「まぁ、僕の所為かもしれないんだけど」
そう言って、蒼河は空を仰いだ。
「年が同じだから、僕と羽水はは学校でも一緒だった。僕は彼が好きだったし、彼も僕を嫌ってなかった、と思う」
一旦言葉を切り、蒼河はそれから寂しげに笑った。
「でも羽水は水を扱うことでしか、僕に並べなかった。その所為でだと思うんだ」
蒼河は子供のように小首を傾げ、続けた。
「誰だって、友達とは対等になりたいと思う。……まぁ、本人に聞いたことはないから、本当かどうかはわからないけど」

夕月が何を言おうか、迷っていると、蒼河が静かに目を伏せた。
「夕月。君や羽水のことを、僕は良い友達だと思ってる」
だから。
「幸せになって欲しいんだ」
二人で。

蒼河の言葉が終わる前に、夕月はその横をすり抜けて走り出した。
彼が何を言うか、想像ができなかったわけではない。
けれど、今はまだ聞いてはいけないと思ったのだ。

羽水と一緒に、聞いてやる。
あの優柔不断で、自分のことしか考えられない無神経な男に、自分のことを考えさせてやる。
そう、夕月は思い、走った。

『夕食』

2003年8月26日
家族みんなで暮らしてた頃は、母が自慢の手料理をいつも振る舞ってくれた。
生まれた場所と環境のせいか、決して豪勢な食事ではなかったけれど、素朴なおいしさがあった。
だから母の手料理が大好きだった。

白い指先は、とても細く、長く見えた。
その十本の指が、器用にくるくると動き回ると、そこにはもう料理ができていた。
器用に動き回る指先と腕。
そして台所に立つ後ろ姿。
それだけは、薄い皮膜がかかったような光景として、瞼に焼き付いている。

母が倒れ、父が旅に出た。
それでも母や、いつも台所に立とうとした。
最初の頃は、心配しながらも、大丈夫だと思っていた。
けれど、病状は悪化の一途を辿るだけだった。
栄養のあるものを食べてもらいたい。けれど、料理はできない。
そんな葛藤はあったけれど、母を働かせるのが辛くて、葉月は台所に立つようになった。

料理は自分で食べても美味しくなんかなかった。
食べれないものではなかったけれど、母の料理と比べれば天と地の差があった。

それなのに、母は笑ってくれた。
ありがとうと言って、笑ってくれた。

母が死んで、母の親友の幽霊と一緒にいるようになった。
変な幽霊で、死んでる癖に会話も食事も魔法も、何でもできた。
人をからかったりすることは多かったけど、嫌いじゃないし、むしろ好きだと思う。
そして、彼は料理の基本を教えてくれた。

幽霊の彼には放浪癖があって、ふらふらと旅に出たり、何も考えずに空を漂っていたりして、夜になっても帰ってこない日は多かった。
そんなときは、なんだかつまらなくて、さほど美味くもない料理を胃の中に押し込んだ。
食べても食べても、どこかに見えない隙間があるような、そんな空腹を感じることもあった。
けれど、それには目を瞑った。

最近は仕事を始めた。
武器やら鎧を加工する仕事で、それなりに繁盛もした。
広告を出せば、誰かが気まぐれに来てくれたりもしたから、お金には困らなかった。
それに自分も冒険に出ているから、逆にお金はあまりいらなかった。

収入が増えると、外食が多くなった。
誰もいないあの家で、独りで夕食を食べるよりも、どこかの食堂で食べた方が、まだ気が紛れる。
時々、酒場にも顔を出してみたりした。
さすがに年齢的に無理があって、追い出されもしたけど、話してくれる人もいて、結構楽しかった。

それでも結局は家に帰る時が来て。
夜道を独りで歩いていると、胸の一番深いところがぎゅっと締め付けられるような痛みを覚える。
痛みの理由は月があまりに綺麗だからだと、最近気づいた。
月を崇める血は、きちんと自分の中にも受け継がれていたらしい。

部屋で一人、月を見ていると、あの痛みが更に強くなって、ようやく気づいた。
僕は寂しいんだ。
僕はずっと、寂しかったんだ。

ちょっとだけ、泣いた。

羽水。

2003年8月15日
その人を、弱いと思ったことはない。
凛とした眼差しと、誰にも臆することのない言葉。
自分の信じた道を歩くために、必死で道を探す姿は、殉教者のような美しさがあった。

けれど。
その人を、強いと思ったこともない。
射抜くような眼差しの裏に隠された、小さな不安の影。
躓き、転び、道に迷う。
自らの手と足で一人立ち上がり、よろけながらもただただ進もうとする姿。

守りたいなどと言ったら、怒られるだろう。
ただ、側に居られる限り、支えたいと思う。

一目。

2003年7月23日
貴方を初めて見た日のことは、今でもはっきりと思い出せます。

現神官長の隣に座っている人を見た時、なんとも思うことはなかった。
ふぅん、とか。へぇ、とか。その程度の気持ちしか生まれなかった。
本家ではなく、分家の長男でありながら、本家の一員となった青年。
他に有力な人がいなかったというのが事実だけれど、一目見ただけで、彼の実力ははかり知ることができる。
現神官長からすれば多少は見劣りするが、弱々しいものではない。
若々しい力強さが溢れる、銀色を帯びた透明な力だ。
それは月の光のように繊細で、優しい労りの力を持っていて、私はほうと溜息を吐いた。

宴の席では、お祭り騒ぎになってしまう前に、神官達が月神様に祝詞を捧げる。
これは一種の決まり事。
宴が進んでしまえば、酒に酔った人達が出てきて、祈りどころではなくなってしまうから。
けれど、今日は天満。
すでに酒が入っている人も大勢いたが、神官長が祝詞を彼に譲ったことにほとんどの人が気づいた。
ぱらぱらと驚きの声があがったけれど、彼はそんな声は聞こえないと言うように、朗々と祝詞を読み上げた。
彼の声が空気に溶けて広がって行くにつれて、驚きの声はあっさりと収まってしまった。
もちろん、私も聞き惚れていた。
彼の力と同じ。優しくて、暖かくて、一途な言葉達。
一心に言葉を読み上げる彼は、とても美しかった。

宴の前の堅苦しい仕来りが終わって、無礼講が始まっても、私の耳にはあの声が残っていた。
父に頼めば、紹介してもらえただろう。言葉も交わせたかも知れない。
けれどそんなことをする気にもならなかった。
ただただ、あの美しい言葉の余韻に浸っていたかった。

蒼天。

2003年7月16日
その人の射抜くような紅い瞳に、きっと魅せられたのだろう。

銀色に輝く満月の下での祭りには、少々うんざりさせられるものがある。
月を讃える一族なのだから、祭り自体に文句はない。むしろ時折行われる祭りは、誰もが好むものであり、自分も例外ではない。
けれど、こう何日も続けられるといい加減疲れをためるだけの代物でしかないというのも、また事実なのだ。
普段ならこういった祭りは、最初に一日、多くて二日目まで顔を出し、残りは家に引っ込んでしまうのだが、今回ばかりはそうもいかない。
何しろ、たった一人の家族である妹の挙式も兼ねているのだ。

自分と妹は、一族の中でそれほど上位ではない家に生まれた。はっきり言ってしまえば、下位に属するだろう。
それについて細かく騒ぐ一族ではないが、やはり隔たりのようなものは存在する。
だが、上位の人々は力も強く尊敬に値する。そのため不満を言うことも別にない。身分差など、どうでも良いと思っていた。
けれど実際問題、妹が上位の人のところへ嫁ぐということは考えたこともなかった。
有り得ないことだと、心のどこかで信じ込んでいたのだ。

それも相手は上位中の上位。一族の中でも、頂点に近い場所にいる男だ。
やはり力の関係上、なんらかの騒ぎはあったらしいが、長老連中も二人の結婚をあっさり認めてしまった。
そのおかげで、自分まで上位の人達とつきあう羽目になってしまった。それだけが、不満と言えば不満だろう。
身分差がないとは言え、力の差が目に見えてしまう一族とは不便だと、つくづく思う。
どれだけ虚勢を張ろうと、劣等感は決して消えたりはしない。
気にしなくても良いのだと、それがわかっていても、それでも消えてはくれない嫌な感情だ。

妹の方とちらりと見やると、隣に座った夫となにやら談笑していた。
ただただ結婚の幸せをかみ締める、平凡な一人の女だ。そこには薄暗い感情など欠片も見えはしない。
溜息を一つ吐き出し、代わりに杯に注がれた酒を飲み干し、席を立つ頃合いを見計らっていると、隣に座っていた女と目があった。
女は紅い目で射抜くようにこちらを見つめ、そして美しく弧を描いた唇で笑うと、口を開いた。

「暇そうだな」
「見ての通りだ」
「そうか。私も暇だよ。宴など一日で充分だろうに」

凛とした声だった。口調には柔らかいところがない。けれど、その声には女としての華がある。
祭りへの愚痴めいた言葉を一つはき出すと、女はどこか遠くへと視線を向け、黙り込んでしまった。
そのまま沈黙が広がる。だが、それは不快なものではなかった。

ただ、すでに自分から外された瞳の紅さと、射抜くような鋭さだけが脳裏に焼き付いた。

夕月。

2003年7月15日
娘が旅立った日のことは、今でもはっきり覚えてる。

快活で明るくて、その上家柄だって本家くらいにしか、負けるところがない。
そんなあの子だから、人気があるだろうとは思ってた。
ひょっとしたら従兄のところに嫁ぐなんて可能性だって、結構よく考えていた。
あの子達に恋愛感情なんてないってことも、わかっていたけれど。

恋する女っていうのは、女ならではの勘を働かせればすぐにわかる。
ちょっとした仕草が変わる。
髪や肌の質も変わるし、何より瞳の輝きが変わる。
良い人が出来たなら、それは親にとっては嬉しいこと。
娘の花嫁姿はきっと綺麗だろう。ひいき目抜きにしても、容易に想像は付いた。

今まで本家や、しきたりにはあまり逆らわない子だった。
従順とは言い難い態度だったけれど、本気で逆らってる訳じゃない。
何よりあの子は、月の神を心から敬って、愛していたのだから。
どんなに長老方のことを嫌っていたとしても、形式にはきちんとこだわっていた。
そんなあの子が、人間のもとへ嫁ぐと言い出したのだから、大騒ぎになるのも無理はなかった。
それは、やってはいけないことだから。
決して禁じられている訳ではないけれど、上に立つ者としての立場上、やってはならないことだった。
それがわからない子ではない。
それでも、あの子は人間の男を選んだ。

親としての立場は複雑なものだった。
反対するべきだということはわかっているし、心から賛成なんて、出来ない。
けれど、あの子には幸せになってもらいたかった。
月の神を愛することも大事だけれど、もっと身近な、触れあえる誰かを愛して欲しかった。
縛り付けでもしない限り、あの子はきっと逃げていってしまう。
それはわかっていたけれど、長老達に何の注意も促さなかったのは、親としての甘さ。

旅立ってしまったあの子の幸せを祈ること。
それが、今のささやかで拙い日課。

葉月。

2003年7月14日
記憶に残っているのは、母の白く細い両腕。

母は健康的な人だった。
年を取ることをやめてしまった母の幼なじみの青年は、そう教えてくれた。
病気など滅多にしない人で、少しばかり風邪など引いても、平気な顔で仕事をしていた。
聡い人だから、それが良くないことであることなどわかっているのに、無茶をする人でもあったそうだ。
それなのに、次の日には風邪などあっという間に治してしまい、けろりとした顔でまた仕事場に出てくる。
本当に不思議な人だったらしい。

その話を聞く度に、葉月は何度となく首を傾げてしまう。
彼の記憶にある母は、七歳の時、病に倒れた姿ばかりだ。
触れれば折れてしまいそうな程に細くなり、元々白かった肌も雪を通り越して氷のようだった。
そうやって病に冒される前の母は、微かな面影しか覚えていない。
一緒に走り回った記憶はあるのに、その時の母の鮮明な姿だけがどうしても思い出すことが出来ないのだ。

どんどん細く、白くなっていく腕で、葉月を抱きしめてくれたことは覚えている。
だが、その時に耳元で囁いてくれた言葉は思い出すことが出来ない。
そうやって、母の面影を辿るたびに、会いたいと切に思ってしまう。
そういった想いのはけ口となってしまった青年は、葉月の言葉に苦い笑いを浮かべるだけだった。
会えるものなら自分も会いたい、彼の瞳はいつも雄弁にそう語っている。

そうして最終的に、葉月は月に祈る。
どうかどうか、母が幸せでありますように。

月に祈る資格もない、ちっぽけな子供のたった一つの願いです。

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