満月の夜に生まれた親友は、満月の夜に月に還ってしまった。
彼とのつき合いは、生まれたときまで遡らなければならない。それほど長いつき合いだった。
妹と親友が結婚し、自分は親友の従妹と結婚し、苗字が同じになり、毎日のように喧嘩をしては、謝り、謝られ、甘えられながら過ごした日々は、あまりにもあっさりと流れてしまった。
当然だったのだ。
彼が隣にいることが当たり前で、彼が隣にいないことは不自然で、彼が何処にもいないことなど、あり得ないことだった。
我が儘な親友は、最期まで死にたくないと思っていたことだろう。例え神の元へ逝けるのだとしても、それでも彼は地上を離れたくなかったのだろう。
その理由の一つが、自分にあることも、何となく知っていた。
なんでも自分でできるくせに、独りになるのが嫌いで、必要のないことでも甘えたがる怠け者で、それなのに誰よりも強くて、いつも守られながら、逆に精神的に守ってやっているという優越感を教えてくれたり、退屈が嫌いで忙しい日々にも厭きていた親友。
彼との友情は、非道くどろどろしていて、生温い底なし沼のようだった。依存したり、寄りかかったりしながら、それでもずるずると続けてしまう。好きとか嫌いとか、そんな感情を超えてしまったものだった。
事実、彼のことを好きだと感じたことはあまりない。嫌いだとはよく口には出したが、心底そう思ったことはない。
当然だったから。
その存在自体が、何よりも。まるで裏と表のように。張り付いて剥がれない、性質の悪い関係。
だから知っていた。
ああ、知っていたとも。
彼が一人で逝きたくなかったと言うことを。
本当は一緒に逝ってやれれば良かったのだと。
けれどそれが無理だということも。
二人揃って、知っていた。
彼とのつき合いは、生まれたときまで遡らなければならない。それほど長いつき合いだった。
妹と親友が結婚し、自分は親友の従妹と結婚し、苗字が同じになり、毎日のように喧嘩をしては、謝り、謝られ、甘えられながら過ごした日々は、あまりにもあっさりと流れてしまった。
当然だったのだ。
彼が隣にいることが当たり前で、彼が隣にいないことは不自然で、彼が何処にもいないことなど、あり得ないことだった。
我が儘な親友は、最期まで死にたくないと思っていたことだろう。例え神の元へ逝けるのだとしても、それでも彼は地上を離れたくなかったのだろう。
その理由の一つが、自分にあることも、何となく知っていた。
なんでも自分でできるくせに、独りになるのが嫌いで、必要のないことでも甘えたがる怠け者で、それなのに誰よりも強くて、いつも守られながら、逆に精神的に守ってやっているという優越感を教えてくれたり、退屈が嫌いで忙しい日々にも厭きていた親友。
彼との友情は、非道くどろどろしていて、生温い底なし沼のようだった。依存したり、寄りかかったりしながら、それでもずるずると続けてしまう。好きとか嫌いとか、そんな感情を超えてしまったものだった。
事実、彼のことを好きだと感じたことはあまりない。嫌いだとはよく口には出したが、心底そう思ったことはない。
当然だったから。
その存在自体が、何よりも。まるで裏と表のように。張り付いて剥がれない、性質の悪い関係。
だから知っていた。
ああ、知っていたとも。
彼が一人で逝きたくなかったと言うことを。
本当は一緒に逝ってやれれば良かったのだと。
けれどそれが無理だということも。
二人揃って、知っていた。
十六歳になって、葉月は身の振り方を考えることにした。
このまま冒険者を続けるのも良いかもしれない。強化師として暮らせないこともないだろう。仕事はそこそこ入ってくるし、お金にも特に困ることはない。
ただ、葉月程度の能力の持ち主なら、山のように存在することも確かなのだ。そこそこ仕事が入るといっても、常に閑古鳥が鳴いていることもまた事実だ。
母の故郷へ行くということも考えた。いつだったか、叔父や祖父母に誘われたこともある。氷河の両親という人たちも、悪い顔はしていなかった。楽しく過ごせるかも知れない。
けれどそこには、母もいなければ、養い親もいない。親しくしてくれた、氷河の妹もいなければ、父を知る人もいない。それは少し、少し寂しい気がした。
我が儘だということは、とっくに知っていた。
それでもなお、求めてしまうのは、葉月にとっての家族だった。父と母と、養い親の三人。全員で過ごしたことはない。けれどその三人だけが、葉月にとっての家族だった。
優しい時間と、寂しい思いと、切ない温もりをくれた人々。
それでいて、もう何処にもいない人たち。
薄情と言われるかも知れないが、それだけが、どうしようもない現実だった。
このまま冒険者を続けるのも良いかもしれない。強化師として暮らせないこともないだろう。仕事はそこそこ入ってくるし、お金にも特に困ることはない。
ただ、葉月程度の能力の持ち主なら、山のように存在することも確かなのだ。そこそこ仕事が入るといっても、常に閑古鳥が鳴いていることもまた事実だ。
母の故郷へ行くということも考えた。いつだったか、叔父や祖父母に誘われたこともある。氷河の両親という人たちも、悪い顔はしていなかった。楽しく過ごせるかも知れない。
けれどそこには、母もいなければ、養い親もいない。親しくしてくれた、氷河の妹もいなければ、父を知る人もいない。それは少し、少し寂しい気がした。
我が儘だということは、とっくに知っていた。
それでもなお、求めてしまうのは、葉月にとっての家族だった。父と母と、養い親の三人。全員で過ごしたことはない。けれどその三人だけが、葉月にとっての家族だった。
優しい時間と、寂しい思いと、切ない温もりをくれた人々。
それでいて、もう何処にもいない人たち。
薄情と言われるかも知れないが、それだけが、どうしようもない現実だった。
風に揺れ、光に透け、触れることさえできない。
けれど。
貴方がそこにいて、言葉を交わせて、微笑みかけてくれるなら。
私は神さえ、裏切ることができたのに。
けれど。
貴方がそこにいて、言葉を交わせて、微笑みかけてくれるなら。
私は神さえ、裏切ることができたのに。
養い親はいつになく真剣な顔をして、親族に会う気はないかと葉月に問うた。
葉月はその言葉に首を傾げ、それから別に良いよと答えた。本当にそう思っていたのだ。
彼にとって親戚とは、昔は両親だけだった。今では母親の従兄妹にあたる、養い親の氷河と、その妹である蒼呼しか知らない。彼らは皆優しかったし、葉月にとっては家族だった。
見たこともない親戚を、家族と思えるかと聞かれれば、少しばかり悩んでしまうだろう。けれど、邪険にする必要も、何一つ思い浮かばなかったのだ。
母や氷河の故郷は、山の奥にあった。悪い人間がやってこないように、そんな場所にあるのだと教えられた。まるで昔話のようだと、葉月は思った。
濃い緑と土の匂いの中をしばらく歩き続ける。道なき道であったが、同行している氷河はきちんとわかって進んでいるようだった。
途中でどうして方向がわかるのかと聞くと、彼は小さく笑っただけで、答えてくれなかった。けれどその笑い方から、きっとこの森は氷河にとって、大事な場所だったのだろうと、葉月は感じとった。
森を進んでいくと、自然と息が上がってくる。葉月は小さい頃から外で遊んでいたため、基礎体力はそれなりについていたが、それでも延々と続く獣道には、うんざりし始めた頃だった。
氷河が足を止め、振り返った。
「良い?」
何が、とは言われなかった。葉月も問い返さなかった。
「良いよ」
ただ、頷きながら言葉を返した。
森の中にぽつりと泉が湧いていた。その周囲だけ、木々が途切れている。
そして其処に、一人の男が立っていた。
綺麗な銀色の髪は、葉月と同じ。ふさふさとした柔らかそうな尻尾も、数は違えど同じものだ。ただ、泉を見つめる瞳は、葉月の母や、氷河と同じ、綺麗な紅だった。
「月代」
氷河が何か言った。
それとほぼ同時に、男が顔を上げて、こちらを向いた。葉月はそれが男の名前なのだろうと、数秒かけて理解した。頭がなかなか働いてくれなかった。
時間が急に間延びしたような錯覚に襲われた。見開いた目を動かすことが出来なかった。緊張とは違う。恐怖でもない。ただ、何かの力に押されたかのように、身体を動かすことができなかった。
そんな葉月の様子を悟ってか、氷河が軽く背中を押してくれた。大丈夫と言うように。まるで幼子をあやすかのように。
だが、そのおかげで、やっと間延びした時間が元に戻った。ゆったりと、静かに、時間が戻ってきた。
「葉月」
心配げに名前を呼ばれ、葉月は氷河を見上げ、小さく笑った。大丈夫と告げるように。
男は月代と名乗った。
母である香月の弟で、葉月の叔父にあたるそうだ。年の頃は二十代半ば辺りに見えたが、人狐族は人間とは年齢の取り方が違うらしい。葉月は初めて知った。
月代は普通の青年だった。葉月が知る、たくさんの人間にどこかしら似ていた。そしてそれらの部分が合わさって、誰とも違う霧生月代という人物を作り出していた。
少しだけ交わした会話はどこかぎこちなかったが、氷河が間に入ってくれたおかげで、潤滑に流れた。
ただ、葉月が本名を名乗ったとき、葉月・K・ガイアスと告げたときの、少しだけ寂しげな顔が、印象的だった。
気を遣ったのか、氷河が少しだけ席を外した。
故郷を眺めてくると告げて、去っていった彼の姿が、木々に阻まれて見えなくなってから、叔父が呟いた。
「葉月」
「なに?」
敬語は使わなかった。月代はどこか馴染みやすかったのだ。同じ目線になってくれているのではなく、最初から同じ舞台に上がってくれているような。
「姉さんに、似てるよ」
ぽつりと、零れてしまったように、彼は呟いた。
「似てないけど、似てるよ」
今度は噛みしめるように、呟かれ、葉月は少し戸惑った。
「叔父さん」
呼びかける声に、途惑いは隠しきれなかっただろう。けれど、素直な気持ちを葉月は告げた。
「叔父さんも、やっぱり母さんに似てるよ」
「…………」
月代は驚いたような顔をして、それから少し俯いた。
「……ありがとな」
そして小さく笑った叔父の紅い瞳は、母よりも養い親によく似ていると思った。
少し哀しげで、けれど優しくて、何かを愛しく思っている、彼の瞳だと思った。
葉月はその言葉に首を傾げ、それから別に良いよと答えた。本当にそう思っていたのだ。
彼にとって親戚とは、昔は両親だけだった。今では母親の従兄妹にあたる、養い親の氷河と、その妹である蒼呼しか知らない。彼らは皆優しかったし、葉月にとっては家族だった。
見たこともない親戚を、家族と思えるかと聞かれれば、少しばかり悩んでしまうだろう。けれど、邪険にする必要も、何一つ思い浮かばなかったのだ。
母や氷河の故郷は、山の奥にあった。悪い人間がやってこないように、そんな場所にあるのだと教えられた。まるで昔話のようだと、葉月は思った。
濃い緑と土の匂いの中をしばらく歩き続ける。道なき道であったが、同行している氷河はきちんとわかって進んでいるようだった。
途中でどうして方向がわかるのかと聞くと、彼は小さく笑っただけで、答えてくれなかった。けれどその笑い方から、きっとこの森は氷河にとって、大事な場所だったのだろうと、葉月は感じとった。
森を進んでいくと、自然と息が上がってくる。葉月は小さい頃から外で遊んでいたため、基礎体力はそれなりについていたが、それでも延々と続く獣道には、うんざりし始めた頃だった。
氷河が足を止め、振り返った。
「良い?」
何が、とは言われなかった。葉月も問い返さなかった。
「良いよ」
ただ、頷きながら言葉を返した。
森の中にぽつりと泉が湧いていた。その周囲だけ、木々が途切れている。
そして其処に、一人の男が立っていた。
綺麗な銀色の髪は、葉月と同じ。ふさふさとした柔らかそうな尻尾も、数は違えど同じものだ。ただ、泉を見つめる瞳は、葉月の母や、氷河と同じ、綺麗な紅だった。
「月代」
氷河が何か言った。
それとほぼ同時に、男が顔を上げて、こちらを向いた。葉月はそれが男の名前なのだろうと、数秒かけて理解した。頭がなかなか働いてくれなかった。
時間が急に間延びしたような錯覚に襲われた。見開いた目を動かすことが出来なかった。緊張とは違う。恐怖でもない。ただ、何かの力に押されたかのように、身体を動かすことができなかった。
そんな葉月の様子を悟ってか、氷河が軽く背中を押してくれた。大丈夫と言うように。まるで幼子をあやすかのように。
だが、そのおかげで、やっと間延びした時間が元に戻った。ゆったりと、静かに、時間が戻ってきた。
「葉月」
心配げに名前を呼ばれ、葉月は氷河を見上げ、小さく笑った。大丈夫と告げるように。
男は月代と名乗った。
母である香月の弟で、葉月の叔父にあたるそうだ。年の頃は二十代半ば辺りに見えたが、人狐族は人間とは年齢の取り方が違うらしい。葉月は初めて知った。
月代は普通の青年だった。葉月が知る、たくさんの人間にどこかしら似ていた。そしてそれらの部分が合わさって、誰とも違う霧生月代という人物を作り出していた。
少しだけ交わした会話はどこかぎこちなかったが、氷河が間に入ってくれたおかげで、潤滑に流れた。
ただ、葉月が本名を名乗ったとき、葉月・K・ガイアスと告げたときの、少しだけ寂しげな顔が、印象的だった。
気を遣ったのか、氷河が少しだけ席を外した。
故郷を眺めてくると告げて、去っていった彼の姿が、木々に阻まれて見えなくなってから、叔父が呟いた。
「葉月」
「なに?」
敬語は使わなかった。月代はどこか馴染みやすかったのだ。同じ目線になってくれているのではなく、最初から同じ舞台に上がってくれているような。
「姉さんに、似てるよ」
ぽつりと、零れてしまったように、彼は呟いた。
「似てないけど、似てるよ」
今度は噛みしめるように、呟かれ、葉月は少し戸惑った。
「叔父さん」
呼びかける声に、途惑いは隠しきれなかっただろう。けれど、素直な気持ちを葉月は告げた。
「叔父さんも、やっぱり母さんに似てるよ」
「…………」
月代は驚いたような顔をして、それから少し俯いた。
「……ありがとな」
そして小さく笑った叔父の紅い瞳は、母よりも養い親によく似ていると思った。
少し哀しげで、けれど優しくて、何かを愛しく思っている、彼の瞳だと思った。
山奥といっても差し支えがない村は、冬になれば雪に覆われてしまう。
けれど獣人というのは、人間よりも寒さに強いらしい。それに生まれも育ちも山奥なのだから、寒さには当然慣れている。子供など、雪が降ろうが、お構いなしに外で飛び跳ねているのが常だ。
月代はさくさくと雪を踏みしめながら、獣道を歩いていた。
村を守るように囲んでいる森の中に、人が使うような道はない。これほど山奥まで入り込んでくる人間はまずいない。その上、村の住人も森から外へ出ようとはしないからだ。
けれど月代にとっては、森の中は庭のようなものだ。姉や従兄妹と共に、幼い頃から走り回った遊び場なのだから。
緩やかな上り坂を登り切ると、少しばかり木々が開けている場所がある。大きく深呼吸をして、身体から力を抜いた。
吐く息が白く染まり、銀世界にとけ込んでいった。
それと同時に、火照った身体を、冷たい空気が内側から冷やし始めた。それがどことなく心地良い。
だが、だからといって、身体が冷え切ってしまわぬように、筋肉を解しながら、月代は目当てのものを探して、ぐるりと辺りを見回した。
最近は彼も忙しい。今は亡き従兄の仕事を引き継いだり、神官長である伯父の仕事を手伝ったりと、しなければならないことが溢れかえっている。
そして、それより何より重要なこともある。自身の結婚だ。
この異常な忙しさも、全ては言ってしまえばそのためなのだ。身を固めるとか、一家の長となるとか、そんなこじつけのような理由で、彼にもきちんとした身分を与えることになってしまったのだ。元々身分は持っていた。が、それに次期神官長という、重しが更に乗せられたのだ。
おかげで忙しい。はっきり言って尋常ではない。なにやら複雑な手続きやら儀式やらを踏まねばならないし、それが終わったら、山のような雑務が待っているのだ。
そのため婚約者の若桜に会う時間もままならない。だからこそ、今日はなんとか休みをひねり出したのだ。とは言っても、休むと上司である伯父に宣言しただけなのだが、あっさり通ってしまった辺り、彼の配慮なのかもしれない。
久々の逢瀬であるが、本当に久しぶり過ぎて、手ぶらでは行きにくいものがあった。そうして、月代は山を登っているのだ。
目当ての物はすぐに見つかった。銀色の雪の中で、震えるように小さな紅い蕾。近寄れば、遠目には見えなかったが、白い蕾もその側に存在した。
まるで夫婦のように寄り添っている、二本の梅だ。
今はまだ堅い蕾だが、もう少しすればきっと花開く。月代の勘が彼にそう告げていた。だからこそ、こんな山奥まで登ってきたのだ。
少しばかり悩んで、彼は白い蕾のついた枝を手に取った。三つ蕾がついている枝から、雪を払い落とす。そうして、手折った。
彼女には紅梅よりも、白梅の方が似合うだろう。月代はそう思った。銀色の髪は良いが、若桜の青い瞳と紅い梅は反発してしまう。それに彼女は深紅よりも、もっと柔らかな印象があるからだ。その名の通り、薄紅色にも似た。
白梅を選んだ理由として、もう一つ。意図したわけではないが、恐らく無意識に、紅梅を彼女に選べない理由があった。
紅は、深紅は、彼にとって、もっとも身近にいた人の色だからだ。
一つ息を吐いて、月代は踵を返した。
できるだけ早く、長く、若桜に会いたくなった。
けれど獣人というのは、人間よりも寒さに強いらしい。それに生まれも育ちも山奥なのだから、寒さには当然慣れている。子供など、雪が降ろうが、お構いなしに外で飛び跳ねているのが常だ。
月代はさくさくと雪を踏みしめながら、獣道を歩いていた。
村を守るように囲んでいる森の中に、人が使うような道はない。これほど山奥まで入り込んでくる人間はまずいない。その上、村の住人も森から外へ出ようとはしないからだ。
けれど月代にとっては、森の中は庭のようなものだ。姉や従兄妹と共に、幼い頃から走り回った遊び場なのだから。
緩やかな上り坂を登り切ると、少しばかり木々が開けている場所がある。大きく深呼吸をして、身体から力を抜いた。
吐く息が白く染まり、銀世界にとけ込んでいった。
それと同時に、火照った身体を、冷たい空気が内側から冷やし始めた。それがどことなく心地良い。
だが、だからといって、身体が冷え切ってしまわぬように、筋肉を解しながら、月代は目当てのものを探して、ぐるりと辺りを見回した。
最近は彼も忙しい。今は亡き従兄の仕事を引き継いだり、神官長である伯父の仕事を手伝ったりと、しなければならないことが溢れかえっている。
そして、それより何より重要なこともある。自身の結婚だ。
この異常な忙しさも、全ては言ってしまえばそのためなのだ。身を固めるとか、一家の長となるとか、そんなこじつけのような理由で、彼にもきちんとした身分を与えることになってしまったのだ。元々身分は持っていた。が、それに次期神官長という、重しが更に乗せられたのだ。
おかげで忙しい。はっきり言って尋常ではない。なにやら複雑な手続きやら儀式やらを踏まねばならないし、それが終わったら、山のような雑務が待っているのだ。
そのため婚約者の若桜に会う時間もままならない。だからこそ、今日はなんとか休みをひねり出したのだ。とは言っても、休むと上司である伯父に宣言しただけなのだが、あっさり通ってしまった辺り、彼の配慮なのかもしれない。
久々の逢瀬であるが、本当に久しぶり過ぎて、手ぶらでは行きにくいものがあった。そうして、月代は山を登っているのだ。
目当ての物はすぐに見つかった。銀色の雪の中で、震えるように小さな紅い蕾。近寄れば、遠目には見えなかったが、白い蕾もその側に存在した。
まるで夫婦のように寄り添っている、二本の梅だ。
今はまだ堅い蕾だが、もう少しすればきっと花開く。月代の勘が彼にそう告げていた。だからこそ、こんな山奥まで登ってきたのだ。
少しばかり悩んで、彼は白い蕾のついた枝を手に取った。三つ蕾がついている枝から、雪を払い落とす。そうして、手折った。
彼女には紅梅よりも、白梅の方が似合うだろう。月代はそう思った。銀色の髪は良いが、若桜の青い瞳と紅い梅は反発してしまう。それに彼女は深紅よりも、もっと柔らかな印象があるからだ。その名の通り、薄紅色にも似た。
白梅を選んだ理由として、もう一つ。意図したわけではないが、恐らく無意識に、紅梅を彼女に選べない理由があった。
紅は、深紅は、彼にとって、もっとも身近にいた人の色だからだ。
一つ息を吐いて、月代は踵を返した。
できるだけ早く、長く、若桜に会いたくなった。
『Don’t say any more, dear』
2004年1月31日 狐 ただいま。
耳に届いた懐かしい声に、葵は部屋を飛び出した。それはどんなことがあっても聞き間違えることのない声だ。彼のおかげで、葵の聴力はぐんと良くなった。
自室から玄関までの、普段なら何気ない距離が、今はもどかしくて仕方がない。
けれど彼に会いたかった。この家にいる、誰よりも早く。
「春日!」
玄関まで行くのが面倒で、庭を駆け下りて叫ぶと、遠くの人影がこちらを向いた。
「ただいま、葵」
そう言って、春日は記憶の中にあるものと、全く同じ笑みを浮かべた。
けれど葵が駆け寄ると、その笑みを曇らせ、彼は小さく苦笑した。
「裸足は危ないよ」
言われて、葵はきょとんとした顔をした。それから数秒おいて、ああと呟き、自分の足を見下ろした。あまり手を加えられていない、自然のままの庭は、葵の足に細かな傷を付けていた。
だが、葵にとってそんな傷は大した物ではなかった。
言いたいことは山のようにあった。春日がいない間に、いろんなことが起きた。そのことも伝えたかったけれど、何より会いたかったと、言葉にしたかった。
「……お帰り」
けれどぐっと言葉に詰まってしまい、結局彼女は平凡な言葉を発した。
「ただいま、葵」
春日はそんな葵の葛藤を、軽く見越しているような笑顔を向けた。
そして葵の髪を一房つまみ、考えるような仕草を見せた。
「間に合った、よね?」
葵は小さく頷き、そのまま俯いた。
髪を切ったのは、一年前のことだった。結婚しようと指切りをしたのは、春日からだった。だが、彼は葵が適齢期に入っても、矢張り旅ばかりしていた。それはそれで構わないと思った。とても彼らしいとも思った。
それでも矢張り、葵は不安だった。
だから髪を切った。彼が旅に出ると挨拶に来たその場で。そうして宣言したのだ。『この髪が元に戻るまでは待つ』と。
そうして、彼は帰ってきてくれた。葵の言葉を覚えていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。彼女は本当に嬉しかったのだ。
「それじゃあ、約束通り」
春日は俯いた葵の顔をのぞき込むようにして、笑った。この男の、いつだって余裕のある態度が、嫌いで、大好きで、愛おしくて葵はまた少し俯いた。
「結婚して下さいますか、お姫様」
出会ったばかりの時と同じように言われ、葵の喉が震えた。言葉は喉の奥に詰まってしまい、掠れた嗚咽とともに、涙が溢れ出す。
そんな彼女を見て、春日はそっとその身体を抱きしめた。
「返事はくれないの?」
意地悪く聞いてくる彼の胸で、葵は何度も首を振り、頷いた。
嬉しかった。けれどもう、何も言わないで欲しかった。今の気持ちを言葉にしたり、されたりしたら、全部終わってしまうような気がした。
春日はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、彼女の身体を黙って抱きしめ続けてくれた。
耳に届いた懐かしい声に、葵は部屋を飛び出した。それはどんなことがあっても聞き間違えることのない声だ。彼のおかげで、葵の聴力はぐんと良くなった。
自室から玄関までの、普段なら何気ない距離が、今はもどかしくて仕方がない。
けれど彼に会いたかった。この家にいる、誰よりも早く。
「春日!」
玄関まで行くのが面倒で、庭を駆け下りて叫ぶと、遠くの人影がこちらを向いた。
「ただいま、葵」
そう言って、春日は記憶の中にあるものと、全く同じ笑みを浮かべた。
けれど葵が駆け寄ると、その笑みを曇らせ、彼は小さく苦笑した。
「裸足は危ないよ」
言われて、葵はきょとんとした顔をした。それから数秒おいて、ああと呟き、自分の足を見下ろした。あまり手を加えられていない、自然のままの庭は、葵の足に細かな傷を付けていた。
だが、葵にとってそんな傷は大した物ではなかった。
言いたいことは山のようにあった。春日がいない間に、いろんなことが起きた。そのことも伝えたかったけれど、何より会いたかったと、言葉にしたかった。
「……お帰り」
けれどぐっと言葉に詰まってしまい、結局彼女は平凡な言葉を発した。
「ただいま、葵」
春日はそんな葵の葛藤を、軽く見越しているような笑顔を向けた。
そして葵の髪を一房つまみ、考えるような仕草を見せた。
「間に合った、よね?」
葵は小さく頷き、そのまま俯いた。
髪を切ったのは、一年前のことだった。結婚しようと指切りをしたのは、春日からだった。だが、彼は葵が適齢期に入っても、矢張り旅ばかりしていた。それはそれで構わないと思った。とても彼らしいとも思った。
それでも矢張り、葵は不安だった。
だから髪を切った。彼が旅に出ると挨拶に来たその場で。そうして宣言したのだ。『この髪が元に戻るまでは待つ』と。
そうして、彼は帰ってきてくれた。葵の言葉を覚えていてくれた。それだけで、胸がいっぱいになった。彼女は本当に嬉しかったのだ。
「それじゃあ、約束通り」
春日は俯いた葵の顔をのぞき込むようにして、笑った。この男の、いつだって余裕のある態度が、嫌いで、大好きで、愛おしくて葵はまた少し俯いた。
「結婚して下さいますか、お姫様」
出会ったばかりの時と同じように言われ、葵の喉が震えた。言葉は喉の奥に詰まってしまい、掠れた嗚咽とともに、涙が溢れ出す。
そんな彼女を見て、春日はそっとその身体を抱きしめた。
「返事はくれないの?」
意地悪く聞いてくる彼の胸で、葵は何度も首を振り、頷いた。
嬉しかった。けれどもう、何も言わないで欲しかった。今の気持ちを言葉にしたり、されたりしたら、全部終わってしまうような気がした。
春日はそんな葵の気持ちを知ってか知らずか、彼女の身体を黙って抱きしめ続けてくれた。
『Sweet toxicity』
2004年1月30日 狐 水辺に腰を下ろしていると、後ろから誰かが近寄ってくるのがわかった。草を踏みつける音がやけにうるさい。
こんな歩き方をする知り合いは、羽水には一人しか思いつかなかった。
「羽水」
予想通りの声で名前を呼ばれる。振り返ると、夕月が不満げな顔をしていた。
その様子からして、力を使い羽水を探したのだろう。夕月は水と闇以外の精霊に愛されているのだから、それくらい大したことではないのだ。
「どうした?」
つい最近知り合ったばかりの女性は、非道く扱いにくい人だった。
なんというか、つつけば噛み付かれ、遠ざかると怒られる。適当な距離が掴みにくいのだ。
力が強く、その気になれば羽水などあっさり焼き殺されてしまう。そして手加減しているという事実を隠そうともしない。その思い切りの良さが、嫌みさを感じさせず、得をしていると思った。
「いや、別に用は無いんだけどな」
羽水の隣に腰を下ろした彼女は、やっぱりどこか不満げだった。
「不満そうだな」
とりあえず、直球で聞いてみると、夕月は顔を顰めた。不満というより、今度はなんとなく嫌そうな雰囲気が広がる。
「別に、不満って訳じゃないんだ」
「何があった?」
問いかけると、夕月は少しばかり口ごもった。
あまり言いたくないと、態度で告げている。それからいかにも仕方がないというように溜息を吐き、口を開いた。
「……あのな」
「ああ」
「お前の隣は居心地が良いんだ」
「……それは、どうも」
予想以上の返答に、呆けた返事をかえすと、夕月は笑った。
「中毒性があるな」
そう言って彼女は、いつになくリラックスした様子で、目の前の池を眺めた。
羽水は、何も言えなかった。
こんな歩き方をする知り合いは、羽水には一人しか思いつかなかった。
「羽水」
予想通りの声で名前を呼ばれる。振り返ると、夕月が不満げな顔をしていた。
その様子からして、力を使い羽水を探したのだろう。夕月は水と闇以外の精霊に愛されているのだから、それくらい大したことではないのだ。
「どうした?」
つい最近知り合ったばかりの女性は、非道く扱いにくい人だった。
なんというか、つつけば噛み付かれ、遠ざかると怒られる。適当な距離が掴みにくいのだ。
力が強く、その気になれば羽水などあっさり焼き殺されてしまう。そして手加減しているという事実を隠そうともしない。その思い切りの良さが、嫌みさを感じさせず、得をしていると思った。
「いや、別に用は無いんだけどな」
羽水の隣に腰を下ろした彼女は、やっぱりどこか不満げだった。
「不満そうだな」
とりあえず、直球で聞いてみると、夕月は顔を顰めた。不満というより、今度はなんとなく嫌そうな雰囲気が広がる。
「別に、不満って訳じゃないんだ」
「何があった?」
問いかけると、夕月は少しばかり口ごもった。
あまり言いたくないと、態度で告げている。それからいかにも仕方がないというように溜息を吐き、口を開いた。
「……あのな」
「ああ」
「お前の隣は居心地が良いんだ」
「……それは、どうも」
予想以上の返答に、呆けた返事をかえすと、夕月は笑った。
「中毒性があるな」
そう言って彼女は、いつになくリラックスした様子で、目の前の池を眺めた。
羽水は、何も言えなかった。
その日、旅先から帰ってきた春日は真っ直ぐに葵に会いに来た。それから暗くなるまで、ずっと側にいてくれた。
日が暮れたとき、彼は帰ると言い出したが、葵がそれを引き留めたのだ。いくら奔放に暮らしている春日とはいえ、帰ってきたならばまず実家へ行くべきだ。けれど、葵は甘えた。久しぶりに会えたのだから、と。
両親は苦笑しながら、春日の分の夕食も用意してくれた。
妹の若桜が眠ってからも、しばらくは話を続けていた。
春日は話すのが上手い。いつの間にか引き込まれてしまうのが常だ。その上、彼の話は大抵が実体験であるから、彼自身を知れるような気がして、おとなしく聞き入ってしまうのだ。
「そういえば、こんな話を聞いたよ」
そう言って、春日が話したのはどこかの国の御伽話だった。
世界のどこかに、御伽の国への扉が隠れている。その扉をくぐった人は、こちらの世界には帰って来れない。御伽の国は常春の世界で、幸せに暮らせるが、平坦な生活はどこか苦痛に満ちている。
そんな内容だったが、葵はよくわからない話だと思った。眠かったこともあるが、御伽話にしては堅苦しい。ストーリーも面白くはない。
けれど、思った。
「春日はそんなところに行かないでね」
「…ああ、うん、多分」
「……行かないでね」
呟きながら、うとうとと微睡んでいた葵の髪を、春日はそっと撫でた。
「もし、間違って行っちゃったら、追いかけてきてよ」
柔らかく囁かれ、葵は頷いた、ような気がした。
春日の隣はあまりに居心地が良くて、暖かくて、やっぱり眠ってしまった。だから、その後の呟きは聞こえなかった。
「御伽の国で二人っきりっていうのも、悪くないだろ?」
日が暮れたとき、彼は帰ると言い出したが、葵がそれを引き留めたのだ。いくら奔放に暮らしている春日とはいえ、帰ってきたならばまず実家へ行くべきだ。けれど、葵は甘えた。久しぶりに会えたのだから、と。
両親は苦笑しながら、春日の分の夕食も用意してくれた。
妹の若桜が眠ってからも、しばらくは話を続けていた。
春日は話すのが上手い。いつの間にか引き込まれてしまうのが常だ。その上、彼の話は大抵が実体験であるから、彼自身を知れるような気がして、おとなしく聞き入ってしまうのだ。
「そういえば、こんな話を聞いたよ」
そう言って、春日が話したのはどこかの国の御伽話だった。
世界のどこかに、御伽の国への扉が隠れている。その扉をくぐった人は、こちらの世界には帰って来れない。御伽の国は常春の世界で、幸せに暮らせるが、平坦な生活はどこか苦痛に満ちている。
そんな内容だったが、葵はよくわからない話だと思った。眠かったこともあるが、御伽話にしては堅苦しい。ストーリーも面白くはない。
けれど、思った。
「春日はそんなところに行かないでね」
「…ああ、うん、多分」
「……行かないでね」
呟きながら、うとうとと微睡んでいた葵の髪を、春日はそっと撫でた。
「もし、間違って行っちゃったら、追いかけてきてよ」
柔らかく囁かれ、葵は頷いた、ような気がした。
春日の隣はあまりに居心地が良くて、暖かくて、やっぱり眠ってしまった。だから、その後の呟きは聞こえなかった。
「御伽の国で二人っきりっていうのも、悪くないだろ?」
最初から、春日のことは気に入らない奴だと思っていた。
砕けた態度で、こちらのことを『お姫様』などと呼んでくる。嫌そうな顔をしても、それはお構いなし。にこにこ笑って甘やかすかと思えば、葵をからかって楽しそうにしている。
要するに、彼は掴めない人だったのだ。
葵が最初に会ったとき、彼はもう成人を目の前にしていて、随分大人だと思った。
けれど、矢作の次男の噂は少しばかり聞いていたので、イメージと違うなとも思ったのだ。
矢作の次男は、腕は良いが、一つのところにじっとしていられない困った男。それが葵が知っている春日の噂だった。
親やお偉方の許可も得ず、勝手気ままに旅に出て、そのまま何年も帰ってこないこともある。時折帰ってきては、新しい技を嬉々として披露する。
それは決して悪いことではない。山奥で独自の文化を築いている人狐族にも、矢張り時には刺激が欲しくなる。彼はいつもこの里に風をもたらす、と父に聞いたこともあった。
だから葵は、もう少し真面目そうな人を連想していたのだ。出会ってすぐ、それは大きな間違いだと気づきはしたけれど。
そんなすごいのか、馬鹿なのか、いまいちよくわからない男だったが、春日は葵をよく構った。
旅から帰ってくると、真っ先に玉造の家までやってきて、珍妙な土産を渡してくれる。そうして、大きくなったと嬉しそうに頭を撫でてくれる。
そうやって子供扱いされるのが悔しくて、でも優しくされるのが嬉しくて、葵はいつも拗ねたような顔をしていた。
そうすると、春日は意地悪そうな顔をして、今度は軽々と葵を抱き上げるのだ。そして慌てる葵を楽しそうに眺めた後、「太った?」とか巫山戯たことばかりを尋ねる。
そんな彼が、葵はとても好きで、とても嫌いで、とても苦手で、でもいつも会いたかった。
旅なんか行かないで欲しい。
初めてその思いを認識したのは、十六歳の時だった。けれど彼女は自分の感情を、まだ理解するまいと、必死に耐えた。
理解してしまえば、泣いてしまう。本能的にそう感じたから。
砕けた態度で、こちらのことを『お姫様』などと呼んでくる。嫌そうな顔をしても、それはお構いなし。にこにこ笑って甘やかすかと思えば、葵をからかって楽しそうにしている。
要するに、彼は掴めない人だったのだ。
葵が最初に会ったとき、彼はもう成人を目の前にしていて、随分大人だと思った。
けれど、矢作の次男の噂は少しばかり聞いていたので、イメージと違うなとも思ったのだ。
矢作の次男は、腕は良いが、一つのところにじっとしていられない困った男。それが葵が知っている春日の噂だった。
親やお偉方の許可も得ず、勝手気ままに旅に出て、そのまま何年も帰ってこないこともある。時折帰ってきては、新しい技を嬉々として披露する。
それは決して悪いことではない。山奥で独自の文化を築いている人狐族にも、矢張り時には刺激が欲しくなる。彼はいつもこの里に風をもたらす、と父に聞いたこともあった。
だから葵は、もう少し真面目そうな人を連想していたのだ。出会ってすぐ、それは大きな間違いだと気づきはしたけれど。
そんなすごいのか、馬鹿なのか、いまいちよくわからない男だったが、春日は葵をよく構った。
旅から帰ってくると、真っ先に玉造の家までやってきて、珍妙な土産を渡してくれる。そうして、大きくなったと嬉しそうに頭を撫でてくれる。
そうやって子供扱いされるのが悔しくて、でも優しくされるのが嬉しくて、葵はいつも拗ねたような顔をしていた。
そうすると、春日は意地悪そうな顔をして、今度は軽々と葵を抱き上げるのだ。そして慌てる葵を楽しそうに眺めた後、「太った?」とか巫山戯たことばかりを尋ねる。
そんな彼が、葵はとても好きで、とても嫌いで、とても苦手で、でもいつも会いたかった。
旅なんか行かないで欲しい。
初めてその思いを認識したのは、十六歳の時だった。けれど彼女は自分の感情を、まだ理解するまいと、必死に耐えた。
理解してしまえば、泣いてしまう。本能的にそう感じたから。
初めて会ったのは、彼女が12歳の時だった。
少しばかり堅い銀の髪を一つに束ねた青い目の少女は、幼いながらに姫君のようだった。少しばかり我が侭で、気が強くて、大事に守られている。その癖、変なところで責任感があって、妹は自分が守ると決めていた。だから妹に対してだけは、馬鹿みたいに甘かった。
「初めまして、お姫様」
彼がそう挨拶をすると、小さく首を傾げる。何を言われたのか理解しようとしているのか、狐の耳がぴくぴくと揺れた。
「誰?」
深い青の瞳がじっとこちらを見つめた。嘘を吐こうものなら、きっと彼女はすぐに身を翻し、消えてしまうのだろう。そんな凛とした雰囲気が感じられた。
「矢作の次男」
名乗らず、そう答える。
矢作は玉造とは対のように扱われている家だ。
玉造は魔力を用いて、武具や道具を作る。元々存在している武具の内側に魔力を流し込む。そうやって中から変質させるのが、玉造の技術だ。彼らが作る物は、皆魔力に強い耐性を持つ。
逆に矢作は外から力を加える。時には熱を、時には冷気を、時には力そのものを。外側から力をかけ、加工する。力そのものを受けるため、矢作の作る物は純粋な強さを持つ。それらは堅く、鋭い。
そのため、二つの家は対として考えられてきた。
「……春日?」
玉造の長女は、少し考えて、呟いた。
自分の名前を知っていてくれたのかと、彼――矢作春日は少し嬉しくなった。
「そうだよ、矢作春日。初めまして、葵」
改めて名乗ると、彼女――葵は少しばかり嫌そうな顔をした。
「……私はまだ名乗ってない」
「でも知ってる」
「でも、名乗ってない」
葵は不思議と強情だった。このお姫様はきちんと礼儀正しく育てられたらしく、自分から礼に乗っ取ったやりとりを望んでいるようだった。
それがなんとなく理解できた春日は、苦笑しながら、頭を下げた。
「失礼しました。矢作春日です。お名前をお教え願えますか、姫」
丁寧に問うと、また葵は嫌そうな顔をした。からかわれてるとでも思ったのだろう。春日にそんなつもりは毛頭無かったが。
「玉造葵です」
葵は不機嫌そうな表情を消し去り、名乗ると、優雅に礼をした。本当にまるで姫のようだと春日は思った。
恐らく、そんなところに惹かれたのだろう。衝動に駆られ、指切りをしてしまうほどに。
少しばかり堅い銀の髪を一つに束ねた青い目の少女は、幼いながらに姫君のようだった。少しばかり我が侭で、気が強くて、大事に守られている。その癖、変なところで責任感があって、妹は自分が守ると決めていた。だから妹に対してだけは、馬鹿みたいに甘かった。
「初めまして、お姫様」
彼がそう挨拶をすると、小さく首を傾げる。何を言われたのか理解しようとしているのか、狐の耳がぴくぴくと揺れた。
「誰?」
深い青の瞳がじっとこちらを見つめた。嘘を吐こうものなら、きっと彼女はすぐに身を翻し、消えてしまうのだろう。そんな凛とした雰囲気が感じられた。
「矢作の次男」
名乗らず、そう答える。
矢作は玉造とは対のように扱われている家だ。
玉造は魔力を用いて、武具や道具を作る。元々存在している武具の内側に魔力を流し込む。そうやって中から変質させるのが、玉造の技術だ。彼らが作る物は、皆魔力に強い耐性を持つ。
逆に矢作は外から力を加える。時には熱を、時には冷気を、時には力そのものを。外側から力をかけ、加工する。力そのものを受けるため、矢作の作る物は純粋な強さを持つ。それらは堅く、鋭い。
そのため、二つの家は対として考えられてきた。
「……春日?」
玉造の長女は、少し考えて、呟いた。
自分の名前を知っていてくれたのかと、彼――矢作春日は少し嬉しくなった。
「そうだよ、矢作春日。初めまして、葵」
改めて名乗ると、彼女――葵は少しばかり嫌そうな顔をした。
「……私はまだ名乗ってない」
「でも知ってる」
「でも、名乗ってない」
葵は不思議と強情だった。このお姫様はきちんと礼儀正しく育てられたらしく、自分から礼に乗っ取ったやりとりを望んでいるようだった。
それがなんとなく理解できた春日は、苦笑しながら、頭を下げた。
「失礼しました。矢作春日です。お名前をお教え願えますか、姫」
丁寧に問うと、また葵は嫌そうな顔をした。からかわれてるとでも思ったのだろう。春日にそんなつもりは毛頭無かったが。
「玉造葵です」
葵は不機嫌そうな表情を消し去り、名乗ると、優雅に礼をした。本当にまるで姫のようだと春日は思った。
恐らく、そんなところに惹かれたのだろう。衝動に駆られ、指切りをしてしまうほどに。
その人は身勝手な人だった。
好きだと囁いて、結婚しようと指切りをした。それなのに、いつも旅ばかりしていて、滅多に帰ってきてはくれない。
たまに帰ってくると、いつもお土産をくれる。だけど、そんなものが欲しい訳じゃない。土産なんかなくて構わない。だからそんな物で釣るような真似をしないで欲しい。悲しくなるから。
結局、身勝手な男に振り回され、結婚はまだまだできそうにない。実の妹にまで先を越され、両親からは跡取りを心配される始末だ。
後悔をしていないと答えると嘘になる。自分でもどうかしてる。あの幼すぎる口約束に縋っているなんて。
けれど、今でも彼は変わらない。守られた約束は少ないけれど、絶対と言い交わした約束はすべて守られた。
だからもう少しだけ、信じていたいのだ。
好きだと囁いて、結婚しようと指切りをした。それなのに、いつも旅ばかりしていて、滅多に帰ってきてはくれない。
たまに帰ってくると、いつもお土産をくれる。だけど、そんなものが欲しい訳じゃない。土産なんかなくて構わない。だからそんな物で釣るような真似をしないで欲しい。悲しくなるから。
結局、身勝手な男に振り回され、結婚はまだまだできそうにない。実の妹にまで先を越され、両親からは跡取りを心配される始末だ。
後悔をしていないと答えると嘘になる。自分でもどうかしてる。あの幼すぎる口約束に縋っているなんて。
けれど、今でも彼は変わらない。守られた約束は少ないけれど、絶対と言い交わした約束はすべて守られた。
だからもう少しだけ、信じていたいのだ。
行ってくる。そう夫が告げたとき、香月は小さく笑うことしか出来なかった。
「本気?」
「もちろん」
「行かないでって言っても?」
「……ああ」
彼も辛いのだろうなと、まるで他人事のように思った。もし立場が逆で、夫が病に倒れていたら自分も同じことをするかもしれない。けれど、決して同じことはしないだろう。
何故なら、香月自身が、病の深さを知っているからだ。夫は知らない。だから必死になれる。自分は知っている。だからもう、半ば諦めている。
本当は側にいて欲しい。何処にも行かないで欲しい。自分を不幸だとは思わないが、孤独に震えて死ぬのは御免だと思う。
「寂しくなるわ」
「……」
「良いのよ。貴方は貴方がしたいようにすれば。でも一つだけ約束して」
「何を?」
「中途半端にならないで。自分を貫いて」
「約束する」
彼には彼でいて欲しい。
いずれ自分が死んでしまう時がくる。そのとき、何もせず側にいただけであっても、戦い疲れ、側にいることが出来なくても、結局のところ彼は悔やむのだ。ならば、進んで欲しい。
「行ってらっしゃい、キール。貴方の無事を祈っているわ」
「自分の無事を祈ってくれ」
「……それは無理よ」
「……」
他人のためなら、たとえようも亡いほど素直な気持ちで祈れる。そんな祈りなら神に届くような気がする。けれど自分のためには祈れない。欲やら望みがあふれかえって、純粋な気持ちを作り出せないからだ。
「じゃあ、キール」
「なんだ?」
「貴方が私の無事を祈って。私が貴方の無事を祈るから」
そう言うとキールは小さく笑った。少しばかりほろ苦い笑みだったけれど、彼らしい優しい笑みだと思った。夜の闇のような、小さな暖かさが溢れている。
「祈り続けるよ」
「ありがとう」
貴方が笑ってくれたから、私も貴方の無事を祈り続けるわ。
「本気?」
「もちろん」
「行かないでって言っても?」
「……ああ」
彼も辛いのだろうなと、まるで他人事のように思った。もし立場が逆で、夫が病に倒れていたら自分も同じことをするかもしれない。けれど、決して同じことはしないだろう。
何故なら、香月自身が、病の深さを知っているからだ。夫は知らない。だから必死になれる。自分は知っている。だからもう、半ば諦めている。
本当は側にいて欲しい。何処にも行かないで欲しい。自分を不幸だとは思わないが、孤独に震えて死ぬのは御免だと思う。
「寂しくなるわ」
「……」
「良いのよ。貴方は貴方がしたいようにすれば。でも一つだけ約束して」
「何を?」
「中途半端にならないで。自分を貫いて」
「約束する」
彼には彼でいて欲しい。
いずれ自分が死んでしまう時がくる。そのとき、何もせず側にいただけであっても、戦い疲れ、側にいることが出来なくても、結局のところ彼は悔やむのだ。ならば、進んで欲しい。
「行ってらっしゃい、キール。貴方の無事を祈っているわ」
「自分の無事を祈ってくれ」
「……それは無理よ」
「……」
他人のためなら、たとえようも亡いほど素直な気持ちで祈れる。そんな祈りなら神に届くような気がする。けれど自分のためには祈れない。欲やら望みがあふれかえって、純粋な気持ちを作り出せないからだ。
「じゃあ、キール」
「なんだ?」
「貴方が私の無事を祈って。私が貴方の無事を祈るから」
そう言うとキールは小さく笑った。少しばかりほろ苦い笑みだったけれど、彼らしい優しい笑みだと思った。夜の闇のような、小さな暖かさが溢れている。
「祈り続けるよ」
「ありがとう」
貴方が笑ってくれたから、私も貴方の無事を祈り続けるわ。
ふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの妻の姿が消えていた。不審に思ってあたりを見渡すと、障子戸が少し開いており、月の光が静かに室内を照らしていた。
上着を羽織り、障子を開けると、寝間着姿の妻が縁側に座り、月を眺めていた。何かを愛おしむように。
羽水が無言で隣に腰を下ろしても、夕月は何も言わなかった。だから彼も、月に照らされた妻の横顔をしばらく見つめていた。
「香月が」
先に口を開いたのは、夕月だった。彼女はあまり我慢強くない。長い間が嫌いなのだ。けれど、今日に限っては、口を開くまでに数分が経過していた。
「――死んだんだってな」
「……ああ」
矢張り、と思った。羽水も無自覚ながらそのことを考えていたのだろう。普段はこんな夜中に目を覚ますことはない。
香月――二人の長女の訃報を届けたのは、息子の月代だった。言おうか言うまいか、悩んだあげくのことだったらしい。
あまりの衝撃に、二人そろってしばらく呆然としていたことは覚えている。娘が家を飛び出してから、十数年がたつが、あまり心配もしていなかった。何故か思いこんでいたのだ。彼女なら大丈夫だと。
「…香月は絶対に幸せだと思ってた。親不孝な娘だ」
ぽつりぽつりと、夕月は呟く。その声にもいつもの覇気がない。急に老いてしまったかのように、力が無く、疲れ果てている。彼女らしくない。そう、思った。
「俺も思ってた。けど、これが現実なんだろうな」
呟くと、吐息が溜息のように零れた。
現実から逃げたくなる。娘がもういないとう事実にも、らしくない妻も、あまり見たくはない現実だ。
「私はな、あの子に憧れてたんだと思う」
月を見つめていた視線を、膝の上の手に向け、夕月が小さく語り始めた。
「あの子は私にもお前にも似てないだろう? だからなんだか、少し羨ましかったし、あんな風になりたかったとも思ったんだ」
「……意外だな」
「そうか?」
「お前はもっと自分を好きなんだと思ってた。もっと自信があると」
そう言い返すと、低く夕月が笑った。疲れたような、悲しいような。あまり見たくない、聴きたくもない笑いだった。
「そうかもな。私は私にそれなりに自信を持ってる。だけど、時には誰かに憧れたりもするのさ」
「…らしくないな」
「……そうか?」
「ああ」
ふっと、溜息を吐き出した夕月が、やっと羽水を見た。紅い瞳が、濡れていた。
「らしくないと言われてもな…、お前の基準がわからないから何とも言えない」
「今のお前は…、そうだな、似合ってない」
「何に?」
「お前自身に」
「じゃあ、どんなのが私らしいんだ?」
少しだけ考えて、羽水は頷いた。
「この場合、泣く俺を叱咤しながら慰めるのがお前らしいんじゃないのか?」
「……それ、自分で言ってて虚しくならないか?」
「五月蠅い」
「ああ、でも、そうだな。そっちの方が私らしい」
そう言って、夕月は額を羽水の肩に押し当てて笑った。低い笑いではあったけれど、疲れた気配は少し和らいでいた。
「今日だけ、役を取り替えよう。頼むな、羽水」
彼女が、泣きたがっているのだと。羽水はそう思った。だから、妻の頭を抱き寄せ、一度だけ頷いた。
「羽水」
「ん?」
「お前は死ぬなよ」
「お前もな」
泣き顔を見られるのを、彼女はきっと良しとしないだろう。
だから羽水は月を眺めた。
今はそこにいるであろう、娘に思いをはせながら。
上着を羽織り、障子を開けると、寝間着姿の妻が縁側に座り、月を眺めていた。何かを愛おしむように。
羽水が無言で隣に腰を下ろしても、夕月は何も言わなかった。だから彼も、月に照らされた妻の横顔をしばらく見つめていた。
「香月が」
先に口を開いたのは、夕月だった。彼女はあまり我慢強くない。長い間が嫌いなのだ。けれど、今日に限っては、口を開くまでに数分が経過していた。
「――死んだんだってな」
「……ああ」
矢張り、と思った。羽水も無自覚ながらそのことを考えていたのだろう。普段はこんな夜中に目を覚ますことはない。
香月――二人の長女の訃報を届けたのは、息子の月代だった。言おうか言うまいか、悩んだあげくのことだったらしい。
あまりの衝撃に、二人そろってしばらく呆然としていたことは覚えている。娘が家を飛び出してから、十数年がたつが、あまり心配もしていなかった。何故か思いこんでいたのだ。彼女なら大丈夫だと。
「…香月は絶対に幸せだと思ってた。親不孝な娘だ」
ぽつりぽつりと、夕月は呟く。その声にもいつもの覇気がない。急に老いてしまったかのように、力が無く、疲れ果てている。彼女らしくない。そう、思った。
「俺も思ってた。けど、これが現実なんだろうな」
呟くと、吐息が溜息のように零れた。
現実から逃げたくなる。娘がもういないとう事実にも、らしくない妻も、あまり見たくはない現実だ。
「私はな、あの子に憧れてたんだと思う」
月を見つめていた視線を、膝の上の手に向け、夕月が小さく語り始めた。
「あの子は私にもお前にも似てないだろう? だからなんだか、少し羨ましかったし、あんな風になりたかったとも思ったんだ」
「……意外だな」
「そうか?」
「お前はもっと自分を好きなんだと思ってた。もっと自信があると」
そう言い返すと、低く夕月が笑った。疲れたような、悲しいような。あまり見たくない、聴きたくもない笑いだった。
「そうかもな。私は私にそれなりに自信を持ってる。だけど、時には誰かに憧れたりもするのさ」
「…らしくないな」
「……そうか?」
「ああ」
ふっと、溜息を吐き出した夕月が、やっと羽水を見た。紅い瞳が、濡れていた。
「らしくないと言われてもな…、お前の基準がわからないから何とも言えない」
「今のお前は…、そうだな、似合ってない」
「何に?」
「お前自身に」
「じゃあ、どんなのが私らしいんだ?」
少しだけ考えて、羽水は頷いた。
「この場合、泣く俺を叱咤しながら慰めるのがお前らしいんじゃないのか?」
「……それ、自分で言ってて虚しくならないか?」
「五月蠅い」
「ああ、でも、そうだな。そっちの方が私らしい」
そう言って、夕月は額を羽水の肩に押し当てて笑った。低い笑いではあったけれど、疲れた気配は少し和らいでいた。
「今日だけ、役を取り替えよう。頼むな、羽水」
彼女が、泣きたがっているのだと。羽水はそう思った。だから、妻の頭を抱き寄せ、一度だけ頷いた。
「羽水」
「ん?」
「お前は死ぬなよ」
「お前もな」
泣き顔を見られるのを、彼女はきっと良しとしないだろう。
だから羽水は月を眺めた。
今はそこにいるであろう、娘に思いをはせながら。
今日の夕食は魚が良い。そう言い出したのは父だった。多分何も考えず、衝動的に言葉にしたのだろう。
「蒼河がお魚を食べたいっていうから、何匹か捕ってきて」
その数分後、母は氷河にそう言い、小さな桶を手渡してくれた。
さて、どうしよう。
村の外れにある川縁にたって、氷河は小さく首を傾げた。魚を釣ったことはあまりない。はっきり言ってしまえば、下手に決まっているし、何より釣り竿も糸もない。
柄にもなく氷河はしばし途方に暮れた。日が暮れる前に帰らなければならないが、帰る算段がどうしてもつかない。
「氷河?」
そんな氷河に声をかけてきた人がいた。伯父の羽水だった。
「伯父さん」
「どうかしたのか?」
羽水は氷河の隣に立ち、静かに川を見回した。それだけで水の精霊達が喜びの声を上げている。伯父は本当に水に愛されているのだと、信じずにはいられない瞬間だ。
「魚を捕ってこいって母さんに言われたんだけど」
どうも良い方法が思い浮かばない。そう告げると、羽水は目を丸くした後、大きく溜息を吐いた。
「氷呼に教えてもらわなかったのか?」
「……何を?」
問いに更なる問いで返すと、羽水は静かにしゃがみ込み、揺れる水面に指先で触れた。
ただそれだけだというのに、流れに逆らうように水面が静かに震えだした。羽水は何も言葉にしていない。けれど、水の精霊達が彼の意を汲んで、自主的に動き出している。
静かな震動は緩やかに波紋を作り上げ、水のはねる音が唐突に響いた。そしてきらりと白い何かが水面で光った。
「氷河、桶貸せ」
此方に視線を向けずに言う伯父に、無言で桶を差し出すと、彼はそれを川の中にそっと沈めた。
すると桶の中に小さな渦ができはじめた。最初はゆっくり、そしてだんだん速度を増し、力強くうねり始めた。そのうねりは桶の外まで広がり、そこに吸い寄せられるように白く光る何かが流れてくる。
それが魚の鱗だと気づいたときには、銀色に光る川魚が数匹桶に収まっていた。
「四匹で良かったか?」
羽水は思い出したように尋ねながら、桶を氷河に手渡した。
「氷呼も水は得意だから魚を捕るのは得意なんだ。だから、やり方を教えたつもりになってたんだろうな」
いや、それとも知ってると思っていたのか。わずかに首を捻りながらそんなことを呟き、伯父はじゃあなと行って、家へと帰っていった。
氷河にもようやく、母が魚を『釣ってこい』ではなく『捕ってこい』と言った意味がわかった気がした。
「蒼河がお魚を食べたいっていうから、何匹か捕ってきて」
その数分後、母は氷河にそう言い、小さな桶を手渡してくれた。
さて、どうしよう。
村の外れにある川縁にたって、氷河は小さく首を傾げた。魚を釣ったことはあまりない。はっきり言ってしまえば、下手に決まっているし、何より釣り竿も糸もない。
柄にもなく氷河はしばし途方に暮れた。日が暮れる前に帰らなければならないが、帰る算段がどうしてもつかない。
「氷河?」
そんな氷河に声をかけてきた人がいた。伯父の羽水だった。
「伯父さん」
「どうかしたのか?」
羽水は氷河の隣に立ち、静かに川を見回した。それだけで水の精霊達が喜びの声を上げている。伯父は本当に水に愛されているのだと、信じずにはいられない瞬間だ。
「魚を捕ってこいって母さんに言われたんだけど」
どうも良い方法が思い浮かばない。そう告げると、羽水は目を丸くした後、大きく溜息を吐いた。
「氷呼に教えてもらわなかったのか?」
「……何を?」
問いに更なる問いで返すと、羽水は静かにしゃがみ込み、揺れる水面に指先で触れた。
ただそれだけだというのに、流れに逆らうように水面が静かに震えだした。羽水は何も言葉にしていない。けれど、水の精霊達が彼の意を汲んで、自主的に動き出している。
静かな震動は緩やかに波紋を作り上げ、水のはねる音が唐突に響いた。そしてきらりと白い何かが水面で光った。
「氷河、桶貸せ」
此方に視線を向けずに言う伯父に、無言で桶を差し出すと、彼はそれを川の中にそっと沈めた。
すると桶の中に小さな渦ができはじめた。最初はゆっくり、そしてだんだん速度を増し、力強くうねり始めた。そのうねりは桶の外まで広がり、そこに吸い寄せられるように白く光る何かが流れてくる。
それが魚の鱗だと気づいたときには、銀色に光る川魚が数匹桶に収まっていた。
「四匹で良かったか?」
羽水は思い出したように尋ねながら、桶を氷河に手渡した。
「氷呼も水は得意だから魚を捕るのは得意なんだ。だから、やり方を教えたつもりになってたんだろうな」
いや、それとも知ってると思っていたのか。わずかに首を捻りながらそんなことを呟き、伯父はじゃあなと行って、家へと帰っていった。
氷河にもようやく、母が魚を『釣ってこい』ではなく『捕ってこい』と言った意味がわかった気がした。
暗闇の中に、銀色の光がほんのりと浮かび上がっている。
触れることなどできないが、それは不思議と微かな熱を帯びているような気がする。弱々しく、体温よりも低い、寂しげな微熱を。
そんな月の光の下で、香月はそっと瞼を下ろした。
夜特有のひんやりとした風が心地よい。涙が出るほどに。
月の神よ。
言葉には出さずに、心の中で祈りを込めて名を呼ぶ。銀の光の中で微笑む、優しく儚い、香月にとってたった一人の神。
星よりも明るく、太陽よりも闇に近い存在。暗がりの中でしか、輝きを持てない弱い神。
愛している。
裏切ってしまった神。愛情を受けるだけで、何一つ返すことができなかった月の神。
最早、愛の言葉を呟くことさえ、不敬なのかもしれない。けれど、愛しい。
それでも。
彼女が祈る神は、たった一つのみ。
触れることなどできないが、それは不思議と微かな熱を帯びているような気がする。弱々しく、体温よりも低い、寂しげな微熱を。
そんな月の光の下で、香月はそっと瞼を下ろした。
夜特有のひんやりとした風が心地よい。涙が出るほどに。
月の神よ。
言葉には出さずに、心の中で祈りを込めて名を呼ぶ。銀の光の中で微笑む、優しく儚い、香月にとってたった一人の神。
星よりも明るく、太陽よりも闇に近い存在。暗がりの中でしか、輝きを持てない弱い神。
愛している。
裏切ってしまった神。愛情を受けるだけで、何一つ返すことができなかった月の神。
最早、愛の言葉を呟くことさえ、不敬なのかもしれない。けれど、愛しい。
それでも。
彼女が祈る神は、たった一つのみ。
『Take me your side』
2003年11月13日 狐 父さんと小さく呼ぶと、彼は静かに振り返った。
夕陽を浴びて、白い肌も黒い髪も橙色の影を帯びていた。それがとても綺麗だった。逆光の所為で、父の琥珀色の瞳が見えないのが、少しだけ残念だった。光を浴びて黄金色に輝くあの瞳が、自分はとても好きだったから。
「どうした?」
低く問いかけられる声は柔らかさに欠けている。けれど、そのざらついた感触が心地よいのだと思う。甘くない、けれど厳しくない声。
「ご飯だって、母さんが呼んでるよ」
用件を告げると、父はああと呟き、ゆっくりと此方に向かって歩き出した。
父の歩幅は広い。あっという間に、横をすり抜け、家へと向かってしまう。その歩幅に追いつくために、自分は随分早く歩かなければ行けない。けれど、これでも父は遅く歩いているのだ。それがわかるから、小走りに追いつくことにも、不満は覚えない。
そのまま二人並んでしばらく歩き続けた。無言であったけれど、その空間はとても心地よい。父と一緒にいると、何故かとても安心できる。
「葉月」
もうすぐ家、と言うところまで来たあたりで、父が急に名前を呼んだ。静かに、穏やかに。
少し驚いたけれど、何かと尋ね返すと、父は此方を見ないまま、言った。
「俺がいなくなったら、香月を頼むな」
約束だ。
そう続けられて、葉月は何も考えずに頷いた。何も聞き返せない。何も言えない。けれど返事をしなければいけない。絶対に母を守ると。
父は前を向いたままだったが、葉月が頷いたことがわかったのか、少しだけ笑った。
その横顔が、今でも目に焼き付いて忘れられない。
夕陽を浴びて、白い肌も黒い髪も橙色の影を帯びていた。それがとても綺麗だった。逆光の所為で、父の琥珀色の瞳が見えないのが、少しだけ残念だった。光を浴びて黄金色に輝くあの瞳が、自分はとても好きだったから。
「どうした?」
低く問いかけられる声は柔らかさに欠けている。けれど、そのざらついた感触が心地よいのだと思う。甘くない、けれど厳しくない声。
「ご飯だって、母さんが呼んでるよ」
用件を告げると、父はああと呟き、ゆっくりと此方に向かって歩き出した。
父の歩幅は広い。あっという間に、横をすり抜け、家へと向かってしまう。その歩幅に追いつくために、自分は随分早く歩かなければ行けない。けれど、これでも父は遅く歩いているのだ。それがわかるから、小走りに追いつくことにも、不満は覚えない。
そのまま二人並んでしばらく歩き続けた。無言であったけれど、その空間はとても心地よい。父と一緒にいると、何故かとても安心できる。
「葉月」
もうすぐ家、と言うところまで来たあたりで、父が急に名前を呼んだ。静かに、穏やかに。
少し驚いたけれど、何かと尋ね返すと、父は此方を見ないまま、言った。
「俺がいなくなったら、香月を頼むな」
約束だ。
そう続けられて、葉月は何も考えずに頷いた。何も聞き返せない。何も言えない。けれど返事をしなければいけない。絶対に母を守ると。
父は前を向いたままだったが、葉月が頷いたことがわかったのか、少しだけ笑った。
その横顔が、今でも目に焼き付いて忘れられない。
『If I am dead, please cry out for me and you』
2003年11月11日 狐 軽く寝返りを打ち、香月はキールの身体に頬を寄せて、浅く溜息を吐いた。
「最近、思うの」
彼の表情は伺うことは出来ない。だが、起きて話を聞いていることは確かだろう。彼は人の気配にとても敏感だから。
「ああ、死にたくないって」
呟くようにそういうと、キールがそっと額にキスをくれた。掠めるように熱が触れ、離れて逝く感触が愛しい。何も聞かず、話を促そうとしてくれるのが嬉しい。
「幸せすぎて、泣きそうになるのよ。だけど、こんな状況が永遠に続くわけがないって、知ってる。だから怖くなるの。死にたくないって、切実に思うのよ」
馬鹿げているとは思う。けれど真実怖いのだ。この幸せが終わってしまうことが。自分が死んでしまうことが。今まで考えもしなかったというのに、怖くて怖くて仕方がない。
今こうやって触れあっていても、この熱が冷めてしまうのかと思うと怖い。掠めるようなキスをくれる唇や、包み込んでくれる腕が無くなってしまうことを思うと怖い。そして口付けされ、抱きしめられる自分が消えてしまうことも怖い。
「私が死んだら」
そういうと、今まで黙っていたキールが不意に、顔をしかめたのがわかった。彼は優しい。愚かなまでに。
「いっぱい泣いて。涙が涸れてまで泣いて。そうして、振り切ってしまってね。いつまでも引きずらないで」
目を閉じると、またキールの唇が額に触れた。それから瞼や鼻先や頬を熱が掠めて、また離れていった。
「無茶ばかり言う」
苦笑混じりの声で言われ、香月は小さく笑った。いつもの低い声。香月の恐怖を馬鹿にするのでも、あやすのでもなく、真剣に考えてくれる声。掠れていて、鼓膜を暖かくふるわせる声。
「今頃気づいたの?」
言い返すと、キールが静かに笑った。でもきっと彼は、少し寂しげな笑顔をしているのだろう。
そう思ったから、目を伏せたまま、香月は彼の胸に頬を更に寄せた。
「最近、思うの」
彼の表情は伺うことは出来ない。だが、起きて話を聞いていることは確かだろう。彼は人の気配にとても敏感だから。
「ああ、死にたくないって」
呟くようにそういうと、キールがそっと額にキスをくれた。掠めるように熱が触れ、離れて逝く感触が愛しい。何も聞かず、話を促そうとしてくれるのが嬉しい。
「幸せすぎて、泣きそうになるのよ。だけど、こんな状況が永遠に続くわけがないって、知ってる。だから怖くなるの。死にたくないって、切実に思うのよ」
馬鹿げているとは思う。けれど真実怖いのだ。この幸せが終わってしまうことが。自分が死んでしまうことが。今まで考えもしなかったというのに、怖くて怖くて仕方がない。
今こうやって触れあっていても、この熱が冷めてしまうのかと思うと怖い。掠めるようなキスをくれる唇や、包み込んでくれる腕が無くなってしまうことを思うと怖い。そして口付けされ、抱きしめられる自分が消えてしまうことも怖い。
「私が死んだら」
そういうと、今まで黙っていたキールが不意に、顔をしかめたのがわかった。彼は優しい。愚かなまでに。
「いっぱい泣いて。涙が涸れてまで泣いて。そうして、振り切ってしまってね。いつまでも引きずらないで」
目を閉じると、またキールの唇が額に触れた。それから瞼や鼻先や頬を熱が掠めて、また離れていった。
「無茶ばかり言う」
苦笑混じりの声で言われ、香月は小さく笑った。いつもの低い声。香月の恐怖を馬鹿にするのでも、あやすのでもなく、真剣に考えてくれる声。掠れていて、鼓膜を暖かくふるわせる声。
「今頃気づいたの?」
言い返すと、キールが静かに笑った。でもきっと彼は、少し寂しげな笑顔をしているのだろう。
そう思ったから、目を伏せたまま、香月は彼の胸に頬を更に寄せた。
『Close to you more』
2003年11月10日 狐 光があるから闇がある、とはよくぞ言った物だと思う。
闇に生きる自分からすれば、彼女はまさに光だった。翳りを知らない、何よりもまっすぐに進む光の塊。彼女――香月は、まさにそんな人だった。
最初の出会いから数日後、また町で再会すると、彼女はにこりと笑った。
「この間は、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げると、銀色の髪がさらさらと揺れた。それは一本一本が純銀で出来ているかのような光沢を持っており、金属がこすれ合う硬質な幻聴が聞こえそうだと思った。
今日の彼女は布を被っていなかった。数日前、ナイフで切り裂かれたためだろう。そのため今日はじっくりと彼女の顔を見ることができた。そして遅まきながら、彼女の耳が獣のように柔らかな毛で覆われ、人よりも大きく尖っていることに気が付いた。
人狐族だ。
この町のすぐ側にある森の中に、集落を作り、独自の文化を気づいている獣人の一つで、美しい銀の狐に姿を変えることができる。その滑らかな毛皮は、違法な狩猟者の的となりやすいため、人間が入れないような深い森の中で生活していると聞いた。
そんな訝しむ様子が顔に表れたのか、香月はああと呟いて自分の耳を軽く引っ張った。
「ええ、人狐族です。私は時々遊びに来てるんです、此処に」
「……危険じゃないのか?」
獣人であるが故に、人間よりも運動神経は優れているだろう。だからといって、一人で出歩くことが安全だと言い切れる訳ではない。むしろ、一人だからこそ、徒党を組んで襲われてはたまった物ではない。
そう思い反射的に尋ねる。なんとなく、何となくではあるが、この美しい女が狩猟者に襲われる光景を見たくないと思った。
「ちょっと危険です。でも、私には光がついてますから」
そう言って自信ありげに微笑む彼女は、やはりとても眩しかった。
それは彼女を愛する光の精霊の力だけではないだろう。彼女の性質そのものが光なのだ。明るくすんでいて、透明な意志。そう言った光り輝くものを、精霊達は愛しているのだろう。
そして、光の精霊もかくやと思ってしまうほどに眩しい笑顔で、香月は少し躊躇いがちに尋ねた。
「名前、聞いても良いですか?」
そして光に囚われた。
闇に生きる自分からすれば、彼女はまさに光だった。翳りを知らない、何よりもまっすぐに進む光の塊。彼女――香月は、まさにそんな人だった。
最初の出会いから数日後、また町で再会すると、彼女はにこりと笑った。
「この間は、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げると、銀色の髪がさらさらと揺れた。それは一本一本が純銀で出来ているかのような光沢を持っており、金属がこすれ合う硬質な幻聴が聞こえそうだと思った。
今日の彼女は布を被っていなかった。数日前、ナイフで切り裂かれたためだろう。そのため今日はじっくりと彼女の顔を見ることができた。そして遅まきながら、彼女の耳が獣のように柔らかな毛で覆われ、人よりも大きく尖っていることに気が付いた。
人狐族だ。
この町のすぐ側にある森の中に、集落を作り、独自の文化を気づいている獣人の一つで、美しい銀の狐に姿を変えることができる。その滑らかな毛皮は、違法な狩猟者の的となりやすいため、人間が入れないような深い森の中で生活していると聞いた。
そんな訝しむ様子が顔に表れたのか、香月はああと呟いて自分の耳を軽く引っ張った。
「ええ、人狐族です。私は時々遊びに来てるんです、此処に」
「……危険じゃないのか?」
獣人であるが故に、人間よりも運動神経は優れているだろう。だからといって、一人で出歩くことが安全だと言い切れる訳ではない。むしろ、一人だからこそ、徒党を組んで襲われてはたまった物ではない。
そう思い反射的に尋ねる。なんとなく、何となくではあるが、この美しい女が狩猟者に襲われる光景を見たくないと思った。
「ちょっと危険です。でも、私には光がついてますから」
そう言って自信ありげに微笑む彼女は、やはりとても眩しかった。
それは彼女を愛する光の精霊の力だけではないだろう。彼女の性質そのものが光なのだ。明るくすんでいて、透明な意志。そう言った光り輝くものを、精霊達は愛しているのだろう。
そして、光の精霊もかくやと思ってしまうほどに眩しい笑顔で、香月は少し躊躇いがちに尋ねた。
「名前、聞いても良いですか?」
そして光に囚われた。
『I wanna know more』
2003年11月9日 狐 香月は不機嫌そうな顔で眉を顰めると、上目遣いにキールを睨んだ。
「私が、嫌なのよ」
わかるでしょうと呟き、小さく一つ溜息を吐く。
それでもキールが黙っていると、今度は少しだけ俯いた。そうやっている彼女を見下ろすと、肩の線がやけに細く見える。獣のような耳も、心なしか力無くうなだれているように見える。
「あなたが嫌だと言うなら、私には何もできない。けど、あなたが嫌でないならば、私の好きにしたって良いじゃない」
だから、と香月は続ける。いくらか声が震えていたのは、キールの気のせいだったのかもしれない。
「だから、もう少しだけ、あなたに近づきたいの。――あなたのことを、知りたいの」
「駄目?」と上目遣いで尋ねられ、キールは心の中で空を仰いだ。
完全敗北だと思った。
「私が、嫌なのよ」
わかるでしょうと呟き、小さく一つ溜息を吐く。
それでもキールが黙っていると、今度は少しだけ俯いた。そうやっている彼女を見下ろすと、肩の線がやけに細く見える。獣のような耳も、心なしか力無くうなだれているように見える。
「あなたが嫌だと言うなら、私には何もできない。けど、あなたが嫌でないならば、私の好きにしたって良いじゃない」
だから、と香月は続ける。いくらか声が震えていたのは、キールの気のせいだったのかもしれない。
「だから、もう少しだけ、あなたに近づきたいの。――あなたのことを、知りたいの」
「駄目?」と上目遣いで尋ねられ、キールは心の中で空を仰いだ。
完全敗北だと思った。
『I wanna meet you more』
2003年11月8日 狐 彼女と再会したとき、不思議となんの感慨も浮かびはしなかった。
最初に出会ったのは、街角だった。いや、見かけたと言った方が正しい。
働き盛りの若者が、少しばかり道を外せば優秀なひったくりになる。今日もそんな男が一人の老婦人から荷物をひったくって走っていくのを、キールは静かに見つめていた。その光景に、彼の興味はない。
ただ、ぼんやりと男の行く手を見つめ、その先に一人の女を見つけ、彼は視点を止めた。
若い女だった。年は二十代と十代の境目といったあたりだろう。比較的背が高くて、すらりとしている。全体的に細いが、弱々しい印象は受けない。頭から布を被っているため、目元はよく見えないが、綺麗な顔立ちをしていることは安易に予想が付いた。
特に変わったところがあるわけでもない。何処にでもいるとは言い難いが、滅多にいないというような雰囲気でもない。だが、目を引かれた。
それと同時に、女の周囲にたゆたっていた闇の精霊が逃げるように、此方に走ってきた。キールに時々見える、小さな闇の欠片達が、何かに怯えるように女から逃げている。そして自分を知覚しているキールの影へ、縋るように逃げ込んだ。
そして、閃光。
目を焼かれるかと思うほどの、眩しい光があたりを覆い尽くした。
白く染まった世界ですぐに視界を取り戻すことが出来たのは、ひとえに闇の精霊のおかげだろう。キールに魔力はない。よって彼らの力を借りることも使うこともできない。だが、知覚できるおかげか、その小さな加護を受けることはできる。それ故に、彼らが強すぎる光を中和してくれたのだろう。
瞬時に光の出所へと目をやると、先ほどの女が平然とした様子で、ひったくりの男に足を引っかけていた。無様に転んだ男から高価そうな鞄を奪い、キールの前を通り抜けると、老婦人へなにやら丁寧に話しかけた。
どうやら、先ほどの光は彼女の力によるものらしい。その所為か、キールの影へ逃げ込んだ闇の精霊が、少しばかり怯えた様子で逃げていった。今度は路地の影にでも逃げ込むつもりのようだった。
そんな愛らしい精霊を見送り、視線を女に向けると、彼女は老婦人の元から立ち去ろうとしていた。
高価そうな鞄は、婦人の手の中にしっかりと収まっていた。
眩しいと思った。純粋に。
彼女とは夕暮れの中で、再会することとなった。最も初対面に代わりはないのだが。
そのときも、闇の精霊が逃げ込んできた。夕闇が迫り、彼らの時間がやってくるというのに、それでも精霊達は怯えていた。目の前の強すぎる力をもつ存在に。
頭に被っていた布がとれ、今度はしっかりと顔を見ることができた。予想通り、美しい若い女だった。切れ長気味の大きな瞳は、鮮血のような美しい紅だった。それが夕日を浴びて、爛々と輝いている。
眩しかった。
夕闇の中にいてさえ眩しい。己の中の光を失わない。夜の中にいてさえ、きっとこの女は光の精霊を味方につけるのだろう。
それ故だろう。
眩しいと思った。焦がれるほどに。
最初に出会ったのは、街角だった。いや、見かけたと言った方が正しい。
働き盛りの若者が、少しばかり道を外せば優秀なひったくりになる。今日もそんな男が一人の老婦人から荷物をひったくって走っていくのを、キールは静かに見つめていた。その光景に、彼の興味はない。
ただ、ぼんやりと男の行く手を見つめ、その先に一人の女を見つけ、彼は視点を止めた。
若い女だった。年は二十代と十代の境目といったあたりだろう。比較的背が高くて、すらりとしている。全体的に細いが、弱々しい印象は受けない。頭から布を被っているため、目元はよく見えないが、綺麗な顔立ちをしていることは安易に予想が付いた。
特に変わったところがあるわけでもない。何処にでもいるとは言い難いが、滅多にいないというような雰囲気でもない。だが、目を引かれた。
それと同時に、女の周囲にたゆたっていた闇の精霊が逃げるように、此方に走ってきた。キールに時々見える、小さな闇の欠片達が、何かに怯えるように女から逃げている。そして自分を知覚しているキールの影へ、縋るように逃げ込んだ。
そして、閃光。
目を焼かれるかと思うほどの、眩しい光があたりを覆い尽くした。
白く染まった世界ですぐに視界を取り戻すことが出来たのは、ひとえに闇の精霊のおかげだろう。キールに魔力はない。よって彼らの力を借りることも使うこともできない。だが、知覚できるおかげか、その小さな加護を受けることはできる。それ故に、彼らが強すぎる光を中和してくれたのだろう。
瞬時に光の出所へと目をやると、先ほどの女が平然とした様子で、ひったくりの男に足を引っかけていた。無様に転んだ男から高価そうな鞄を奪い、キールの前を通り抜けると、老婦人へなにやら丁寧に話しかけた。
どうやら、先ほどの光は彼女の力によるものらしい。その所為か、キールの影へ逃げ込んだ闇の精霊が、少しばかり怯えた様子で逃げていった。今度は路地の影にでも逃げ込むつもりのようだった。
そんな愛らしい精霊を見送り、視線を女に向けると、彼女は老婦人の元から立ち去ろうとしていた。
高価そうな鞄は、婦人の手の中にしっかりと収まっていた。
眩しいと思った。純粋に。
彼女とは夕暮れの中で、再会することとなった。最も初対面に代わりはないのだが。
そのときも、闇の精霊が逃げ込んできた。夕闇が迫り、彼らの時間がやってくるというのに、それでも精霊達は怯えていた。目の前の強すぎる力をもつ存在に。
頭に被っていた布がとれ、今度はしっかりと顔を見ることができた。予想通り、美しい若い女だった。切れ長気味の大きな瞳は、鮮血のような美しい紅だった。それが夕日を浴びて、爛々と輝いている。
眩しかった。
夕闇の中にいてさえ眩しい。己の中の光を失わない。夜の中にいてさえ、きっとこの女は光の精霊を味方につけるのだろう。
それ故だろう。
眩しいと思った。焦がれるほどに。