2006年2月12日 その他連作
 ずっと昔、彼氏と喧嘩をした。
 少し、否、かなり攻撃的だった彼は、苛立つとすぐに暴力を奮った。それ以外に、思いを伝える手段を知らないような、子供の地団駄によく似た力は、いつも私を殴りつけ、押さえつける。愚かだと思い、自分の痛みに怒りを覚えながらも、その愚かさに情を絆されていたのだ、私は。
 怒りを覚えなかったと、また別れようと思わなかったと言えば、それは嘘になる。けれど、ぐったりした私には、そんなことを考えたり、衝動的な激情を持つ体力がなかっただけなのだ。
 だが、喧嘩と言っても、よく考えてみれば、私は彼を殴ったことなど、一度しかない。
 最後の時だ。

 喧嘩の理由はいつも同じようなものだった。浮気疑惑だったり、ただの八つ当たりだったり、その程度のものだ。くだらないにも程がある。それほど彼は子供だった。愚かだった。
 その時も同じようなことが起きていた。彼の部屋で、理由は未だに思い出せないけれど、彼が何か怒鳴っていたことは覚えている。
 彼が私の肩を強く押した。
 私は体の規律を失い、転びながら棚にぶつかった。
 棚の上にあった、空の花瓶が落ちた。高い破裂音。世界が壊れる音を聞いた気がした。
 静まりかえった部屋。

 鮮血。

 私、知ってる。
 別に彼は、私を殺そうとした訳じゃない。
 それが自分では律することのできない、ただの衝動だったってことを知ってる。
 痛かったけど、驚いただけだった。
 痛かったけど、全然痛くなかった。
 痛いよりもずっと、寂しかった。
 それだけだった。

 私の二の腕を傷つけた陶器の破片は、彼の手からぽとりと落ちた。
 先ほどまで、強い力で私を律しようとしていたあの腕は、きっともう私に触れることさえできないのだろう。
 子供はオモチャが壊れることを知らない。壊れた後に、自分がどれだけ悲しくなるか知らない。だから迷わず傷つけられるのだ。彼もそれと同じだった。傷を負った私に、彼はもう触れられない。もう二度と、睨め付けることも、怒鳴りつけることも、殴ることも、押し倒すことも、抱きしめることも、口付けることもできない。
 だからもう、終わったのだ。
 傷ついた左腕を撫で、私は立ち上がった。
 血の匂いに、頭がくらくらした。初めて献血をした時より、ずっともっとくらくらした。血が足りない。けれどもっと、何かが足りない。
 動くこともできない彼に近寄り、蒼白なその顔を、全力で叩いた。
 彼の左頬が赤く染まったことに、少しだけ満足した。これでいい。
 さよなら。
 そして私たちは終わった。

 二の腕に残った傷跡を、私はいつも撫でる。
 そうして、彼の痛みを思いだし、私の痛みを思い出し、泣かないかわりに爪を立てるのだ。
 冷えた指を伸ばすと、熱を帯びた指先が絡んできた。火傷しそうだと思った。あまりに熱くて、痛かった。包まれているのに、結ばれているようで、解くことさえ出来なかった。
 どれが自分の指かわからなくなるくらい、きつく絡めてくれれば良いのに、触れあうだけの指は、やっぱり冷たいままで、熱に触れては震え上がった。
 いつか殺される。
 無性にそう感じた。

 熱い指先が素肌に触れてくる。
 ぞくぞくとした快感の下には、いつだって寒気が潜んでいる。ひやりとした冷気が心を撫でまわし、これは違うよと余計なことばかり教えてくれる。
 これは彼じゃないよ。
 この指はあの人のものじゃないんだよ。
 ――そんなこと、知ってる。

 愛してなかった。
 恋心さえ抱いていなかった。
 それでも欲しかった。憎んで欲しかった。跡を付けて欲しかった。
 残された傷跡を、いつも冷えた指先でなぞっては、あの日の痛みを思い出す。
 サキちゃん。
 もう、自分を痛めつけるのはやめなよ。
 本当はわかっているクセに。
 噛み付いたって、斬りつけたって、そこには微かな跡が一瞬残るだけ。本当は何も残さない。冷たい記録が存在するだけ。
 だからもう、諦めなよ。
 あなたが愛した痛みも、あなたが望んだ痛みも、あなたを助けてくれる痛みも、もう本当は存在しないんだから。

 あたしだっておんなじ。
 どれだけ自分を慰めてあげても、結局何一つ作り出せない。残せない。
 気まずいくらいの快感と、届きそうで届かない頂点を目指してるだけ。まるでブランコに揺られるみたいに。
 体の奥底をそっと撫で上げたって同じ。
 何一つ、何一つ、変わらない。

 あたしたち、ちょっと間違っちゃったよね。
 だけどもう、やめようよ。
 あたしたち、本当は同じことを他人に求めてるんだって、あたし知ってるもん。
 自分でやるんじゃなくて、誰かにやってもらいたかった。
 それで愛してもらいたかった。
 恋だって構わなかった。
 それだけだった。

 だから、ね?
 もう、やめよう。
 咲紀は、昔の男に付けられた傷が忘れられないんだって。
 痛くて痛くて痛くて痛くて、でもどうしようもないほどに愛しくて。
 泣いても届かないくらいに恋しかったから、今でもその傷跡をなぞっては噛み付いてる。
 馬鹿な子だよね。
 あの子が愛した痛みは、もうどこにもないのに。

 奈美は今でも、最初に犯された記憶を引き摺っている。
 気持ち悪くて吐き気がして最悪な気分で、それでも体の奥が疼くいたから。
 笑うしかないくらいに世界を壊したくせいに、今でもその快感を思い出そうとしてる。
 馬鹿な子だよね。
 あの子が求めた気持ちは、もうどこにもないのに。

 私達が欲しかったのは、愛でも恋でも気持ちでもなかった。
 ただ、可哀想な私達を、助けてくれる指先。
 結局のところ、とお好み焼きにコテを突き刺しながら、奈美は言った。
「あたしたちって、自分を殺そうとしてるんだよね」
 その台詞だって、焼けたかなぁと鼻歌交じりの言葉とは、とてもじゃないけど思えない。それよりも、目の前に座ってる友達の鼻歌よりも、周りの席の喧噪の方が大きく聞こえる、お好み焼き屋での会話じゃない。だけど奈美はこういう子だ。
 鉄板の横に陳列されたおたふくソースと青のり、鰹節を楽しそうに生地に乗せている。彼女にとっては、今のこの行動が主たるものなのだ。意味深かつ、薄っぺらい会話なんて、ただのおまけでしかない。
 じゅわっという音とともに、鉄板に落ちたソースが焼けこげた。
 香ばしい匂いが広がり、奈美は頬を緩ませた。
 けれど視線はいつまでたってもお好み焼き。
「そう? 私はともかく、奈美は違うと思うけど」
 相槌を打ちながら、もう一本のコテを手に取る。奈美は分厚いお好み焼きの切り分けに苦労していたが、私の言葉に、おっと呟いて顔を上げた。
 やっと彼女の目が私を見た。
「そりゃぁ、サキちゃんの勘違いって奴だよ」
 二重の大きな目は、奈美がいつだって私に自慢するものだ。彼女はその目を心外だと言わんばかりに見開き、おどけるように肩を竦めて見せた。
「んなことないでしょうよ」
「ありますー」
 奈美が切りかけたお好み焼きは、私の手によって完璧に二つに分けられた。なんとなく、手前のが大きい気がしたけど、それは黙っておくことにした。奈美はそんなことは一々気にしない。
「あのねぇ、サキちゃん。一回試してごらんよ。や、そこまで嫌な顔しなくても」
 奈美の言葉を途中まで聞いたところで、内容の予想がついた私は、露骨に嫌そうな顔をしていたに違いない。別に意識はしていないけど、やりたくないものはやりたくない。
「ぜーったい、嫌」
「あたしはサキちゃんの方が、やりたくないけどねぇ」
 予想通り、こだわりなく、自分の方のお好み焼きに手を出した奈美は、ちらりと私の目を見てから、マヨネーズを手に取った。
「ま、それはおいといて。一回やってみりゃ、多分わかりやすいよ。ホントにね。終わったあとの、何にも残らない感じとか」
 よく分からないことを言いながら、マヨネーズをたっぷり、それからもう一度ソースを重ね、できたと奈美は笑った。この子はカロリーと塩分濃度の高そうな食べ物が大好きだ。きっと将来は体をこわすんだろう。
「何言われたって、絶対やりたくない」
「欲求不満になったりしなーい?」
「ならん」
「ストイックー」
 ひゅうっと口笛の失敗のような音を出し、奈美はお好み焼きにかぶりついた。
「奈美ってさぁ、なんで性欲だけ旺盛なの?」
 ずばり聞こうじゃないか。
「三大欲求に忠実なだけ。本能に従ってる間って、何もいらないじゃん。だからじゃない?」
 そういってから、本能のままに餌を貪る奈美を、私はなで回したい衝動に駆られた。
「でもねぇ、サキちゃんのが見た目ヤバイよね」
「何、見た目って」
「人が聞いたとき、どんくらい引くか」
「…………」
「自傷行為なんて、今時はやんないっしょ」
 流行り廃りでやってるもんじゃないっつーに。
「奈美のだって、ふつー引くよ」
「そーぉ? 男の子とか普通にやってそうじゃん」
「あんた女だし。迂闊に右手が恋人とか言わないでよ」
「ハイハイ」

 本能のまま生きようとして、道に迷った奈美。
 本能を忘れて、何でも良いから自分に印を付けたい私。
 慰め合って、かばい合って、道が見つかれば良いのに。
 甘えだなんて、知ってるけど。
 今日は大好きな人にプレゼントをあげる日なんだよ。
 そう教えてくれたのは、孤児院の院長先生だった。それから先生は、私の可愛い子供達へと言いながら、小さなチョコレートを一つずつ配ってくれた。それからきゃらきゃらと歓声をあげる子供達を、一人ずつ抱きしめてくれた。
 そんなことをふと思い出したのは、微睡んでいたソファの上の日溜まりが、院長先生のように温かかったからかもしれない。先生はふくよかなおばさまで、いつも大きな声で笑う人だった。
 大好きな人へ。
 懐かしい私の家族達、ともに成長した仲間達、育ててくれた人、世界を教えてくれた人、ある日突然現れた本当の家族、そして誰よりも好きな人。
 そのすべての人達に、愛を伝えたいと思った。

 けれど今日中に会える人は、哀しいことに限られている。
 というよりも、誰も彼もどこに暮らしているのか定かではない。確かなのは二人だけ。あとは院長先生がおそらく孤児院にいるだろうということ。
 街を歩きながら、つと寂しい気分になり、思わず頬を膨らますと、すれ違った人が微かに笑ったのが分かった。どうしても、未だに子供っぽい仕草が抜けない。その理由は分かり切っているのだけれど、あまりに心地よいから、抜け出したくないというのもまた事実。
 顔馴染みのお菓子屋さんは、いつも以上に繁盛していた。忙しげに動き回る店員に挨拶をし、一番人気らしいチョコレートを二つ購入した。店内は甘い香りが充満していて、きっと甘いものが苦手な人は入ることすら叶わないだろう。可哀想な人たち。
 こんなに美味しいのに、美味しいと思えないなんて。

 うきうきと楽しい気持ちで、夕焼けの中、家へと帰った。柔らかい明かりが灯る家へ、引き寄せられるように。
 ただいまと声を上げると、奥から旦那様が顔を覗かせた。
「お帰り、奥さん」
 旦那様はいつもの優しい声で言ってくれる。これはずっと昔から変わらない。彼の中で、私はいつまでたっても甘やかす対象なのだろう。出会った時、私があまりにも子供だったから。
 けれどやっぱり居心地が良すぎて、私はその中で溺れてしまう。これでも昔よりは、ずっと大人扱いされているのだし。
 ハッピーバレンタインと言いながら、お菓子を渡すと、彼は少し驚いた顔をした。
 それから、ありがとうと囁いて、私のこめかみに優しいキスをくれた。

 どうしてお菓子が二つあるのか、と聞かれた。
 一つは私の分と答えたら、旦那様に仕方のない子だと笑われた。
 その笑いを見て、来年は一つだけ買おうと、私は心に誓ったのでした。
 体中の感覚が麻痺している。
 ただ、体の奥がやけに熱くて、それなのに表面からどんどん熱が消えていく。そうして、それはもう二度と戻らないということだけが、何故かはっきりと理解できた。
 耳鳴りが酷く、何も聞こえない。雑音ばかりが響いて、すべてが遠く感じられる。
 重苦しい瞼を無理矢理引き上げても、そこに広がる景色は滲んでいる。
 おそらく広がっているであろう空を見上げ、その灰色の視界を閉じようとした時、頬にそっと何かが触れた。
 手の平だと瞬時に理解できたことが、彼には何よりも不思議だった。
 体中の感覚が消えてしまったというのに、頬だけが鋭敏になったかのようだった。柔らかいというには、少しばかり荒れた指先が、そっと頬をなで上げていく。それだけが、予想ではなく、事実として自分の中に流れ込んできたのだ。

 「馬鹿ね」
 唐突に、耳鳴りがやんだ気がした。
 変わりに聞こえてきたのは、細い女の声だった。彼が求めてやまない声だった。遠い日に聞いて以来、何度となく思い描いた声だった。
 細く、凛としているようで、張りつめた儚さがある声。
 何年も聞いていなかったというのに、その声の主を彼は一瞬で理解することができた。そしてそれと同時に、その事実が信じられなかった。その思いから微かに首を振る。
「どうしてここにいるの」
 声の主は哀しげに彼を詰った。
 それから言葉とは裏腹に、優しく彼の頬を撫で、どうしてとまた呟いた。
 重い瞼を引き摺るように、何度か瞬きを繰り返すと、灰色の視界に微かに色が戻った。景色はやはり滲んだままだったけれど、声の主の姿を確かめるには十分だった。
 そして彼は、ああと微かに呻いた。
 思い焦がれた彼女がそこにいた。別れてからどれくらいの月日がたったのか、今の頭では計算することができない。その間に彼は多少変わった。そして彼女も少しばかり変わっていた。
 まだ幼さを残していた風貌。それでいて大人びた眼差しをもっていた彼女からは、幼さだけが綺麗にそぎ落とされていた。そこには哀しいほどの静謐さがあった。
 けれどその瞳だけは変わっていなかった。
 どことなく寂しげで、何かを置いてきてしまったかのような眼差し。そんな影が奥底に潜む目だった。

 そんなことを思っていると、彼の頬にぽつりと何かが落ちた。まだ鋭敏な感覚を保持している頬だけが、その正体を知っていた。
 もう一度どうしてと呟く彼女に対し、彼は君に会いたかったんだと掠れた声で囁いた。
 美岬先輩には、屋上がよく似合う。

 紅く染めた髪が、風にばたばたとはためいて、空へ昇ろうとする。美岬先輩はその髪をじゃまくさそうに抑えながら、空を仰いだ。
「青いなぁ」
「……そうですね」
 空は快晴。
 どう返事をして良いか分からず、私は適当に相槌を打った。
「オマエ、返事適当すぎ」
 そう言って、先輩はけらけらと楽しそうに笑い声を上げた。別に怒ってる訳ではない。

 空は青く、美岬先輩はどこまでも紅い。
 その相反する色は、どうしたって目に焼き付いてしまい、決して離れようとしてくれないのだ。
「夏草や」
「……兵どもが、夢の跡?」
「大正解ー!」
 ぽつりと呟いた言葉に、続けて有名な俳句を詠むと、先輩は嬉しそうに大声を張り上げた。空に向かって。
「夏が終わるよ」
「……そうですね」
「みんなみんな、死んで終わるけど、だけど誰も死んじゃいない」
 そうだろう、と首を傾げられても、私は答える術など持てないのだ。

 けれど空は青く、先輩は紅く、混ざり合わない二色の色が、世界を美しく彩っていた。

『願望』

2004年8月18日 その他連作
 女の子になりたかった。

 色の白い肌。
 柔らかい身体。
 しなやかに伸びた真っ直ぐな四肢。
 長い睫の下の大きな瞳。

 エナメルに彩られた長い爪で、カラフルにペイントされた携帯電話をつつく指先。
 こぼれ落ちそうな瑞々しい唇と真っ直ぐな細い眉。
 無駄話と噂話と買い物で、何日だってつぶせてしまうあの感覚。

 なんの違和感もなく、男の首に絡めることができる細い腕。
 あの腕が。

 とても羨ましかった。
 別れたら、きっともう二度と会えない。そんな気がして、約束をせがんだ。
 彼女は困った顔で笑い、どうしようかと迷っているようだった。
「もう会いたくない?」
 ずるい問いだ。そう思いながら尋ねると、やっぱり彼女は同じように笑って、ゆるりと首を振った。
「嘘つきになりたくないだけ」
 本当にそれだけ。続いた言葉は、溜息の裏に隠しきれない、彼女自身の本当の気持ちなのだろう。
「私は何も言わなかったの。いつも。嘘を言わない代わりに、本当のことも言わなかった。約束は、いつだって破ってしまうから」
 ゴメンね。
 小さく謝ったあと、彼女は押し黙り、俯いた。

 そして。
「またね」
 本当に小さな声で、そう呟き、躊躇うことなく踵を返していってしまった。
 葉月は、ただ、その綺麗な後ろ姿を見送った。
 少し仕事をこなして、また様子を見に行くと、ユーリは身体を起こして窓の外を見ていた。
 その綺麗な横顔を見て、少し彼女の年齢が分からなくなった。最初、葉月は自分と同じくらいだと思っていたが、それはユーリが眠っていて、幼く見えただけなのかもしれない。
 起きているときの彼女は、どことなく張りつめた雰囲気がある。凛としているような、それでいて少しの衝撃で途切れてしまいそうな。
 そんなことを思いながら、足音を立てて近づくと、ユーリが音もなく振り向いた。この人は、とても静かだ。動きのひとつひとつが。そう感じた。

 それからとりとめのない話をした。
 彼女は矢張り少し年上のようだった。けれど、本人も年齢がよく分かっていないらしい。数えるのを十八の時にやめてしまったのだそうだ。
 そうして、今は冒険者をしていたり、傭兵まがいのことをしたり、何となく暮らしているらしい。
「ユーリは一人で冒険をしてるの?」
 一人旅はあまり良い物ではない。得る物は多いかも知れないが、行ける場所が限られてしまうし、命がけになってしまう。それならば矢張り仲間と旅をした方が良いと葉月は思う。その方が楽しいし、嬉しいこともたくさんあるから。
「そう、一人」
「仲間は?」
「いないわ。今はね」
「じゃあ、昔は?」
 そう尋ねると、ユーリが微かに笑った。それは小さいけれど、とても優しい笑みだった。それがきっと大事なものなのだろうと、出会ったばかりの葉月でさえ察せるほどに。
「昔はね、四人で旅をしてたの。何でも出来たし、何処にでも行けた。負けることなんてほとんどなくて、本当に楽しかった…」
 だから他に仲間はいらないの。
 そう言葉を締め、ユーリはまた小さく笑った。今度は優しいけれど、少し傷のある笑い方だと思った。
「その人達はどうしたの?」
「故郷へ帰ったの。もう二度と会えない場所へ」
「ユーリの故郷は?」
「……私だけ、残ったの」
 ユーリは悪戯っぽく笑って見せたけれど、その影に小さな後ろめたさがあるのを、葉月は見逃さなかった。きっと彼女自身、自覚していないような、小さな傷が矢張りどこかに残っているのだろう。
「もう会えないの。だから、良いの」
 何が良いのか、それは告げずに、彼女はまたぼんやりと窓の外を見つめた。
 その視線を追いながら、葉月はどこか縋るように質問を投げかけていた。
「――寂しくない?」
 ユーリは少し驚いた顔をして、振り返った。微かに見開いた瞳が、小さく揺れた。
「ううん、全然」
 だって、と彼女は続けた。
「今が一人だからって、過去の私も一人になるわけじゃないでしょう?」

 ユーリは嘘つきだと思った。
 けれど、その半分は本当で、ただ葉月は過去が一人でなくても、矢張り今が一人であれば寂しさを感じてしまうから。
 この儚い人を、少し羨ましいと思った。

『迷子』

2004年6月15日 その他連作
 気がつくと知らない場所にいた。

 古ぼけた灰色の天井をぼんやりと眺め、彼女はゆっくりと瞬きを繰り返した。ここはどこなのだろう。
 ぼんやりと記憶が途切れる前のことを思い出し、そう言えば怪我を負って意識を失ったのだと、やっと彼女は気がついた。それほど深い傷ではなかったが、数が多すぎた。血液が足りなくなって、頭がふらふらしたことは覚えている。
 それからその傷が癒えていることにも気がついた。
 まだ全身に痛みは残っているが、大騒ぎするほどのものでもないし、出血はすでに止まっているようだった。身体の至る所に包帯が巻かれていて、誰かが手当てしてくれたことを気づいた。目が覚めてから、30分くらい経過した頃だった。

 どたどたという足音に視線を向けると、大きな目の少年がいた。銀色の髪と金色の目という、なんとも派手な容姿をしているが、雰囲気がとても可愛らしい子だと思った。
「気がついた? 平気? 痛くない?」
 矢継ぎ早に質問を投げかける声は、変声期を忘れたように澄んでいた。ひょっとしたら女の子なのかもしれない。大きな金色の目をまじまじと見つめながらそんなことを彼女は考えた。
「――痛くないし、平気。助けてくれたの?」
 久しぶりに出した声は、少し掠れていて、とても細かった。頼りない上に、弱々しい声だと思った。自分でも嫌になるくらいに。
「良かった。あ、えーと、僕はハヅキね」
 心底嬉しそうに笑いながら、彼は自分の名を名乗った。ハヅキ。懐かしい言葉だと思った。それは彼女の故郷の、ずっと昔の言葉だ。夏の一時期を表す言葉。
 そう思うと、声が自然と零れていた。
「ユーリよ。ありがとう」
 それから彼女は、また眠気に身を任せることにした。故郷のことを懐かしむと、とても切ない気持ちになるから。

 だから眠ることにした。
 怪我人を拾った。

 大して強くもない自分でも、あっさり勝てるような楽な場所へ冒険へ行った帰り、葉月は倒れている少女を見つけ慌てた。
 楽勝を前提に出掛けている自分とは違い、本当に命がけで危険な場所へ赴く人もいる。そのうちの一人なのだろう。辺りに仲間らしき人も見当たらない。
 そうと分かればますます放っておけなくなり、癒しの魔法をかけてから応急手当をした。葉月は魔法が得意ではない。だからどうしたって、大した効果がでない。元々の魔力が強くないのだ。
 そうして大して大柄でもない自分よりも、更に小柄な少女を背負って家に帰った。

 疲れながら家に帰って、ベッドに少女を寝かせた。
 水を汲んでタオルを濡らし、汚れていた顔や腕を拭いて、それからもう一度癒しの魔法をかけた。やっぱりあまり効果は出なかったけれど、出血は完全に収まったようだった。
 ほっと安堵の溜息を吐き、葉月自身もベッドに寄りかかり、軽く目を閉じた。なんだかとても疲れた気がした。体力には自信があった筈なのだけれど。

 それはきっと、傷ついて倒れた少女の小さな背中が、何かに重なって見えたからなのだと、夢の中で葉月は気がついた。
私は平気。強いから。

一緒に行けたら、良いですよね。

一人じゃない。そう、僕は信じてる。

寂しいのは、誰だって嫌でしょう。

隣に誰かいると、それだけで嬉しい。

あたしは寂しくなんて、ないから。

会いたいな。ただ、それだけ。

懐かしいけど、触れられないから、思い出すわ。
 一時、私は神だったのよ。
 この世界を作り上げる三柱の内の、一柱。何でも出来たし、何でも思いのままに操ることができた。けど、私という意志はどこにもなかったから、何かをしたいと思うことも、あんまりなかった。
 大体、神だっていったって、民衆がいなきゃ、生きていけない。私も同じで、おかしな行動をとれないように、がんじがらめに縛られてた。嫌になっちゃう。
 けど、私は神よ?
 そんなものに縛られる訳ないでしょう。私の名前は縛られない物。囚われない物。

 こっそり隠れて、他の二柱と連絡を取るくらい朝飯前。
 そうやって、私たちは一つの計画を練った。この世界を毀す計画を。

 神様の気まぐれだなんて言わないでね。
 私たちはいつだって真剣だった。いつだって真剣に、真面目に、この世界を毀したいって思ってた。
 砂の城を造り直したい、なんてことは言わない。毀したかった。完膚無きまでに毀して毀して毀したかった。そうして、神という立場から解放されたかったし、民衆を解放してあげたかった。

 計画は成功した。当然ね。神に人は逆らえない。頑張って抵抗してたみたいだけど、私達が三人揃えば、何にだってなれるし、何にだって負けない。そう、教えられたもの。人間だった頃に。
 ああ、神の前は、人間だったの。もう、ほとんど覚えていないけど。懐かしいな。
 話が逸れたね。
 私達は世界を毀した。管理者とか、そういう立場をぶち壊した。特権階級をかさにする、あの馬鹿げた誰かの心を殺すために。

 でも、世界が壊れたら私達も生きていけない。まぁ、元々生きてなんかいなかったけど。
 だからね、さよなら。
 最後に話ができてよかった。なんだか、こういうラストって人間みたいで、良いと思わない?
 私は思うよ、すごくね……。
 心臓に銀色の刃が突き刺さった。
 ああ、終わるな。直感的にそう思い、目を閉じた。純銀でできた刃で心臓を貫かれれば、さすがの吸血鬼も生きてはいけない。それくらいは、なんとなくわかる。
 痛みは感じなかった。
 元々、痛覚自体はあるのだが、それを苦痛として感じない性質なのだ。痛い、だけどそれがどうした。自然にそう思ってしまうのだ。
 だから辛いとか、苦しいとか、そんな感覚は湧かなかった。
 ただ、息苦しいとだけ思った。

 目を開けると、今にも死にそうな顔をした彼女がいた。
 彼女は無傷の筈なのだ。何故なら、とっさに自分が庇ってしまったのだから。何も考えず、ただ動いてしまった。
 けれど後悔はしていなかった。
 これで終わりか。そう思ったけれど、それはどこか安らかな感情だった。

 そんな自分とは逆に、彼女はとてつもなく悲壮な顔つきで、何かを叫んでいた。泣いているような、とてつもなく痛がっているような、そんな声が聞こえる。
 何か言おうかと思ったが、喉の奥から血が迫り上がってきていて、上手く喋れなかった。
 だから笑って見せた。

 彼女は。
 彼女は、動きを止めて、沈黙した。そしてその後、静かに詰った。

 悪くない。
 その言葉を聴きながら、ふと思った。
 そしてそのまま、彼は息絶えた。
 あたしがあいつに抱いた感情って言うのは、とても複雑なものだった。
 慈しみと、蔑みと、殺意と憎悪、それでもって明らかな悪意と、これ以上もないほどの愛しさ。
 心底、括り殺したいと思った。
 けど、それと同じところで守りたいと思う。抱きしめて、温もりを与えてやりたいと思う。その傷を、なんとか癒してやりたいと思う。

 そう、あたしはずっとあいつを殺したかった。
 殺したくて殺したくて殺したくて、仕方がなかった。見ていて苛々するし、生きていて世界の害にしかならないような奴。本当に存在そのものが嫌いだった。
 それなのに、どうやったって生きていて欲しかった。この命を上げたって良いから、だからあいつには生き延びて欲しかった。生きていれば、何とかなるからって思ってた。
 不思議だね。

 あいつはあたしの気持ちを知っていた。
 それなのに、燃えたぎるような憎悪を見せても、凍えるような鋭い殺意を向けても、何も言わないんだ。抱きしめたって、何も見ない。
 無垢なままあたしを頼りにして、無知なままあたしを信じて、無為なまでに愚かだった。
 でもね、きっと、あいつはあたしのことを信じてなんかいなかった。頼ってなんかいなかった。本当はあたしが一番愚かだった。
 あたしは心の底で、そのことを知っていた。本当は気づいてた。ただ、見えないフリをしていただけで。

 だから殺したかった。
 本当はずっと殺したかった。殺してやりたかった。殺して殺して殺して殺して殺して殺してやりたかった。ズタズタに引き裂いて、ボロボロにしてやりたかった。

 あいつね、泣かないの。泣けないの。出来損ないなの。
 だからさ、あたしがいなくても生きていけるんだ。だって、孤独を孤独を感じないんだから。独りを寂しいと思わないし、痛みを触覚で感じようとしない。麻痺しちゃってるんだよね。その上、別に生きたいと思ってない。だから、死にたいとも思ってない。
 だから、本当は守る必要なんてなかった。殺す必要もないんだ。あいつは、独りで存在してるんだから。心に壁があるとか、そんなんじゃない。あいつはあたしを認識していない。
 泣かないんだ。泣けないんだ。痛みもなけりゃ、つらさも苦しさも、寂しさも悲しさもない。そんな世界、想像できる? できるわけがない。
 だから、殺したかった。

 そうだよ、あたしはずっと殺したかったんだ。認めるよ、気づかないふりはもう終わりだ。お終い。最後。
 だから、殺せばよかった。それで、あたしも死ねば良かった……。

 あいつさ、最後、笑ったんだ。泣けない癖に、作り笑いばっかり上手くてさ。だからあの笑顔の意味が、あたしにはまだわからない。泣かない癖に。泣けない癖に。笑いやがって。
 それで死んだ。でもこれって正しくないね。あいつは元々生きてなかったんだから。生きてない存在は、死ねない。そうだろ?
 なのに、あいつはもういない。
 今なら言えるのに。言いたいことが山ほどあるのに。大好きだって。生きて欲しいって。生きるのが嫌なら殺してやるから、だからちゃんと生きてくれって。
 ……おかしいかな。
 殺すつもりだったのに、他人に殺されたとなると、悲しくて悲しくて仕方ないんだ。本当に悔しくて、悲しくて、寂しくて涙が出てくる。

 おかしいよね?
 でもね、本当に好きだった。泣かない強さと、泣けない弱さと、欠けた心と、生きない身体が。
 本当に好きだった。本当に本当に、大好きだった。
 吸血鬼という種は、しぶとい癖に儚いものだと、彼自身は思っている。

 例えば、太陽の光を浴びれば灰になるという伝承は確かだ。昼間は活動をする気すら起きない。できることなら、暗闇の中で惰眠を貪っていたいと思う。
 けれど、だからといって、日の元にでられない訳でもないのだ。太陽光を浴びた吸血鬼は、一瞬にして灰にはならない。体力を奪われ、全身に怠さを感じる。その後に、じわじわと髪や爪、皮膚などから少しずつ渇いて、崩れていく。そして風の中に少量の灰が散っていくのだ。昼の間、ずっと日に晒されていれば、さすがに全身の皮膚が火傷を負ったうになってしまう。
 その欠けた部分は、夜になって人間の血液を食べれば、それで元に戻る。太陽の光は、吸血鬼にその程度の傷を与えることしかできないのだ。
 だが、吸血鬼がたったそれだけ、太陽の下にいるというだけで、傷を負うということもまた、事実なのだ。
 昼であろうと、夜であろうと、太陽の下でも、月の下でも生きていける、他の動植物と比べ、なんと弱いことだろう。
 また、吸血鬼は孤独を好む。というよりも、隣に誰もおくことができない。彼らの側にいられるのは、使い魔だけだ。何故なら、それらは明らかに彼らのためだけに存在するものだからだ。
 例え同族と会おうとも、その存在に対して感情を持つことはあまりない。会話も交わさずに素通りする。時たま、実力を過信した同族に襲われることはあるが、そう言った手合いは何故か皆弱い。強くあろうとする心は、素直に良い物だと思う。だが、実力が伴っていない輩は、ただ愚かな存在にしか見えない。
 そうやって、常に独りで生き続けるのが、吸血鬼の宿命なのだ。僅かではあれ、寂しさや悲しみを感じてはならない。人間の――家族や恋人、あるいは友人のいる生活を羨んでは、望んではいけない。
 人間の存在は、彼らにとってはただの食料でなければならないのだ。それ以上の感情は、自身を滅ぼすだけだと、吸血鬼達は生まれたときから知っている。
 孤独でなければ生きられないのだから。
 吸血鬼と並んで生きることのできるものなど、存在しないのだから。

 夕闇の中、さくさくと草を踏みながら、彼は墓場を歩いていた。薄ぼやけた銀色の月光が、黒に近い紫の髪を照らしている。
 別に目的があって来たわけではない。足の向くままに歩いていた。そして気づけば、そこには山のように墓標が並んでいたと言うだけのことだ。
 字面に並べられた石碑の側を、ゆっくりと彼は歩いた。その石に彫られた文字が読めるほどに、ゆっくりと、静かに。

「安らかに眠れ、か…」

 どの石碑にも似たような言葉が彫られている。その中の一つを彼は読み上げた。それは風のざわめき以外に音のしない墓場に、静かに響き渡った。
 その言葉をかみ砕くように、もう一度頭の中で反芻し。彼は静かに苦笑した。安らかに、これほど自分たちに似合わない言葉もないだろう、と。
 孤独の中に生き、死ねば灰となる吸血鬼に、墓などない。作ってくれる存在がいないのだから、当たり前のことだ。そうして、自分の存在を覚えていてくれるものもいなければ、その安寧を祈ってくれるものもいないだろう。吸血鬼は、そういう存在なのだ。
 そんなことを考えた自分を、彼は軽く嘲笑った。くだらない。これではまるで、自分が孤独を悲しんでいるようではないか。
 彼は孤独の存在を認めない。人間も、本来は独りで生きれる生き物だと、そう信じている。それは吸血鬼にとって、孤独というものがある種の禁忌であるからだ。
 孤独を感じた同族達は、何故か皆死んでしまう。泣きながら太陽を求め、光に何かを探しながら、狂気のまま灰になってしまうのだ。不思議なことに。
 死んでしまった同族達が、何を求めたのか、わからないわけではない。彼らは永遠を恐れたのだ。たった独りで生き続けることに、恐怖を抱き、不安を膨らませてしまったのだろう。予想は簡単についてしまう。ただ、理解できないだけだ。それほどまでに、孤独というものは辛いのだろうか、と。
 永遠への恐怖はわからなくはない。いずれ、自分も生きることに飽きるだろうと、彼は考えている。それと同時に、彼は祈っていたのだ。信じてもいない、まるで種族の敵のように崇められている、神を。
 いずれ、自分を殺してくれと。
 けれど彼は知っている。神は存在しないと。だから今はもう、その小さな祈りさえ、彼の心からは消え去りつつある。何故なら、そんなものは抱え続ければ続けるほど、虚しさのみを増殖させるからだ。
 薄暗い室内に、ステンドグラスから淡い光が差し込んでいる。床には色取り取りの影が散っていたが、この場にはそぐわないと彼は思った。
 この場所に似合うのは白い光だ。色硝子に染められた光ではない。何色にも染められることのない、鮮烈なまでの白さのみが、この場には似合うだろう。
 本来ならば、この場所は彼とは相容れない白で、染め尽くされているべきなのだ。
 そんなことを考えながら、彼は足を進めた。一歩踏み出すごとに、コツリと足音が響く。それは本当に小さな音であったが、この空間の中に、静かに響き渡っていった。

「――お祈りですか?」

 淡い光に包まれたシスターが、祭壇から声をかけた。

「いや。……どちらかといえば、懺悔か」
「それならば、神父様のお役目ですね。あちらへどうぞ」

 親切なシスターの言葉を無視し、彼はそのまま彼女に近づいた。
 日が落ちた所為で、大きな窓からも光はあまり差し込まない。その上、この教会の中に光はシスターが持つ燭台のみだ。
 それは神聖な神の場にしては、あまりにも暗い。彼のような魔性のものが入り込めてしまうほどに。

「……何か?」

 不審そうに首を傾げるシスターの目の前まで進み、彼は口を開いた。

「貴方は神を信じるのか?」
「ええ、もちろんです」

 不敬とも言える言葉に、シスターは迷うことなくこたえた。そしてじっと彼を見つめる。その真意を探ろうとするかのように。

「ならば何故――」
「…何故?」
「神聖であるこの場に、私が入り込めるのか」

 教えてはくれないだろうか。彼は小さく呟いた。どこか諦めきった声音で。
 その言葉を聞き、シスターは一瞬呆けた顔を見せた。だが、すぐにきっと表情を引き締め、彼を睨みつけ、叫んだ。

「貴方は一体なんだと言うのです!?」
「魔性のものさ。ただ、それだけの生き物」

 彼は冷めた口調で言うと、彼女の横を通り過ぎ、祭壇をじっと見つめた。
 魔性の存在を滅ぼすという神。触れれば皮膚を焼くという十字架。そして神聖なる祭壇と教会。けれど、そのどれもが、彼にとっては無力だった。

「神よ、私はいつまで生き続ければ良いのか」

 当然、答えはない。
 それだけで、彼は神への興味を失った。所詮、それだけの存在でしかないのだと、理解してしまったからだ。
 昔は、神を恐れもした。否、神という存在を信じていたのだ。そうして、いつか罰してくれないかと、殺してくれるのではないかと思っていたのだ。
 けれど、神はここにはいない。
 だからもう、彼の心から、神は消え去ったのだ。

 ただ呆気にとられるシスターを尻目に、彼は教会を後にした。彼女にすら、最早興味は湧かなかった。神を信じるものとしても、食料としてさえも。
 そうして、彼はまた独りになった。
 自分が壊れていることなど、とうに知っていた。ただ、だからといって、足掻くのも馬鹿らしく、藻掻くのも見苦しく、騒ぎ立てるのも無駄だと思っていただけなのだ。

「この辺、ね」

 彼女は心臓の辺りに、細い人差し指で円を描いた。

「重大な欠陥があるの」
「欠陥?」
「そう、欠けてるの。どうしようもないほどに」

 そう言って、彼女はふぅと溜息によく似た、そんな吐息を吐き出した。厭うわけでも、嘆くわけでもなく、ただ少し疲れた。そう、言いたげに。

「私の家は割とお金持ちだったのよ。でもね、私が病気になって、稼いでも稼いでも治療費にあてたから、この有様。もう、うんざり」
「それは少し贅沢な発言じゃないか?」
「そうね、同じ病気の人から見れば、これは贅沢で傲慢な発言ね。だけど、治らないのよ。どうやったって、今の医学じゃ無理だって、みんな知ってる。お医者様も、父様も、母様も」

 やれやれと肩をすくめ、彼女はなんでもないことのように言った。自分の身体のことだというのに、非道く投げやりな口調だと思った。

「薬ってね、痛いのよ」
「…………」
「吐き気がするの。苦しいのよ、身体の中が痛いのよ」
「副作用か」
「そう。でも、駄目。痛くても、治らない。苦しんでも、報われない。だからもう、耐えられない」

 窓から外を見つめる彼女を更に見つめながら、一歩だけその距離を縮める。

「血の病気らしいんだけど、それでも平気?」
「少なくとも、病にかかることはないな」
「……悪食なのね」

 毒舌をつきながらも、彼女は笑っていた。それは何処までも穏やかだった。まるで凪のような静けさ。今にも消え去ってしまいそうな、儚さ。

「それじゃあ、食べて。一滴残らず、飲み干して。そして私をこの身体から、両親を私から解放させて」
「一つ言わせて貰えば」
「なぁに?」
「両親は、それでも君に死んで欲しくないだろうね」
「……知ってるわ」
「それでも?」
「それでも」

 そうして、彼女は、今度はすまなそうな笑みを浮かべた。けれど、それは諦めきった笑みでもあった。

「でもね、私は解放されたい。もう、駄目なの」
「……その気持ちはわからなくもないがね」
「あら、本当?」
「まぁ、長く生きれば、死にたくなることもあるということさ」

 何気なく呟いたつもりだったが、言葉と一緒に重苦しい吐息が零れてしまった。その吐息の存在を無視し、彼女にもう一歩近づき、抱き寄せる。

「じゃあ、先にいってるわ」
「…ああ、お休み」

 瞳を伏せた、彼女の首に口付け、挨拶を交わす。
 そうして、吸血鬼は彼女の命を奪い、穏やかに眠る彼女に小さく毒づいた。

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