彼女を好きだったのかと聞かれたら、イエスと答えるだろう。
彼女を嫌っていたのかと聞かれたら、イエスと答えるだろう。
けれど、彼女を憎んでいたのかと聞かれたら、言葉に詰まる他ない。
狂気に染まった血の色の瞳、迷うことのない刃の軌跡、命を葬り去る躍動感、生きることを忘れた気怠げな平穏、壊れた微笑みと血に塗れた唇。
あの迷わない心に、誰もが戦き、嫌い、憎みながらも、強く弾かれた。濃い影の向こう側に、強い光があるように。誰もが溺れた。
結局は、自分もその一人だったのだと思う。
炎に引き寄せられ、羽根を焦がした蛾のようなもの。
死の瞬間まで、彼女が彼女らしくあったことを、微かに嬉しく思う。
それと同時に、やっと死んでくれたと心から思う。心から、その死を悼みながら、祝福したい。
もう何かに急かされるように、誰かを殺すことも、自分の命を探し回ることも、血を浴びることもしなくて良いのだと思うと、そんな気分になるのだ。
本人に言ったら、鼻で笑われるだろうが。
未だに思い出すのは、赤すぎる瞳と低い声。
そして誰かの命を奪う後ろ姿ばかり。
彼女を嫌っていたのかと聞かれたら、イエスと答えるだろう。
けれど、彼女を憎んでいたのかと聞かれたら、言葉に詰まる他ない。
狂気に染まった血の色の瞳、迷うことのない刃の軌跡、命を葬り去る躍動感、生きることを忘れた気怠げな平穏、壊れた微笑みと血に塗れた唇。
あの迷わない心に、誰もが戦き、嫌い、憎みながらも、強く弾かれた。濃い影の向こう側に、強い光があるように。誰もが溺れた。
結局は、自分もその一人だったのだと思う。
炎に引き寄せられ、羽根を焦がした蛾のようなもの。
死の瞬間まで、彼女が彼女らしくあったことを、微かに嬉しく思う。
それと同時に、やっと死んでくれたと心から思う。心から、その死を悼みながら、祝福したい。
もう何かに急かされるように、誰かを殺すことも、自分の命を探し回ることも、血を浴びることもしなくて良いのだと思うと、そんな気分になるのだ。
本人に言ったら、鼻で笑われるだろうが。
未だに思い出すのは、赤すぎる瞳と低い声。
そして誰かの命を奪う後ろ姿ばかり。
それ以上近づくなよ、と女は笑った。
彼女の拾われてから、彼は生傷の絶えない日々を過ごした。毎日毎日、本物の刃物で斬り合いをさせられるのだから、当然といえば当然だ。逆に生傷程度ですんでいることが驚きだ。その辺の加減ができる人間で本当に良かったと、彼は素直な気持ちで思う。
事実、それほどの大けがをしたことは今までない。一番大きな怪我でも、背中をばさりと切りつけられ、全治二週間となったものだ。斬られたとはいえ、浅い傷だったのが幸いした。もう少し深ければ、出血が激しすぎて、当分動けなかったことだろう。
彼女としても、彼が動けなくなることも、ましてや死ぬことも本意ではない。だからその時も、出来るだけ浅く斬りつけたのだろう。
そして倒れた彼を見下ろしながら、背中を見せるなと冷ややかに一言呟いた。
彼女に拾われて、一年がたつ頃、彼は武器を選ばされた。
知り合いの武器屋だという店に連れて行かれ、棚から壁まで、部屋中に並べられた刃物を見せられ、彼は硬直した。
「どれでもいい。どれを使ったって、結局何も変わらない」
彼女は相変わらず冷めた口調でそういった。
そして次に、
「人を殺すなんて、簡単なんだ」
紅い瞳をゆっくりと細め、心の底から楽しそうに笑った。
三年目。
いつものように斬り合っていると、一瞬だけ、彼女の隙が見えた。
それは本当に一瞬のことだったが、彼は反射的にその隙を狙った。彼女が彼の刀を払う。その時にできる、僅かな隙間。一秒にも満たない時間だが、その時彼女の心臓が見えた。
例えば、彼女が師であるとか。
例えば、そこを攻撃すれば、人は死ぬこととか。
つまり、彼女を殺してしまうとか。
そういうことは、一切頭には浮かばなかった。
ただ、その心臓に向かって、刀を突き出した。
気付くと、彼の武器は真っ二つに折れていた。
二年前、例の武器屋で譲ってもらった。切れ味は最高だが、耐久性は低いといわれた刀だった。
呆気にとられていると、彼女が一歩後ろに下がった。
間合いをとるようなその仕草が、どこか逃げるように見えた。初めてのことだった。
「――リネア」
「ああ、待て。それ以上近づくなよ」
彼女は顔を押さえ、くつくつと楽しそうに笑っていた。楽しくて楽しくて仕方がないというように。
そうして次に彼を見た紅い瞳は、ぎらぎらと輝いていた。流れ出した瞬間の血液のようだと思った。てらてらと光るそれは、不気味な光沢を放っていた。
いつもはつまらなさそうに、冷ややかな鈍い光しか持たない瞳が、今はねっとりとした熱を持っている。
「楽しいことをしてくれるな」
けれどその声は、弟子の成長を喜ぶものではなかった。
でもそれ以上近づくなよ、ともう一度、彼女は警告のように呟いた。
否、それは実際警告だった。
「それ以上近づいたら、お前、死ぬから」
戦うことと殺すことを何より好み、命を削り合いながら生きる女は、楽しそうに紅い瞳を歪めた。
彼女の拾われてから、彼は生傷の絶えない日々を過ごした。毎日毎日、本物の刃物で斬り合いをさせられるのだから、当然といえば当然だ。逆に生傷程度ですんでいることが驚きだ。その辺の加減ができる人間で本当に良かったと、彼は素直な気持ちで思う。
事実、それほどの大けがをしたことは今までない。一番大きな怪我でも、背中をばさりと切りつけられ、全治二週間となったものだ。斬られたとはいえ、浅い傷だったのが幸いした。もう少し深ければ、出血が激しすぎて、当分動けなかったことだろう。
彼女としても、彼が動けなくなることも、ましてや死ぬことも本意ではない。だからその時も、出来るだけ浅く斬りつけたのだろう。
そして倒れた彼を見下ろしながら、背中を見せるなと冷ややかに一言呟いた。
彼女に拾われて、一年がたつ頃、彼は武器を選ばされた。
知り合いの武器屋だという店に連れて行かれ、棚から壁まで、部屋中に並べられた刃物を見せられ、彼は硬直した。
「どれでもいい。どれを使ったって、結局何も変わらない」
彼女は相変わらず冷めた口調でそういった。
そして次に、
「人を殺すなんて、簡単なんだ」
紅い瞳をゆっくりと細め、心の底から楽しそうに笑った。
三年目。
いつものように斬り合っていると、一瞬だけ、彼女の隙が見えた。
それは本当に一瞬のことだったが、彼は反射的にその隙を狙った。彼女が彼の刀を払う。その時にできる、僅かな隙間。一秒にも満たない時間だが、その時彼女の心臓が見えた。
例えば、彼女が師であるとか。
例えば、そこを攻撃すれば、人は死ぬこととか。
つまり、彼女を殺してしまうとか。
そういうことは、一切頭には浮かばなかった。
ただ、その心臓に向かって、刀を突き出した。
気付くと、彼の武器は真っ二つに折れていた。
二年前、例の武器屋で譲ってもらった。切れ味は最高だが、耐久性は低いといわれた刀だった。
呆気にとられていると、彼女が一歩後ろに下がった。
間合いをとるようなその仕草が、どこか逃げるように見えた。初めてのことだった。
「――リネア」
「ああ、待て。それ以上近づくなよ」
彼女は顔を押さえ、くつくつと楽しそうに笑っていた。楽しくて楽しくて仕方がないというように。
そうして次に彼を見た紅い瞳は、ぎらぎらと輝いていた。流れ出した瞬間の血液のようだと思った。てらてらと光るそれは、不気味な光沢を放っていた。
いつもはつまらなさそうに、冷ややかな鈍い光しか持たない瞳が、今はねっとりとした熱を持っている。
「楽しいことをしてくれるな」
けれどその声は、弟子の成長を喜ぶものではなかった。
でもそれ以上近づくなよ、ともう一度、彼女は警告のように呟いた。
否、それは実際警告だった。
「それ以上近づいたら、お前、死ぬから」
戦うことと殺すことを何より好み、命を削り合いながら生きる女は、楽しそうに紅い瞳を歪めた。
父が死んだ。
そう教えてくれたのは、いつも仕事を斡旋してくれる男だった。父に、時には自分に、人を殺す仕事を与え、ソレと引き替えに金を与えてくれる男だった。
彼は父とは傭兵仲間だったのだそうだ。ずっと昔、袂を別ち、彼は自ら戦いの場に立たなくなった。父は変わらず、戦い続けた。それでも二人の繋がりは残り、取引を交わすようになった。それだけのこと。
父が死んだ。
男が回してくれた仕事に失敗したそうだ。殺そうとした相手の側にいた護衛に、首をはねられたらしい。それが嘘だろうと、真実だろうと、どうでもいい。素直にそう思った。
「リネア」
自分の名を呼ぶ男の声は優しい。彼はきっと、父の死を悼んでいるのだろう。だからこんなにも、優しく痛々しい声が出せるのだ。
けれど彼は愚かだ。
「何?」
「それでもこの世界で生きるのか?」
こんな愉快な問いが、この世界にあるとは!
「あたしが、あの男の娘であるこのあたしが、他の世界で生きられると、本気で思う?」
血に濡れて生きる人間など、ろくな死に方ができるとは思えない。そんなことは父だって知っていたし、自分も知っている。そして彼も知っている。
この世界にいる人間ならば、誰だって知っている。
それでもここにいるしかないのだ。
「人はいつか死ぬんだ。そんなこと、知ってるさ」
感情のこもらない声で答えると、男は押し黙り、重苦しい溜息を吐き出した。
「お前は、確実にアイツの娘だ」
どうしてそんなところしか似なかったんだ。
男は言外にそう呟きながら、父の遺品を渡してくれた。
そう教えてくれたのは、いつも仕事を斡旋してくれる男だった。父に、時には自分に、人を殺す仕事を与え、ソレと引き替えに金を与えてくれる男だった。
彼は父とは傭兵仲間だったのだそうだ。ずっと昔、袂を別ち、彼は自ら戦いの場に立たなくなった。父は変わらず、戦い続けた。それでも二人の繋がりは残り、取引を交わすようになった。それだけのこと。
父が死んだ。
男が回してくれた仕事に失敗したそうだ。殺そうとした相手の側にいた護衛に、首をはねられたらしい。それが嘘だろうと、真実だろうと、どうでもいい。素直にそう思った。
「リネア」
自分の名を呼ぶ男の声は優しい。彼はきっと、父の死を悼んでいるのだろう。だからこんなにも、優しく痛々しい声が出せるのだ。
けれど彼は愚かだ。
「何?」
「それでもこの世界で生きるのか?」
こんな愉快な問いが、この世界にあるとは!
「あたしが、あの男の娘であるこのあたしが、他の世界で生きられると、本気で思う?」
血に濡れて生きる人間など、ろくな死に方ができるとは思えない。そんなことは父だって知っていたし、自分も知っている。そして彼も知っている。
この世界にいる人間ならば、誰だって知っている。
それでもここにいるしかないのだ。
「人はいつか死ぬんだ。そんなこと、知ってるさ」
感情のこもらない声で答えると、男は押し黙り、重苦しい溜息を吐き出した。
「お前は、確実にアイツの娘だ」
どうしてそんなところしか似なかったんだ。
男は言外にそう呟きながら、父の遺品を渡してくれた。
『Don’t enter』
2004年7月12日 紅 あの場所に入ってはいけないよ、小さい頃、そう教えられた場所がある。
彼女が物心ついた時、側には父だけがいた。
父は戦う人だった。誰かの護衛につくこともあれば、何処かの国の戦争に傭兵として出向くこともあり、時には暗殺者として誰かを殺すこともあった。
彼は戦う人だった。
戦うことと、殺すことしか知らない人だった。
彼女は、そんな男の娘だった。
入ってはいけない、幼い娘に父が教えた場所は、とある酒場の一番奥にあるドア。父は時折そこに入りながら、振り返り、娘を見ては、ドアの中に入らないように気を配っていた。
戦うことしか知らない、殺すことしか知らない、父親としての愛情の薄い男が。
幼い娘は一度だけ、父が入ったそのドアに耳をよせたことがある。周囲の大人達は、そんな彼女を見て見ぬふりをしていた。娘の父が、その扉を我が子に触れさせないように、気を配っていることを知っていたにも関わらず。
何故なら、誰もが知っていたのだ。
彼女は、戦い他人を殺す男の、娘だということを。
ぼそぼそとした話し声を耳にした娘は、瞬時に悟った。父は此処で誰かを殺す話をしているのだ。顔も知らない誰かを殺し、そうして金を手に入れる話をしている。
娘は静かに、音もなく思った。
父は知っているのだ。私が、戦うことしか知らず、他人を殺すことでしか生きられない男の娘が、いつかこの扉を開け、向こう側の世界に住んでしまうことを。
そうして、この薄い扉で世界を遮ろうとしているのだろう。
馬鹿な人だと思った。
けれど娘は、扉を開けた。
将来、≪血濡れの紅≫と呼ばれる娘は、このときまだ十歳だった。
彼女が物心ついた時、側には父だけがいた。
父は戦う人だった。誰かの護衛につくこともあれば、何処かの国の戦争に傭兵として出向くこともあり、時には暗殺者として誰かを殺すこともあった。
彼は戦う人だった。
戦うことと、殺すことしか知らない人だった。
彼女は、そんな男の娘だった。
入ってはいけない、幼い娘に父が教えた場所は、とある酒場の一番奥にあるドア。父は時折そこに入りながら、振り返り、娘を見ては、ドアの中に入らないように気を配っていた。
戦うことしか知らない、殺すことしか知らない、父親としての愛情の薄い男が。
幼い娘は一度だけ、父が入ったそのドアに耳をよせたことがある。周囲の大人達は、そんな彼女を見て見ぬふりをしていた。娘の父が、その扉を我が子に触れさせないように、気を配っていることを知っていたにも関わらず。
何故なら、誰もが知っていたのだ。
彼女は、戦い他人を殺す男の、娘だということを。
ぼそぼそとした話し声を耳にした娘は、瞬時に悟った。父は此処で誰かを殺す話をしているのだ。顔も知らない誰かを殺し、そうして金を手に入れる話をしている。
娘は静かに、音もなく思った。
父は知っているのだ。私が、戦うことしか知らず、他人を殺すことでしか生きられない男の娘が、いつかこの扉を開け、向こう側の世界に住んでしまうことを。
そうして、この薄い扉で世界を遮ろうとしているのだろう。
馬鹿な人だと思った。
けれど娘は、扉を開けた。
将来、≪血濡れの紅≫と呼ばれる娘は、このときまだ十歳だった。
ふわりと漂ってくる血の匂いは、貴方の香りだった。
夜明けが近づく頃、彼女は血の匂いを振りまきながら、隠れ家に帰ってくる。
そうして、未だ乾かない血液にまみれた服を脱ぎ捨て、冷水を浴びながら、唇の端を歪めるように笑うのだ。
顔から髪に至るまで、全身を紅く染め上げていた彼女が、少しずつ白さを取り戻していく。赤く染まった黒い服を脱ぎ、水を浴び、白く白くなっていく。
その様が、目に焼き付いて離れなかった。
彼女は他人を殺すことなど、罪と思っていなかった。生きるために殺すことを、当然のことだと知っていた。
だからどれだけ紅く染まろうと、最後には白く戻れるのだ。
血の匂いは、彼女の匂いだった。
彼に殺しの術を教え、生きることを教え、死ぬことを教えた、罪を知らない死の匂いだった。
夜明けが近づく頃、彼女は血の匂いを振りまきながら、隠れ家に帰ってくる。
そうして、未だ乾かない血液にまみれた服を脱ぎ捨て、冷水を浴びながら、唇の端を歪めるように笑うのだ。
顔から髪に至るまで、全身を紅く染め上げていた彼女が、少しずつ白さを取り戻していく。赤く染まった黒い服を脱ぎ、水を浴び、白く白くなっていく。
その様が、目に焼き付いて離れなかった。
彼女は他人を殺すことなど、罪と思っていなかった。生きるために殺すことを、当然のことだと知っていた。
だからどれだけ紅く染まろうと、最後には白く戻れるのだ。
血の匂いは、彼女の匂いだった。
彼に殺しの術を教え、生きることを教え、死ぬことを教えた、罪を知らない死の匂いだった。
たった一人での初仕事を前にし、キールは物陰で呼吸を整えた。
それほど警備もなく、周囲にも人影は見当たらない。仰々しい門には灯りが点っているが、それとて気にするほどのことではない。そう瞬時に判断を下し、暗闇の中で彼は塀に手をかけた。
石造りの塀はでこぼこしていて、素手でも楽に掴まることができる。高さがそれほどでもないこともあり、道具の類を使わずとも、楽に塀に登ることはできた。
本当なら、そのまますぐに地面に下りるか、伏せるべきなのだろうが、キールは振り返った。少し離れた場所に、ぽつりと一台、馬車が佇んでいる。その中に、彼の師がいる。
一時間たって戻ってこなかったら、自分が行く。
先程、宣言された言葉を思い出し、軽く唇を噛みながら、キールは屋敷の敷地内へ飛び降りた。
宣言は、もう一つ。
「あたしが出たら皆殺しだ。判るな? それくらい」
順調な結末だった。
当たり前だ。今回ばかりは、師匠が色々と手はずを整えてくれた。今日限りと何度も念を押された。余程面倒だったのだろう。屋敷の見取り図を頭にたたき込み、獲物がいるであろう部屋に検討をつける。あとは最短ルートを選んだだけだった。
途中で下働きらしい少年を一人、メイドを一人。合計二人に目撃され、その命を奪うことになったが、これは楽なものだった。
書斎を抜け、隣の寝室でくつろいでいた獲物を屠るのも、大した差はなかった。
割と大きな商家の元主人。第一線は引いたものの、周囲への影響力は大きい。身内からしてみればありがたいだろうが、それを邪魔に思う人間も多い。そういうことだ。
ただ、武器が刃こぼれしてしまった。それだけが、何故か印象に残った。
血に濡れた寝台を見つめ、次に事切れた獲物の身体を見つめた。
その背に墓標が霞んで見え、キールは目を閉じた。
自分の最期が、見えた気がした。
それほど警備もなく、周囲にも人影は見当たらない。仰々しい門には灯りが点っているが、それとて気にするほどのことではない。そう瞬時に判断を下し、暗闇の中で彼は塀に手をかけた。
石造りの塀はでこぼこしていて、素手でも楽に掴まることができる。高さがそれほどでもないこともあり、道具の類を使わずとも、楽に塀に登ることはできた。
本当なら、そのまますぐに地面に下りるか、伏せるべきなのだろうが、キールは振り返った。少し離れた場所に、ぽつりと一台、馬車が佇んでいる。その中に、彼の師がいる。
一時間たって戻ってこなかったら、自分が行く。
先程、宣言された言葉を思い出し、軽く唇を噛みながら、キールは屋敷の敷地内へ飛び降りた。
宣言は、もう一つ。
「あたしが出たら皆殺しだ。判るな? それくらい」
順調な結末だった。
当たり前だ。今回ばかりは、師匠が色々と手はずを整えてくれた。今日限りと何度も念を押された。余程面倒だったのだろう。屋敷の見取り図を頭にたたき込み、獲物がいるであろう部屋に検討をつける。あとは最短ルートを選んだだけだった。
途中で下働きらしい少年を一人、メイドを一人。合計二人に目撃され、その命を奪うことになったが、これは楽なものだった。
書斎を抜け、隣の寝室でくつろいでいた獲物を屠るのも、大した差はなかった。
割と大きな商家の元主人。第一線は引いたものの、周囲への影響力は大きい。身内からしてみればありがたいだろうが、それを邪魔に思う人間も多い。そういうことだ。
ただ、武器が刃こぼれしてしまった。それだけが、何故か印象に残った。
血に濡れた寝台を見つめ、次に事切れた獲物の身体を見つめた。
その背に墓標が霞んで見え、キールは目を閉じた。
自分の最期が、見えた気がした。
細い路地を塞ぐように、その女は立っていた。
片側の壁に寄りかかり、もう片側の壁に片足をかけている。
通さないと言わんばかりの態度に、腹が立たなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に少年は恐れた。何故、この女が此処にいるのかと、大声で問いたいほどに。
「お前、拾ってやるよ」
女は少年を見て、にぃと笑った。唇の右端だけをつり上げる、酷く楽しげに。そうして、少年からしてみれば、訳のわからないことを言った。至極当然のように。
「今何やってんだ? スリか? 掻払いか? もっとでかいことをやらせてやるよ」
「何……」
呆然と呟くと、女はまた楽しげに笑った。けれどその深紅の双眸は、僅かにも笑ってなどいなかった。
「人殺しさ。少なくとも、今よりは稼げるぜ? まぁ、実力勝負だけどな」
「あんた、何なんだよ!」
「ちょっと弟子を捜しててな。別にそんなもんいらないんだけど、師匠の技が潰えちまうのは、さすがに申し訳ない。で、お前に目を付けたただの暗殺者さ」
半ば恐慌状態に陥った少年が叫ぶと、女は何でもないことのように、恐ろしいことを告げた。
「何で俺なんだ?」
「あたしを見て、走って逃げただろう? 誰が強いか、誰が危険か、それくらいわかる奴じゃないと、弟子になんかできねぇ。闇雲につっこんで無駄死にするような奴じゃ、教えるだけ無駄だ」
そうして、女は少年に右手を差し出した。
「お前、拾ってやるよ。だから来いよ」
有無を言わせない口調と、深紅の瞳と、どこからか漂う血の匂いに乗せられ、少年はその手を取った。
片側の壁に寄りかかり、もう片側の壁に片足をかけている。
通さないと言わんばかりの態度に、腹が立たなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に少年は恐れた。何故、この女が此処にいるのかと、大声で問いたいほどに。
「お前、拾ってやるよ」
女は少年を見て、にぃと笑った。唇の右端だけをつり上げる、酷く楽しげに。そうして、少年からしてみれば、訳のわからないことを言った。至極当然のように。
「今何やってんだ? スリか? 掻払いか? もっとでかいことをやらせてやるよ」
「何……」
呆然と呟くと、女はまた楽しげに笑った。けれどその深紅の双眸は、僅かにも笑ってなどいなかった。
「人殺しさ。少なくとも、今よりは稼げるぜ? まぁ、実力勝負だけどな」
「あんた、何なんだよ!」
「ちょっと弟子を捜しててな。別にそんなもんいらないんだけど、師匠の技が潰えちまうのは、さすがに申し訳ない。で、お前に目を付けたただの暗殺者さ」
半ば恐慌状態に陥った少年が叫ぶと、女は何でもないことのように、恐ろしいことを告げた。
「何で俺なんだ?」
「あたしを見て、走って逃げただろう? 誰が強いか、誰が危険か、それくらいわかる奴じゃないと、弟子になんかできねぇ。闇雲につっこんで無駄死にするような奴じゃ、教えるだけ無駄だ」
そうして、女は少年に右手を差し出した。
「お前、拾ってやるよ。だから来いよ」
有無を言わせない口調と、深紅の瞳と、どこからか漂う血の匂いに乗せられ、少年はその手を取った。
彼女と出会ったのは、十三歳の時。余りまともとは言えない仕事で、生計をなんとか立てていた頃だった。裏で街の悪事全般を牛耳っている組織の端の端。いくらでも使い捨てが利く末端に属し、スリや掻払いで金を稼いでいた。
両親は彼が七歳の時に死んだ。借家からは追い出され、後ろ盾のなさから誰にも雇ってもらえなかった。食いつなぐために盗みを始めた辺りで、組織に拾われた。と言うよりも、場を荒らすなと絞められた。
それから六年が過ぎ、脚力と器用さだけなら、大人にも負けないと自負できるようになった頃、少年は彼女を見た。
いつものようにペアを組み、街に出て、獲物を物色する。すると、相棒が一人の女に目を付けたのだ。
背の高い女だった。
動きやすそうな格好をしていて、腰の辺りに鞄を下げている。そしてつまらなさそうに、町中をぶらぶらと歩いている。ただ、それだけの女だった。
けれど少年は何かを感じた。瞬時に本能で悟った。
あれは怖い人間だ。とても怖い、関わってはならない類の人間だ、と。
彼も末端とはいえ、裏の人間である。それ故、何度となく恐ろしい目にもあった。人を人とも思わないような人間に会ったこともある。
だが、その女にはそれ以上の何かを感じた。
恐ろしい。怖い。
だから、その女と目があったとき、少年は脇目もふらず逃げ出した。
相棒の声が聞こえた気がしたが、それすら意識の外に放り出し、ただ走った。
細い路地に入り込んだ。それでも彼は足を止めなかった。
自慢の脚力を惜しみなく発揮した。それでも彼は怖かった。何かに怯えていた。少しでも早く、遠く、あの女から離れたかったのだ。
そして少年の直感は、的中していた。
両親は彼が七歳の時に死んだ。借家からは追い出され、後ろ盾のなさから誰にも雇ってもらえなかった。食いつなぐために盗みを始めた辺りで、組織に拾われた。と言うよりも、場を荒らすなと絞められた。
それから六年が過ぎ、脚力と器用さだけなら、大人にも負けないと自負できるようになった頃、少年は彼女を見た。
いつものようにペアを組み、街に出て、獲物を物色する。すると、相棒が一人の女に目を付けたのだ。
背の高い女だった。
動きやすそうな格好をしていて、腰の辺りに鞄を下げている。そしてつまらなさそうに、町中をぶらぶらと歩いている。ただ、それだけの女だった。
けれど少年は何かを感じた。瞬時に本能で悟った。
あれは怖い人間だ。とても怖い、関わってはならない類の人間だ、と。
彼も末端とはいえ、裏の人間である。それ故、何度となく恐ろしい目にもあった。人を人とも思わないような人間に会ったこともある。
だが、その女にはそれ以上の何かを感じた。
恐ろしい。怖い。
だから、その女と目があったとき、少年は脇目もふらず逃げ出した。
相棒の声が聞こえた気がしたが、それすら意識の外に放り出し、ただ走った。
細い路地に入り込んだ。それでも彼は足を止めなかった。
自慢の脚力を惜しみなく発揮した。それでも彼は怖かった。何かに怯えていた。少しでも早く、遠く、あの女から離れたかったのだ。
そして少年の直感は、的中していた。
『murderous intent』
2004年3月2日 紅 ぞっとした。
冷たい金属にも似た寒気が、背筋を走り抜けていった。
――これは、こんなにも透明な殺意。
目の前で武器を持っている女は、恐ろしいほどに血塗れだった。けれど、それは彼女自身のものではない。全てとはいかないかもしれないが、そのほとんどが返り血であるはずだ。
全てが自分の流した血液であれば、彼女は立っていられないだろう。否、出血多量ですでに死んでいてもおかしくはない。どう軽く見積もっても虫の息でなければならない。
身に纏った黒い衣服。
それさえ赤く染まって見える程の、大量の返り血。黒い髪も顔も、そして二本の小太刀も、全て赤く染めて、彼女は立っていた。
そして、何者にも染めることが出来ない、透明な殺意をこちらに向けた。
それは、恐ろしいまでに純粋な意志だった。
殺すための殺意。打算も計算もない、純粋に殺すためだけの意志。
途惑いもなければ、躊躇いもない。遠慮もなければ、憐憫もない。憎悪もなければ、友愛もない。
殺すためだけに存在する、紛れもなく透明な殺意をもって、彼女は攻撃を繰り出してきた。それは酷く自然で、呼吸をするかのように当然で、ただ一歩を踏み出しただけのように必然的な、殺すための攻撃だった。
微塵の迷いもなく、彼女が狙ったのは首だった。
喉笛を掻ききろうとする刃は、すでに幾人もの犠牲者を生み出している。そのため、切れ味は鈍り、刃こぼれしていてもおかしくない。
けれど彼女は迷わない。途惑いも躊躇いもしない。殺される。生きようと、彼女を殺さない限り、自分が殺される。喉を切り裂かれ、悲鳴の替わりに血飛沫をあげ、絶命するだろう。
が、彼女は不意に笑った。
唇の右端をぐいと押し上げるように笑い、小太刀を一振りして血を払った。そしてごく当然のように、二本の刃を鞘に収めると、もう一度笑った。
「時間切れだ。救われたな、坊や」
それだけ言って、やはり躊躇わず走り去っていった。
――追うことは、出来なかった。
これが《深紅の緋色》と呼ばれた、黒ずくめの暗殺者との、最初で最後の邂逅だった。
冷たい金属にも似た寒気が、背筋を走り抜けていった。
――これは、こんなにも透明な殺意。
目の前で武器を持っている女は、恐ろしいほどに血塗れだった。けれど、それは彼女自身のものではない。全てとはいかないかもしれないが、そのほとんどが返り血であるはずだ。
全てが自分の流した血液であれば、彼女は立っていられないだろう。否、出血多量ですでに死んでいてもおかしくはない。どう軽く見積もっても虫の息でなければならない。
身に纏った黒い衣服。
それさえ赤く染まって見える程の、大量の返り血。黒い髪も顔も、そして二本の小太刀も、全て赤く染めて、彼女は立っていた。
そして、何者にも染めることが出来ない、透明な殺意をこちらに向けた。
それは、恐ろしいまでに純粋な意志だった。
殺すための殺意。打算も計算もない、純粋に殺すためだけの意志。
途惑いもなければ、躊躇いもない。遠慮もなければ、憐憫もない。憎悪もなければ、友愛もない。
殺すためだけに存在する、紛れもなく透明な殺意をもって、彼女は攻撃を繰り出してきた。それは酷く自然で、呼吸をするかのように当然で、ただ一歩を踏み出しただけのように必然的な、殺すための攻撃だった。
微塵の迷いもなく、彼女が狙ったのは首だった。
喉笛を掻ききろうとする刃は、すでに幾人もの犠牲者を生み出している。そのため、切れ味は鈍り、刃こぼれしていてもおかしくない。
けれど彼女は迷わない。途惑いも躊躇いもしない。殺される。生きようと、彼女を殺さない限り、自分が殺される。喉を切り裂かれ、悲鳴の替わりに血飛沫をあげ、絶命するだろう。
が、彼女は不意に笑った。
唇の右端をぐいと押し上げるように笑い、小太刀を一振りして血を払った。そしてごく当然のように、二本の刃を鞘に収めると、もう一度笑った。
「時間切れだ。救われたな、坊や」
それだけ言って、やはり躊躇わず走り去っていった。
――追うことは、出来なかった。
これが《深紅の緋色》と呼ばれた、黒ずくめの暗殺者との、最初で最後の邂逅だった。
「ぬるい」
瞳孔の開いた赤い目が、ひんやりとこちらを見つめている。
「ぬるい。ぬるすぎる」
不満を露わにする唇は、乾いて割れている。噛みしめれば今にも血が滲むに違いない。
「殺すなら殺せ、抱くなら抱け。気遣うな、殺せ、焼き尽くせ」
訥々と感情のこもらない声が呟く。
赤い瞳は何も見ていない。ただ闇の中に視線を彷徨わせ、虚ろなまでの無表情を保っている。それは不気味でしかない光景だ。
それでも時折、言葉の端々に激情が滲む。女自身にも意識できないほどに、小さな感情が燃えているのだ。
「お前の体温は嫌いだ」
だから殺せ、焼き尽くせ。
もう一度呟き、女は瞳を伏せた。優しさや温もりを拒否した証だ。彼女が求めているのは、激情であり、全てを焼き尽くす高温であり、魂を身体に縛り付けるような締め付けなのだ。
「ぬるい」
不気味なまでの静謐の中で、女はぽつりと囁いた。
激しさの中でしか生きられない女は、傷つくほどの愛情を求めているのだろう。その痛みでやっと何かを感じられるように。
瞳孔の開いた赤い目が、ひんやりとこちらを見つめている。
「ぬるい。ぬるすぎる」
不満を露わにする唇は、乾いて割れている。噛みしめれば今にも血が滲むに違いない。
「殺すなら殺せ、抱くなら抱け。気遣うな、殺せ、焼き尽くせ」
訥々と感情のこもらない声が呟く。
赤い瞳は何も見ていない。ただ闇の中に視線を彷徨わせ、虚ろなまでの無表情を保っている。それは不気味でしかない光景だ。
それでも時折、言葉の端々に激情が滲む。女自身にも意識できないほどに、小さな感情が燃えているのだ。
「お前の体温は嫌いだ」
だから殺せ、焼き尽くせ。
もう一度呟き、女は瞳を伏せた。優しさや温もりを拒否した証だ。彼女が求めているのは、激情であり、全てを焼き尽くす高温であり、魂を身体に縛り付けるような締め付けなのだ。
「ぬるい」
不気味なまでの静謐の中で、女はぽつりと囁いた。
激しさの中でしか生きられない女は、傷つくほどの愛情を求めているのだろう。その痛みでやっと何かを感じられるように。
『Why do we live?』
2004年2月1日 紅 女は低く笑った。非道く楽しげに。
「なんのために生きるのかって? お前、今そう聞いたのか?」
くつくつと喉の奥で、まるで猫のように笑いながら、女は目を細めた。三日月のように弧を描いた、赤い唇が歌うように言葉を紡いでいる。
「ああ、安心したよ。お前、意外と馬鹿だったんだな」
失礼なことを呟く女の視界には、今はきっと何も映ってはいない。
棺桶に片足をつっこんだとか、そんな表現では飽き足らないほどに、彼女は死と隣り合わせで生きている。以前、そんなことを言ったら、彼女はやはり笑った。そして、「この身体はもう死んでるんだ」と呟いたものだった。
「良いぜ、教えてやるよ。なんで生きてるのか」
深呼吸をするように、息を胸一杯に吸い込み、女は吐き出した。
「死ぬためさ。綺麗な死体になって、魂を空に飛ばす為さ。そうして死の直前に、命ってものを実感するためさ」
女は楽しげに笑っていた。声を上げて、目尻に涙を浮かべながら。
そうやって、気違いじみた嬌声を発しながらも、彼女の目はどこか冷めていた。
まるで、悟ってしまったかのように。
「なんのために生きるのかって? お前、今そう聞いたのか?」
くつくつと喉の奥で、まるで猫のように笑いながら、女は目を細めた。三日月のように弧を描いた、赤い唇が歌うように言葉を紡いでいる。
「ああ、安心したよ。お前、意外と馬鹿だったんだな」
失礼なことを呟く女の視界には、今はきっと何も映ってはいない。
棺桶に片足をつっこんだとか、そんな表現では飽き足らないほどに、彼女は死と隣り合わせで生きている。以前、そんなことを言ったら、彼女はやはり笑った。そして、「この身体はもう死んでるんだ」と呟いたものだった。
「良いぜ、教えてやるよ。なんで生きてるのか」
深呼吸をするように、息を胸一杯に吸い込み、女は吐き出した。
「死ぬためさ。綺麗な死体になって、魂を空に飛ばす為さ。そうして死の直前に、命ってものを実感するためさ」
女は楽しげに笑っていた。声を上げて、目尻に涙を浮かべながら。
そうやって、気違いじみた嬌声を発しながらも、彼女の目はどこか冷めていた。
まるで、悟ってしまったかのように。
笑った顔は非道く美しいものだと思う。けれどその美しさを、自ら好んで血で汚しているとも思う。
闇の中で人を殺し、その血を浴びて、静かに笑う女に、少年はどうしようもなく惹かれていた。
その深紅の瞳、迷わない心、闇に溶ける髪。それらから、きっと逃れられないだろうとも、思っていた。
「死にたくなきゃ戦え」
冷たく言い放つ薄い唇は綺麗な弧を描いている。そのくせ、目は笑っていない。
「戦いたくなきゃ、死ね」
すっと視線をこちらに動かし、また正面を見つめる。何もない空を。
吐き捨てるような口調で言うと、彼女は乱暴に身体を翻し、どこかへ行ってしまった。つなぎ止めることのできない人だとは思っていた。けれど、今日だけは思わず呼び止めた。
「どちらも嫌なら?」
「……あたしにそれを聞くのか、坊や?」
振り向いた顔は不機嫌そのもので、一瞬身体が竦んだ。
堅くなった身体を宥めるように頷くと、女は馬鹿にしたような顔で、静かに呟いた。
「どちらも嫌なら、生きろ」
当たり前のように告げ、女は立ち去った。
今度こそ、その足を止めることなど、出来なかった。
闇の中で人を殺し、その血を浴びて、静かに笑う女に、少年はどうしようもなく惹かれていた。
その深紅の瞳、迷わない心、闇に溶ける髪。それらから、きっと逃れられないだろうとも、思っていた。
「死にたくなきゃ戦え」
冷たく言い放つ薄い唇は綺麗な弧を描いている。そのくせ、目は笑っていない。
「戦いたくなきゃ、死ね」
すっと視線をこちらに動かし、また正面を見つめる。何もない空を。
吐き捨てるような口調で言うと、彼女は乱暴に身体を翻し、どこかへ行ってしまった。つなぎ止めることのできない人だとは思っていた。けれど、今日だけは思わず呼び止めた。
「どちらも嫌なら?」
「……あたしにそれを聞くのか、坊や?」
振り向いた顔は不機嫌そのもので、一瞬身体が竦んだ。
堅くなった身体を宥めるように頷くと、女は馬鹿にしたような顔で、静かに呟いた。
「どちらも嫌なら、生きろ」
当たり前のように告げ、女は立ち去った。
今度こそ、その足を止めることなど、出来なかった。
ああ、まずい。そう思ったが、その時にはもう全て終わってしまっていた。あまり認識したくないような音がキールの身体から聞こえ、色んな感覚が一瞬で飛び跳ねた。そして消え去った。
視界が真っ赤に染まったのは、自分の血液の所為だとすぐに気づきはした。だけれど、だからといって、何をすることができるだろう。止血をしようにも指の一本すら動かすことができない。何より、止血した程度で塞がる傷ではないだろう。地面に広がる紅い染みを見れば一目瞭然だ。
すまない、と心の中で妻に詫びる。彼女は泣かないだろう。自分の死すら知らずに逝ってしまうだろう。だからといって、他に言葉が何も思いつかなかった。
瞼を閉じても世界は紅かった。
けれど、もう一度目を開くと、今度は怖いほどに青い空が広がっていた。
一瞬の思考の後、記憶の底からはい上がってきたのは、あの女を看取った空だった。そしてあの女の魂が飛び去っていった空と、今日の空はどこか似ていた。怖いほどの青さと、雲を従えない傲慢なまでの静けさ。
「馬鹿じゃねぇの。ここで終わりか」
何も聞こえなくなったと思っていた耳に、低い女の声が響いた。それはキールにとって忘れることのできない声。死んだはずの師の声だ。
何故彼女の声が聞こえるのか。そんな疑問は浮かばなかった。それは不思議と、非道く自然な現象のように感じられたのだ。
それと同時に、死者と会話ができると言うことによって、自分の近い未来を見ることも。
「リネア…?」
「死に方には拘れって言っただろう? これがお前の満足のいく死に方なのか?」
声など出ないとは思ったが、掠れた声は確かに自分自身のものだった。その声で名を呼ぶと、リネアはなんの感慨もなさげにキールを嘲った。
「惚れた女一人守れず、目的も果たせず、こんな僻地で一人で死ぬのがお前の望みだったのか?」
そう吐き捨てるリネアはいつになく不機嫌だと思った。彼女の弟子だった頃は、こんな表情にも声にも何度も触れていた。だから気まぐれな癖に手負いの豹のような女の不機嫌には慣れていた。
けれど今日の彼女はいつもとは一味違う。直感的にキールはそう感じた。
「いや」
「じゃあ、なんで倒れてるんだ?」
「手が届かなかっただけだ」
「はっ、自分の実力を知らないからそんなことになるんだよ」
「そうだな」
「お前は馬鹿だ」
「……ああ」
「お前は大馬鹿野郎だ、キール」
まただ、キールはそう思った。彼女は自身が死ぬときもキールの名前を呼んでくれた。そして今も名前を呼んでくれる。少しは認めてやってもいいと言わんばかりの態度で、馬鹿にしながらも非道く優しげに。
「お前、自分が何をしてるかわかってるのか?」
「死にかけてる」
「大当たりだ」
そしてリネアは溜息を吐く仕草をした。
「無駄に死ぬなって言っただろ」
「ああ、言われた」
「お前は生きて帰らなきゃいけないんじゃないのか?」
「ああ、その通りだ」
「なのになんで倒れてるんだ、馬鹿野郎」
激情を押さえたように吐き捨てたリネアの目は、ぎらぎらと輝いていた。最高級の紅玉すら霞むほどの、どこか狂気を秘めた深紅の目がキールをのぞき込む。そして、仕方がないというように笑った。
小さな子供をあやすように、馬鹿にするように、それでいて慈しむように。
「ま、仕方がねぇな。実力不足だ」
あっさりと言い捨て、リネアはキールの頬に掌を寄せた。女らしさや、柔らかさを捨てた手だった。乾燥してがさついていて、その上あちこちにたこができて、ごるごつしている。けれどその暖かさだけは何よりも優しい。
リネアはその優しい掌でキールの頬を包み込み、正面から顔をのぞき込んだ。倒れているキールの横に膝をついているらしく、少し斜めではあったが、彼女の視線はまっすぐにこちらを見ていた。
「あたしは怒ってるんだ、馬鹿な弟子が早死にしやがるから」
「リネア?」
「でも仕方がないとも思ってる。お前、割と平和主義者だっただろう」
「そうか?」
「ああ、暗殺なんかにゃ向いてなかったぜ?」
そしてリネアはふっと笑った。
それは彼女が死の直前に見せた、非道く優しく、見ていて涙がでるような微笑みだった。
「だからお前は他人のために死ぬと思ってた」
言葉を切ると、彼女は屈み込み、キールの唇に自分の唇を噛み付くように押しつけた。
その素っ気ない触れあいは生前の彼女そのもののようだった。触れようとすれば容赦なく切り刻もうとする癖に、不意に与える温もりは何よりも優しかった。けれど非道く気まぐれな性質の所為で、八つ当たりをされたり、殺されかけたりしながらも、惹かれてしまう、彼女そのものだと思った。
「だけどあたしは怒ってるんだ、それだけ覚えておけよ」
唇を離し、恨みがましく告げると、リネアの姿は光に透けて見えなくなった。
その白い光はとても眩しく、全てを吸い取られるような気がした。それはとても気持ちが良い行為のように感じられた。だが、どうせならもっと弱々しい、銀色の光に包まれたいとも思った。そう、病に伏した妻を守る、月のような。
そしてキールの意識は途切れた。彼は、死んだ。
視界が真っ赤に染まったのは、自分の血液の所為だとすぐに気づきはした。だけれど、だからといって、何をすることができるだろう。止血をしようにも指の一本すら動かすことができない。何より、止血した程度で塞がる傷ではないだろう。地面に広がる紅い染みを見れば一目瞭然だ。
すまない、と心の中で妻に詫びる。彼女は泣かないだろう。自分の死すら知らずに逝ってしまうだろう。だからといって、他に言葉が何も思いつかなかった。
瞼を閉じても世界は紅かった。
けれど、もう一度目を開くと、今度は怖いほどに青い空が広がっていた。
一瞬の思考の後、記憶の底からはい上がってきたのは、あの女を看取った空だった。そしてあの女の魂が飛び去っていった空と、今日の空はどこか似ていた。怖いほどの青さと、雲を従えない傲慢なまでの静けさ。
「馬鹿じゃねぇの。ここで終わりか」
何も聞こえなくなったと思っていた耳に、低い女の声が響いた。それはキールにとって忘れることのできない声。死んだはずの師の声だ。
何故彼女の声が聞こえるのか。そんな疑問は浮かばなかった。それは不思議と、非道く自然な現象のように感じられたのだ。
それと同時に、死者と会話ができると言うことによって、自分の近い未来を見ることも。
「リネア…?」
「死に方には拘れって言っただろう? これがお前の満足のいく死に方なのか?」
声など出ないとは思ったが、掠れた声は確かに自分自身のものだった。その声で名を呼ぶと、リネアはなんの感慨もなさげにキールを嘲った。
「惚れた女一人守れず、目的も果たせず、こんな僻地で一人で死ぬのがお前の望みだったのか?」
そう吐き捨てるリネアはいつになく不機嫌だと思った。彼女の弟子だった頃は、こんな表情にも声にも何度も触れていた。だから気まぐれな癖に手負いの豹のような女の不機嫌には慣れていた。
けれど今日の彼女はいつもとは一味違う。直感的にキールはそう感じた。
「いや」
「じゃあ、なんで倒れてるんだ?」
「手が届かなかっただけだ」
「はっ、自分の実力を知らないからそんなことになるんだよ」
「そうだな」
「お前は馬鹿だ」
「……ああ」
「お前は大馬鹿野郎だ、キール」
まただ、キールはそう思った。彼女は自身が死ぬときもキールの名前を呼んでくれた。そして今も名前を呼んでくれる。少しは認めてやってもいいと言わんばかりの態度で、馬鹿にしながらも非道く優しげに。
「お前、自分が何をしてるかわかってるのか?」
「死にかけてる」
「大当たりだ」
そしてリネアは溜息を吐く仕草をした。
「無駄に死ぬなって言っただろ」
「ああ、言われた」
「お前は生きて帰らなきゃいけないんじゃないのか?」
「ああ、その通りだ」
「なのになんで倒れてるんだ、馬鹿野郎」
激情を押さえたように吐き捨てたリネアの目は、ぎらぎらと輝いていた。最高級の紅玉すら霞むほどの、どこか狂気を秘めた深紅の目がキールをのぞき込む。そして、仕方がないというように笑った。
小さな子供をあやすように、馬鹿にするように、それでいて慈しむように。
「ま、仕方がねぇな。実力不足だ」
あっさりと言い捨て、リネアはキールの頬に掌を寄せた。女らしさや、柔らかさを捨てた手だった。乾燥してがさついていて、その上あちこちにたこができて、ごるごつしている。けれどその暖かさだけは何よりも優しい。
リネアはその優しい掌でキールの頬を包み込み、正面から顔をのぞき込んだ。倒れているキールの横に膝をついているらしく、少し斜めではあったが、彼女の視線はまっすぐにこちらを見ていた。
「あたしは怒ってるんだ、馬鹿な弟子が早死にしやがるから」
「リネア?」
「でも仕方がないとも思ってる。お前、割と平和主義者だっただろう」
「そうか?」
「ああ、暗殺なんかにゃ向いてなかったぜ?」
そしてリネアはふっと笑った。
それは彼女が死の直前に見せた、非道く優しく、見ていて涙がでるような微笑みだった。
「だからお前は他人のために死ぬと思ってた」
言葉を切ると、彼女は屈み込み、キールの唇に自分の唇を噛み付くように押しつけた。
その素っ気ない触れあいは生前の彼女そのもののようだった。触れようとすれば容赦なく切り刻もうとする癖に、不意に与える温もりは何よりも優しかった。けれど非道く気まぐれな性質の所為で、八つ当たりをされたり、殺されかけたりしながらも、惹かれてしまう、彼女そのものだと思った。
「だけどあたしは怒ってるんだ、それだけ覚えておけよ」
唇を離し、恨みがましく告げると、リネアの姿は光に透けて見えなくなった。
その白い光はとても眩しく、全てを吸い取られるような気がした。それはとても気持ちが良い行為のように感じられた。だが、どうせならもっと弱々しい、銀色の光に包まれたいとも思った。そう、病に伏した妻を守る、月のような。
そしてキールの意識は途切れた。彼は、死んだ。
『unrequited love』
2004年1月12日 紅 ふらりとベッドに倒れ込み、瞼を閉じた。
眼球の奥がぎりぎりと痛む気がした。なんだかよくわからないけれど、色取り取りの記憶が頭の中で暴れている。それは空の青だったり、木々の緑だったり、衣服の黒だったりした。けれどその中でも一際強く輝くのが紅だった。
血の色だ。暗闇の中で誰かを殺しても、はっきりと見える深紅の液体。ぬめるその感触とともに、強い視線を感じた。そう、深紅はあの目の色だ。
いつも何かに輝いていた目だった。酒を飲んでいるときも、会話をしているときも。馬鹿にしたように、心底おかしそうに、笑う目はいつだって光を帯びていた。
そして、戦うときはぎらぎらとその目を輝かせるのだ。細身の剣を持ちながら、容赦のない太刀筋で攻撃を仕掛けてくる。そんなとき、彼女の目はいつも、心底楽しそうに狂気を帯びていた。
それなのに、人を殺すときだけはその目から光がなくなった。普段は見られない酷薄さだけが、その深紅を覆い隠し、無表情のまま血の海に立っている。それが彼女だった。
そんな女が、記憶の中で非道く優しげに微笑んだ。
懐かしい人を思い出し、キールは低く笑った。
一瞬、脳裏に映った女は、すぐにその姿を消した。いつものことだ。彼女は記憶の底からなかなか出てきてはくれない。時折、気まぐれといった風に顔をのぞかせ、すぐに消え去ってしまう。
そうして、次の瞬間に脳裏に映ったのは違う女だった。つい先日会ったばかりで、今日名前を知ったばかりの女。けれど非道く魅力的な人にあらざる獣人。彼女の目も、澄んだ紅をしていた。血に汚れていない色だと思った。
記憶の中の女と違い、彼女は清廉さを兼ね備えていた。銀色の髪も、白い肌も、その魔力も。すべてが光の中にあって、闇の中に置いても光を纏うことができる。彼女の光は太陽のものではなく、月の光だからだ。
そんなことを思いだし、うっすらと目を開けると、空には銀色の月が輝いていた。どことなく不格好な、上弦の月だ。あの光は、この世界にいる彼女に、惜しげなく力を注いでいるのだろう。彼女はそれに値する人だ。
『死に方には拘れ』
不意に耳の奥で懐かしい言葉が響いた。どうやら、今日はいつになく記憶の中の女の気が向いているらしい。声まで聞かせてくれるとは今までにはない贅沢だ。
師と仰ぎ、最期を看取った女の言葉に、キールは小さく笑った。
今なら良い死に方が思いつく気がする。
何を賭けても、守りたい人がいるから。
眼球の奥がぎりぎりと痛む気がした。なんだかよくわからないけれど、色取り取りの記憶が頭の中で暴れている。それは空の青だったり、木々の緑だったり、衣服の黒だったりした。けれどその中でも一際強く輝くのが紅だった。
血の色だ。暗闇の中で誰かを殺しても、はっきりと見える深紅の液体。ぬめるその感触とともに、強い視線を感じた。そう、深紅はあの目の色だ。
いつも何かに輝いていた目だった。酒を飲んでいるときも、会話をしているときも。馬鹿にしたように、心底おかしそうに、笑う目はいつだって光を帯びていた。
そして、戦うときはぎらぎらとその目を輝かせるのだ。細身の剣を持ちながら、容赦のない太刀筋で攻撃を仕掛けてくる。そんなとき、彼女の目はいつも、心底楽しそうに狂気を帯びていた。
それなのに、人を殺すときだけはその目から光がなくなった。普段は見られない酷薄さだけが、その深紅を覆い隠し、無表情のまま血の海に立っている。それが彼女だった。
そんな女が、記憶の中で非道く優しげに微笑んだ。
懐かしい人を思い出し、キールは低く笑った。
一瞬、脳裏に映った女は、すぐにその姿を消した。いつものことだ。彼女は記憶の底からなかなか出てきてはくれない。時折、気まぐれといった風に顔をのぞかせ、すぐに消え去ってしまう。
そうして、次の瞬間に脳裏に映ったのは違う女だった。つい先日会ったばかりで、今日名前を知ったばかりの女。けれど非道く魅力的な人にあらざる獣人。彼女の目も、澄んだ紅をしていた。血に汚れていない色だと思った。
記憶の中の女と違い、彼女は清廉さを兼ね備えていた。銀色の髪も、白い肌も、その魔力も。すべてが光の中にあって、闇の中に置いても光を纏うことができる。彼女の光は太陽のものではなく、月の光だからだ。
そんなことを思いだし、うっすらと目を開けると、空には銀色の月が輝いていた。どことなく不格好な、上弦の月だ。あの光は、この世界にいる彼女に、惜しげなく力を注いでいるのだろう。彼女はそれに値する人だ。
『死に方には拘れ』
不意に耳の奥で懐かしい言葉が響いた。どうやら、今日はいつになく記憶の中の女の気が向いているらしい。声まで聞かせてくれるとは今までにはない贅沢だ。
師と仰ぎ、最期を看取った女の言葉に、キールは小さく笑った。
今なら良い死に方が思いつく気がする。
何を賭けても、守りたい人がいるから。
鈍い鉄の匂いに思わず駆け出すと、荒野のど真ん中に見慣れた姿が腰を下ろしていた。がらくたとなりはてた馬車に寄りかかっている。片膝を立て、もう一方の足は力無く投げ出されている。頭も馬車の残骸に頼らせ、静かに青空ばかりを見つめている。
全身黒い服を着ているため目立たないが、下腹の辺りからははっきりと血の匂いがする。よく見れば裾が切り裂かれている。止血に使ったのだろう。
キールの足音に気づいたのか、彼女は物憂げな仕草で視線を寄越した。黒髪の隙間から見える深紅の瞳が、一瞬だけきらりと光った。
「よう、遅かったな」
「…………」
思わず言葉を失ったキールなどお構いなしに、彼女は喉の奥で低く笑った。頬についた擦り傷を無造作に拭い、しっかりを顔をこちらに向ける。そしてまた、笑った。
「見ての通り、この様だ。仕事は成功したけどな」
そんじょそこらの男などより、余程乱雑な言葉遣い。けれど彼女にはそんな雰囲気が似合っている。低いアルトの声が紡ぎ出すのは、仕事を終えた後の軽い疲労感だけだ。苦痛の色など、微塵も伺えない。
「…大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら、お前、眼科に行ってこい」
掠れた声で問うと、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑った。
それから、「痛むだけだ」と掠れた声で返事が返ってきた。先ほどと同じで苦痛の色など見えない声だが、ふとした拍子に零れる吐息からは、いつもの勢いがない。
そしてまた彼女は空を見上げた。
「見ろよ、坊主。空が青いぞ」
「リネア」
「すげぇなぁ。今ならきっと手が届く。そんな気がしないか?」
「リネア!」
「……なんだよ」
煩ぇ、と呟きながら、リネアがやっとこちらを向いた。
「早く町に戻るぞ。医者に行こう」
「いらねぇ」
「馬鹿、死ぬぞ?」
「馬鹿はお前だ。こんな傷で走り回ってみろ、出血多量で死ぬ」
「…………」
「馬車に揺られるのも御免だからな。内臓をやられてる」
ここから動かないという意志を見せつけると、彼女はまた喉の奥でくっと笑った。
死を目の前にしながら、彼女は笑った。それは自棄になった訳でもない、ましてや卑屈な笑いでもないし、狂った訳でもない。
「死にそうになると、何でだか知らないけど笑えてくるんだ。今までずっとそうだった。今も同じだ、腹の底から笑いたくて仕方がない」
「リネア……」
「馬鹿の一つ覚えみたいに呼ぶなよ、坊や。ああ、駄目だ、お前の顔見ると笑っちまう」
そう言ってくつくつと笑い出す女を、キールは呆然と眺めた。この女はいったい何なんだと、顔に書いてある。
死を覚悟しているのかもしれないが、その瞳はまっすぐに空を見ている。その紅い視線が時折、キールを見つめ、にやりと笑う。それは彼が知っているいつもの彼女だった。
「この空をよく覚えておけよ。あたしがこれから行く空だ」
「……そんなこと、言うな」
「聞きたくなきゃ、耳塞いでな」
長いつき合いの女から立ち上る死の香りを、認めたくない一心で足掻くと、ぴしゃりと返事が飛んでくる。
彼女はいつだってそうだった。
「人殺しの最期なんてこんなもんだろ」
ふっと笑いを納め、彼女はまた静かに空を見つめ返す。その目は本当は、もう何も見えていないのかもしれない。そんな不安が胸をよぎると同時に、キールの胸の中心に鈍い痛みが走った。それは忘れようとしても、気づかないようにしても、真実を暴く痛みだ。人を殺す者として、誰よりも死の瞬間を知るものとしての経験が告げる、警鐘なのだ。
「……座れば?」
唇を噛みしめて無言になったキールにそう促し、リネアは自分の右横の隙間を軽くたたいた。
キールはそこに吸い込まれるように、ふらりと腰を下ろす。小さい頃からいろいろと命令されてきた所為か、彼女の言葉にはなんとなく従ってしまう。
「人間って、死ぬために生きてるんだぜ。知ってたか?」
「…知るかよ」
「あ、そ。あたしの師匠が教えてくれたんだ。人間はいつか死ぬ。あたしらはそれをちょっと早めてるだけだって。詭弁だよな」
「ああ、俺もそう思う」
「で、その順番が回ってきた。それだけのことだ。……あーあ、もう痛みも感じやしねぇ」
言うだけ言って、リネアは身体から力を抜いた。馬車の残骸に全体重をかけていることがわかり、キールは思わず不安になった。
「おい」
「ん?」
「……なんでもない」
「へぇ?」
大丈夫かと聞きそうになった。けれどどう見ても大丈夫ではない彼女にそんなことを言えば、また馬鹿にされたあげく、坊やと呼ばれるのが落ちだ。
結局、どう足掻いてもこの人をとどめることなどできないのだ。その身体も、心も。
ふと胸の辺りから迫り上がってきた衝動に駆られ、少しばかり無理な体勢でリネアの身体を抱きしめた。
力の入っていない女の身体は、それだけでたやすく腕の中に収まる。いつも追いかけていた背中が、想像以上に小さかったことも、今になってようやく気づいた。
「…どうした?」
「……うるせぇ」
「はっ、あたしにそんなこと言うなんて言い度胸じゃないか。でもまぁ、今日は大目に見てやるよ」
「……」
きっと今、自分は泣きそうな貌をしている。そんな気がしたから、キールはリネアの顔を自分の胸に押し込んだ。彼女は抵抗らしい抵抗もしない。ただ「苦しい」と呟いただけだった。
それからぽんとキールの腕を軽くたたいた。
「お前、でかくなったなぁ」
「当たり前だ。最初に会った時から何年たったと思ってるんだ?」
「知るかよ。五、六年ってとこか? お前は生意気なガキだったことしか覚えてねぇよ」
「あんたはきつい上に我が侭だったよ」
初めてあった日のことを思い出す。あの頃はまだ十代の半ばにも達していない子供だった。何も知らない癖に、強がりばかり言う、ただの子供だったのだ。そんな記憶に小さく笑うとリネアも笑った。
それからしみじみとした口調で、笑いながら呟いた。
「大きくなったな、キール」
はっと顔を上げると、腕の中から猫のような大きな紅玉が笑っていた。
十歳以上年上のリネアがキールの名前を呼んだことは少ない。記憶にあるのは、初めての仕事を成功させたときとか、そんな特別な日くらいだ。何より彼女はキールを顎で使っていたから、名前など呼ぶ必要もなかったし、呼ぶときも坊やとか坊主とかそんな風に呼ばれていた。
だから彼女に名前を呼ばれるのは本当に久しぶりだったのだ。
「お前、死ぬなよ」
「無茶言うな…」
「死んでも良いけど、無駄に死ぬなよ。妥協するな、死に方には拘れ。時間と場所をきっちり弁えろ。そうでなきゃ、死ぬな」
「……」
「返事は?」
「あんたはなんだってそう、いつも無茶ばっかり言うんだ……」
掠れた声で言うと、リネアの身体が微かに震えた。笑っているのだ。
「無駄に死なれたくないからさ。生きろよ、キール」
生きるんだ。そう呟いたリネアの目は、微かに濁っていた。腕の中の身体からも、徐々に熱が喪われつつある。命の名残が、少しずつ消え去ろうとしているのが、肌で感じ取られ、キールは腕に力を込めた。
「…ああ、馬鹿、泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「涙は女の武器だ。男が垂れ流していいもんじゃない。もっと大事な時のために取っておけ」
見えていないのだろうに、否、見えていない所為か、リネアは非道く敏感にキールの思いを察した。
それからおぼつかない手つきで、そっとキールの頬に触れ、「やっぱり泣いてる」と呟いた。
「でも俺は」
「あん?」
「今、泣くのは正しいと思う」
「……」
「あんたが死ぬのは、嫌だから」
噛みしめるように呟く。しばらくの間、リネアは無表情を保っていたが、急に微笑んだ。蕾がほころぶように。血と死にまみれて生きてきたとは思えないほど、優しく静かな笑顔だった。
「お前、いい男になったよ」
「……」
「生きろよ、キール。あたしが死んでも、お前は生きてるんだ」
「わかってるよ」
それから、いつものように彼女はにやりと笑った。
「冥土の土産だ。貰っておけ」
そう言って、キールの唇に自らの唇を押し当て、もう一度笑った。
そして、静かに目を閉じた。
それだけだった。
そうして、誰よりも強く傲慢で優しかった女は、雲一つ無い青空へ飛びだっていった。
全身黒い服を着ているため目立たないが、下腹の辺りからははっきりと血の匂いがする。よく見れば裾が切り裂かれている。止血に使ったのだろう。
キールの足音に気づいたのか、彼女は物憂げな仕草で視線を寄越した。黒髪の隙間から見える深紅の瞳が、一瞬だけきらりと光った。
「よう、遅かったな」
「…………」
思わず言葉を失ったキールなどお構いなしに、彼女は喉の奥で低く笑った。頬についた擦り傷を無造作に拭い、しっかりを顔をこちらに向ける。そしてまた、笑った。
「見ての通り、この様だ。仕事は成功したけどな」
そんじょそこらの男などより、余程乱雑な言葉遣い。けれど彼女にはそんな雰囲気が似合っている。低いアルトの声が紡ぎ出すのは、仕事を終えた後の軽い疲労感だけだ。苦痛の色など、微塵も伺えない。
「…大丈夫か?」
「大丈夫に見えるなら、お前、眼科に行ってこい」
掠れた声で問うと、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑った。
それから、「痛むだけだ」と掠れた声で返事が返ってきた。先ほどと同じで苦痛の色など見えない声だが、ふとした拍子に零れる吐息からは、いつもの勢いがない。
そしてまた彼女は空を見上げた。
「見ろよ、坊主。空が青いぞ」
「リネア」
「すげぇなぁ。今ならきっと手が届く。そんな気がしないか?」
「リネア!」
「……なんだよ」
煩ぇ、と呟きながら、リネアがやっとこちらを向いた。
「早く町に戻るぞ。医者に行こう」
「いらねぇ」
「馬鹿、死ぬぞ?」
「馬鹿はお前だ。こんな傷で走り回ってみろ、出血多量で死ぬ」
「…………」
「馬車に揺られるのも御免だからな。内臓をやられてる」
ここから動かないという意志を見せつけると、彼女はまた喉の奥でくっと笑った。
死を目の前にしながら、彼女は笑った。それは自棄になった訳でもない、ましてや卑屈な笑いでもないし、狂った訳でもない。
「死にそうになると、何でだか知らないけど笑えてくるんだ。今までずっとそうだった。今も同じだ、腹の底から笑いたくて仕方がない」
「リネア……」
「馬鹿の一つ覚えみたいに呼ぶなよ、坊や。ああ、駄目だ、お前の顔見ると笑っちまう」
そう言ってくつくつと笑い出す女を、キールは呆然と眺めた。この女はいったい何なんだと、顔に書いてある。
死を覚悟しているのかもしれないが、その瞳はまっすぐに空を見ている。その紅い視線が時折、キールを見つめ、にやりと笑う。それは彼が知っているいつもの彼女だった。
「この空をよく覚えておけよ。あたしがこれから行く空だ」
「……そんなこと、言うな」
「聞きたくなきゃ、耳塞いでな」
長いつき合いの女から立ち上る死の香りを、認めたくない一心で足掻くと、ぴしゃりと返事が飛んでくる。
彼女はいつだってそうだった。
「人殺しの最期なんてこんなもんだろ」
ふっと笑いを納め、彼女はまた静かに空を見つめ返す。その目は本当は、もう何も見えていないのかもしれない。そんな不安が胸をよぎると同時に、キールの胸の中心に鈍い痛みが走った。それは忘れようとしても、気づかないようにしても、真実を暴く痛みだ。人を殺す者として、誰よりも死の瞬間を知るものとしての経験が告げる、警鐘なのだ。
「……座れば?」
唇を噛みしめて無言になったキールにそう促し、リネアは自分の右横の隙間を軽くたたいた。
キールはそこに吸い込まれるように、ふらりと腰を下ろす。小さい頃からいろいろと命令されてきた所為か、彼女の言葉にはなんとなく従ってしまう。
「人間って、死ぬために生きてるんだぜ。知ってたか?」
「…知るかよ」
「あ、そ。あたしの師匠が教えてくれたんだ。人間はいつか死ぬ。あたしらはそれをちょっと早めてるだけだって。詭弁だよな」
「ああ、俺もそう思う」
「で、その順番が回ってきた。それだけのことだ。……あーあ、もう痛みも感じやしねぇ」
言うだけ言って、リネアは身体から力を抜いた。馬車の残骸に全体重をかけていることがわかり、キールは思わず不安になった。
「おい」
「ん?」
「……なんでもない」
「へぇ?」
大丈夫かと聞きそうになった。けれどどう見ても大丈夫ではない彼女にそんなことを言えば、また馬鹿にされたあげく、坊やと呼ばれるのが落ちだ。
結局、どう足掻いてもこの人をとどめることなどできないのだ。その身体も、心も。
ふと胸の辺りから迫り上がってきた衝動に駆られ、少しばかり無理な体勢でリネアの身体を抱きしめた。
力の入っていない女の身体は、それだけでたやすく腕の中に収まる。いつも追いかけていた背中が、想像以上に小さかったことも、今になってようやく気づいた。
「…どうした?」
「……うるせぇ」
「はっ、あたしにそんなこと言うなんて言い度胸じゃないか。でもまぁ、今日は大目に見てやるよ」
「……」
きっと今、自分は泣きそうな貌をしている。そんな気がしたから、キールはリネアの顔を自分の胸に押し込んだ。彼女は抵抗らしい抵抗もしない。ただ「苦しい」と呟いただけだった。
それからぽんとキールの腕を軽くたたいた。
「お前、でかくなったなぁ」
「当たり前だ。最初に会った時から何年たったと思ってるんだ?」
「知るかよ。五、六年ってとこか? お前は生意気なガキだったことしか覚えてねぇよ」
「あんたはきつい上に我が侭だったよ」
初めてあった日のことを思い出す。あの頃はまだ十代の半ばにも達していない子供だった。何も知らない癖に、強がりばかり言う、ただの子供だったのだ。そんな記憶に小さく笑うとリネアも笑った。
それからしみじみとした口調で、笑いながら呟いた。
「大きくなったな、キール」
はっと顔を上げると、腕の中から猫のような大きな紅玉が笑っていた。
十歳以上年上のリネアがキールの名前を呼んだことは少ない。記憶にあるのは、初めての仕事を成功させたときとか、そんな特別な日くらいだ。何より彼女はキールを顎で使っていたから、名前など呼ぶ必要もなかったし、呼ぶときも坊やとか坊主とかそんな風に呼ばれていた。
だから彼女に名前を呼ばれるのは本当に久しぶりだったのだ。
「お前、死ぬなよ」
「無茶言うな…」
「死んでも良いけど、無駄に死ぬなよ。妥協するな、死に方には拘れ。時間と場所をきっちり弁えろ。そうでなきゃ、死ぬな」
「……」
「返事は?」
「あんたはなんだってそう、いつも無茶ばっかり言うんだ……」
掠れた声で言うと、リネアの身体が微かに震えた。笑っているのだ。
「無駄に死なれたくないからさ。生きろよ、キール」
生きるんだ。そう呟いたリネアの目は、微かに濁っていた。腕の中の身体からも、徐々に熱が喪われつつある。命の名残が、少しずつ消え去ろうとしているのが、肌で感じ取られ、キールは腕に力を込めた。
「…ああ、馬鹿、泣くなよ」
「泣いてねぇ」
「涙は女の武器だ。男が垂れ流していいもんじゃない。もっと大事な時のために取っておけ」
見えていないのだろうに、否、見えていない所為か、リネアは非道く敏感にキールの思いを察した。
それからおぼつかない手つきで、そっとキールの頬に触れ、「やっぱり泣いてる」と呟いた。
「でも俺は」
「あん?」
「今、泣くのは正しいと思う」
「……」
「あんたが死ぬのは、嫌だから」
噛みしめるように呟く。しばらくの間、リネアは無表情を保っていたが、急に微笑んだ。蕾がほころぶように。血と死にまみれて生きてきたとは思えないほど、優しく静かな笑顔だった。
「お前、いい男になったよ」
「……」
「生きろよ、キール。あたしが死んでも、お前は生きてるんだ」
「わかってるよ」
それから、いつものように彼女はにやりと笑った。
「冥土の土産だ。貰っておけ」
そう言って、キールの唇に自らの唇を押し当て、もう一度笑った。
そして、静かに目を閉じた。
それだけだった。
そうして、誰よりも強く傲慢で優しかった女は、雲一つ無い青空へ飛びだっていった。