ふぅわりと風が流れ込んで、生暖かな血のにおいを運んでくれる。それは生臭さよりも、鉄臭さが目立つ、深紅の薔薇のような甘い香り。
 首筋から流れ出たそれを見て、彼女はうっとりと恍惚の表情を見せた。幸せで幸せで仕方がないと言いたげな顔は、とても美しかった。紅を差したように色づいた頬。それとは対照的に、色を失いだした唇。震える瞼の下では、濡れた瞳が揺れている。
 柔らかな唇から零れる吐息は、何処までも甘い。

「嬉しい…」
「それは光栄」

 心にもない言葉を返すと、彼女はまた微笑んだ。蕾がほころぶかのように、美しく、艶やかに。

「嬉しいわ。好きな人に殺してもらえるなんて。私はきっと世界一の果報者ね。誰よりも幸せな自信があるわ」

 震える声と吐息は、矢張り甘い。句読点を忘れたように、一息で言い切ると、彼女はゆったりと身体から力を抜いた。
 死にたがりで自殺志願の、まるで人形のような少女。心を持たず、思いを持たず、たった一つの望みを抱え、ここまで生きてきた彼女は、決して狂ってなどいなかった。
 彼女はただ純粋に、死にたかったのだ。

「本望かい?」
「勿論よ」
「好きだよ」
「愛しているわ」

 にっこりと微笑むと、彼女はそのまま目を閉じた。浅い呼吸は続いているが、しばらくすればそれも終わるだろう。彼女の身体から香る、血と死の匂いがそれを如実に表している。
 この少女のことを、愛してると思ったことはない。
 この少女のことを、助けてやろうと思ったこともない。
 この少女のことを、利用しようとは思った。
 けれど、この少女のことを、ただ愛しいと思った。
 利害は一致した。
 首筋から流れ出た紅玉のような液体を、一滴残らず飲み干す。舌先で生温い温度を味わい、渇いた喉を潤し、自身の身体の隅々まで、彼女が行き渡るように。

「ごちそうさま、お休み。愛しい人」

 帽子掛けからシルクハットを取り、コートを羽織り、優雅に一礼。一瞬とはいえ、心動かされた愛しい御馳走へ、感謝の気持ちを込めて。
 微かに後ろ髪引かれる思いを引きずりながら、彼はその場を立ち去った。
「何故、と聞かれてもね」
 彼は心底困ったような口調で、腕の中の少女に呟いた。
「残念ながら僕は生きている。生きるという定義については、この際気にしないでおくとしようか」
 そして少女の栗色の前髪を軽く払った。露わになった額に、冷えた唇を寄せる。その、触れるか触れないかの微妙な位置で、彼は静かに笑った。
「僕らは食べずとも眠らずとも、死なないだろう。けれど、喉は乾くし、飢えも疲労も感じる。現に先ほどまで、僕はとても疲れていた。最近、本当の食事をしていなかったしね」
 額に一度、浅く口付け、その唇を彼は移動させた。額から、鼻筋を通って、固く閉ざされた瞼へと。この薄い皮膚の下には、何色の瞳があったか。それすら、覚えていない。
「君はそんな場合どうする? きっと優雅なティータイムなり、豪華なディナーを楽しむだろう?」
 今度は瞼から、こめかみを伝って頬へ。暖かな薔薇色をしていた頬は、血の気が失せた今でも、柔らかい。
「僕も同じことをしたまでだ。渇いたまま生き続けるというのは、一種の拷問だからね」
 顎の縁を伝うように唇を這わせる。
「君たちは、飢えたまま放置されれば死ぬ。それはとても良いことなんだよ。死ねると言うことは、この上なく幸福であり、安住の地を見つめられると言うことなんだから」
 彼の腕の中で力無く横たわる身体は、重力に従い、すぐに膝の上からずり落ちそうになってしまう。一旦、彼は唇を離し、その身体を優しく抱き直してから、その顔に向き直った。
「長く生きると、生きることに飽きてくる。けれど自然に死ぬことは叶わなく、自ら消滅の道を選ぶのは、少しばかり癪でね。そうやって、ここまで来てしまった」
 先ほど、唇で触れた頬に今度はそっと掌を寄せる。
「僕はとても不便な生き物なのさ。本当に何故、こんな生き物が存在しているんだろうね。それは誰にもわからない。繁殖に向いているわけでもないし、生きて苦労を感じたことはないが、常に疲労ばかり感じている」
 それから、とてもおいしかった彼女に敬意を表し、その桜桃のような唇をそっと啄んだ。尤も、色はすでに薄紅色などしていなかったが。
「けれど、たまに君のような人に会えると、とても嬉しくなるよ。僕らを恐れず、疑問を投げかけてくれると、とても楽しい。ありがとう」
 素直に礼を述べると、彼は少女の身体を抱き寄せた。すでに命の消えた身体は冷たくなっていたが、そのひんやりとした感触は心地よかった。
 彼女の身体が、彼自身の体温と同じになったと感じたあと、彼女の身体をそっとその場に横たえた。

「ごちそうさま」

 最後の挨拶に、彼はその言葉を選ぶと、翼を広げ夜の空に飛び立っていった。
 すでに日は落ち、辺りにガス灯の光が瞬き出す頃。
 オープンカフェの一席に、一人の男が腰を下ろしていた。彼の目の前には白い生クリームに包まれたワッフルが、マイセンの皿の上に鎮座している。僅かに恥じらいを含んだかのように、クリームとストロベリーソースの合間から、丁寧に生地がのぞいている。
 彼はナイフとフォークを使い、優雅にそれを切り分けると、なにやら神妙な面持ちで、その一切れを口に運んだ。
 口の中に広がるのは、甘さを控えたクリームと、ストロベリーソースの絶妙な舌触り。そして柔らかなワッフルと、その下に少しだけ侍らされたカスタードクリーム。
 それらを堪能し、彼は静かに、顔をほころばせた。
 それを見た妙齢のご婦人や、瑞々しい少女が頬をそっと赤らめた。理由は単純だ。彼がとても美しかったからである。
 年の頃は二十代半ばといった辺りだろう。
 タキシードに包まれた身体は、どちらかと言えば細身ではあるが、脆弱な気配は全くない。ガス灯に照らされる髪は、一見黒に見えるが、よくよく見ると微かに紫を帯びている。同じように、瞳も黒に近い青。彼は神秘的な雰囲気が漂う青年だった。
 けれどその近寄りがたさは、甘い物に舌鼓を打つ姿によって、薄められている。ご婦人方など、声をかけたいが、はしたないと思われたくないと真剣に思いながら、ちらりちらりと熱い眼差しを送っているのだ。

 今日の副菜を食べ終えた青年は、黒に近い青の瞳をぐるりと巡らせた。そうすると、彼の周囲にいる女性達の姿が嫌と言うほど目に入る。だが、彼はそれを嫌と思ったことなど一度もない。むしろ嬉しいくらいだ。
 一人一人、目を合わせないように観察し、彼は一人の少女に目をとめた。
 年はまだ若い。二十歳にはなっていないだろう。柔らかそうなな白い肌をしている。襟ぐりの大きなドレスを身に纏い、栗色の髪をまとめ上げているので、華奢な項と首筋が露わになっている。その細い首筋に惹かれた。
 立ち上がり、少女に近づくと、彼女は心底驚いた顔をして、そっと頬を赤らめた。その若く瑞々しい仕草は、実に愛らしいと青年は思う。
 一言二言、言葉を交わし、ご一緒しませんかと告げると、彼女はみるみるその白い首筋を赤く染め、潤んだ瞳で頷いた。
 彼はその赤くなった首筋を見つめ、それでも矢張り色の白い肌の下で脈動する、頸動脈に目を細めた。それは今すぐ、この場で口づけてしまいたい欲求を覚えるほどに、可憐で美しく、甘い香りを放っていた。
 少女の手を取り歩きながら、彼は月に向かって笑った。
 今日の主菜には、とても満足できそうだ。

 これが甘党な吸血鬼の、愛すべき日常。
 彼女の名はウィン。
『私の名前は“WIND”――縛られないもの』

 彼の名はフリード。
『僕の名前は“FREEDOM”――囚われないもの』

 彼女の名はリバー。
『あたしの名前は“LIBERATION”――解き放つもの』

 地下の世界に人を閉じこめる神達。
 けれど彼らは、何事にも縛られず、何者にも縛られず、解き放たれることを、求めていた。
 一般人には立ち入りが禁止されている区域に入り込み、呆気なく警備員に捕まり、少年はこの牢獄に押し込められた。
 この世界では、人間さえコンピュータで管理されている。そのため一度犯罪者と認定されると、その後の人生をずっと苦労することになる。文字通りレッテルを貼られ、公共の施設からは追い出される。
 どれだけ演技力があろうと、どれほど肉体を改造しようと、登録されたDMAは取り消せない。そう言うことだ。
 これから先のことを考え、少年は溜息を吐いた。
『よう、少年。顔が暗いネェ』
 唐突に少女の声が聞こえ、彼ははっと顔を上げた。隣の牢獄に誰かがいたのだろうか。いや、人間の気配は何処にもなかった。
「誰だ!」
『あたしはあたしサ。何をやったんだい、少年』
 甲高い少女の声は、少年のことなどお構いなしに喋り始めた。彼の質問には答えない癖に、勝手に質問を投げかけてくる。
『んん? 元気がないネ。人生明るく生きなきゃ損するぞ』
 何が楽しいと聞きたくなるほどに、楽しげに笑いながら、彼女は叫ぶように喋り続けた。はっきり言って、新手の拷問かと思うほどに辛い。
「あんたがいなきゃ、もう少し元気かもしれない…」
『つれないネェ。唯一の話し相手じゃないか』
 くつくつと笑いながら声は返事を寄越す。
 その笑い声が気に障り、返事をするのをやめて無視しようと、心に決めた。
 だが、一層しつこく話しかけられ挫折した。大音量で意味不明な言葉を叫ばれるよりは、おとなしくテンションの高い会話につきあった方がマシだ。
「何を話すって言うんだ?」
 うんざりしながらも、会話を続ける。
『この塔からは出られそうか? 地上に手は届きそうか? ディクス』
 この上なく自然に話しかけられ、首を振ってから、少年は気がついた。彼女は今なんと言った。
「なんでお前が俺の名前と投獄理由を知ってるんだ!?」
 呆気にとられながら叫び返すと、声はきゃらきゃらと笑った。
『んん? あたしはココの神様だからサ。知らないことなんて一つもないヨ』
「ふざけるな」
『ふざけちゃいないサ。本当のことだよ、ディー』
 馴れ馴れしく愛称を呼びながら、声は少年をからかうように喋り続ける。
「神なんていない」
『まぁネ』
 あっさりとディクスの言葉を認めると、声は含み笑いをしながら、低く囁いた。
『でもね、あたしはこの世界の神なんだよ。巨大コンピュータ群を支配する管理脳、三柱が一柱、リバーさ』
 少年が生まれ育ったのは、地下の塔だった。
 深く深く、狂ったもぐらのように、底を掘り進めるマイナスの塔。最上階は地上への扉となっているらしいが、定かではない。
 そこを管理するのは巨大なコンピュータ群だ。それらを一括して管理する脳が3つ。
 そして地上に住む人はいない。少なくとも政府はそう発表しているが、そうでないことを少年は知っている。
 塔の最上階に行ったことがある人間はそうそういない。少なくともそういった人間は、政府側の管理人であり、少年とはどうやっても相容れない。
 けれど最上階まで行かずとも、塔のどこかに地上への抜け道があるというのは、ここで暮らす人間にとっては有名な話だ。そのため、政府の人間が見張っているドアや部屋は、外への道なのだと考えられている。
 もちろん、外へ行った人間は帰ってこない。だからその噂が真実かどうかはわからない。単純に地上を求める誰かが言い始めた、都市伝説であるのかも知れない。もしかすれば、政府に殺された誰かを偲んでいるだけなのかもしれない。
 それでも誰もがその噂を信じる。
 誰もが地上への扉を求めているのだ。

 少年はあの日のことを忘れてはいない。
 共に暮らしていた少女が、地上への扉を見つけたと叫んだ日を。
 驚き、本当かと聞き返すと、彼女は自信ありげに笑い、小さくウインクをして見せた。けれどどれだけ聞いても、その扉の在処を教えてはくれなかった。
 そして次の日、彼女は消えた。
 少年がどれほど探そうとも、その姿は見つからず、小さな手がかりさえ見つけることはできなかった。
 だから少年は信じている。
 彼女は自分を置いて、地上へ行ってしまったのだと。

『連鎖』

2003年12月7日 その他連作
 連鎖よ。そう吐息のような細い声で、彼女は呟いた。天使と称された、綺麗な顔を、悲しげに歪めながら。
「父の死で全てが始まったの」
「お父さん?」
 鸚鵡返しに呟くと、彼女は静かに頷いた。染色とは無縁な黒髪が、さらりと一筋揺れた。
「母は父を愛していた。だからその死に耐えられなかった」
 違う世界に行ってしまったの。そう呟く彼女からは、力という物が感じられなかった。弱々しく、まるで耐えるだけの存在のように。
「そして狂った母は父によく似た兄を愛した。父本人と、信じて」
 馬鹿な人。言葉には出さなかったが、彼女の唇が小さく震え、きっとそう言っているのだと安易に予想がついた。
「兄は代用品とわかっていながらも、本当に母を愛してしまった」
 馬鹿な人。今度は言葉に出して、もう一度同じ言葉を呟いた彼女は、どこか遠くを見つめた。もう帰らない過去を惜しんでいるのか、懐かしんでいるのか、憎んでいるのか。
「そして幸せなまま母は死んでしまった」
 静かに黒い目を伏せる。
「なのに、今度は兄が母に囚われた。彼は母によく似た私に、母の面影を探して写真を撮っているの」
「そんな、だってあの人は天使を撮りたいって…」
 そう言っていた。彼は妹の中の天使を探していた。傷ついて、それでも立ち上がろうとする彼女の姿の中に、小さな天使を探していた。
「そうよ」
 凛とした声で肯定を表すと、黒い瞳が寂しげにこちらを見つめた。
「兄にとって、母は天使だった。私は天使じゃない。けれど母は天使だった」
 くだらない。小さな声で呟きながらも、彼女の声は何かを愛していた。その愚かなまでに一途な思いも、勘違いでしかない行動も、その全てを愛しいと思っているかのように。
 その彼女の気持ちこそ、愚かだと思う。けれど、自分が彼女を愛しいと思う気持ちと、それはきっとよく似ているのだろう。

天使哀歌

2003年9月12日 その他連作
天使みたいな人だと思っていた。
白い肌と色の薄い茶色の髪。大きな目は真っ黒で全身が華奢な人だから。
真っ白なワンピースの裾からのぞく足と足首が、折れそうな程に細い人で、もちろん手首も細ければ首も細かった。
薄紅色の唇は不意に柔らかく弧を描いて、周囲の人を魅了するし、真っ直ぐに通った鼻梁は誰もが憧れたと思う。
ただ胸や腰の肉付きが悪いのが、欠点と言えば欠点だったのかも知れない。
でもあれだけ細い人なのだから、それくらいの方が丁度良いのだと、そう何も考えずに思っていた。

けれどある日気づいた。
彼女が天使のようなのは、顔の綺麗さもあるけど、性別を感じさせない所なんじゃないかって。
確かに見た感じは女性なのだけれど、不思議と彼女からは色めいたものを感じないのだ。
確かにこれ以上もなく女らしいのだけれど、その『らしさ』は儚さに由来するものなんじゃないかと。
男なら誰もが彼女には魅せられ、守りたいと願うだろう。
掴めば折ってしまいそうな手首や、触れたら汚してしまうんじゃないかと思わせる白い肌なんかが、その対象なんだ。
天使のような女は、何故か決して女を感じさせない。

彼女は化粧をしない。薄着はするけど、露出は嫌っている。
媚びるように笑ったりもしない。
守りたいとも守られたいとも思っていない。
どうでも良いことを言い連ねることも嫌っている。
さっぱりした気性と言ってしまえばそれだけだが、彼女にはそれ以上のものがあるような気がした。

天使と二人きりになる機会があって、そのことを尋ねたら彼女は口元に笑みを浮かべてこういった。

「不感症なの」

天使のようなこの人が、誰かに抱かれたと言うことは、とてもじゃないけど想像がつかない。
けれど彼女はそんな僕にはお構いなしにぽつりと呟いた。

「いつか女に戻れるのかな…」

性感さえ超越してしまった天使は、人間になりたがっていた。

蜻蛉賛歌

2003年9月11日 その他連作
天使になんてなりたくないのよ。
私は蜻蛉になりたかったの。

生まれて生きて、子をなして死にたいの。
死にたいの、何かを成し遂げて。

消えたいの、生きることを苦痛と感じる前に。
ふと思い出したのは、真っ白な柚の花。
柚が好きというそれだけの理由で、母は私の名に柚の文字をくれた。

戦いの前は、怖くない訳じゃない。
ただ、負けられないなと思うだけ。死にたくないから。
そう思いながら目を閉じてじっとしてると、少しだけ心が軽くなる。
集中の効果かもしれないけど、なんだか世界が薄い膜を被ったような感じになる。
そうなると、大丈夫って思えるの。

選んだ武器は銃だった。
手の平サイズで、これ以上もなく確実に命を奪う武器。
選んだ理由は単純。
軽いこと、持ち運びやすいこと。そして威力が強力であること。
殺される側にしたって、あっさり殺された方が嬉しいだろうと思ったの。
誰だって、痛いのは嫌でしょう?

敵は容赦なんてしてくれない。でも本当は容赦なんてしないで欲しい。
じゃなきゃ、私も容赦なく誰かを殺せない。
対等な立場にいるって、自分を納得させなきゃ、やっていけないから。
もし、敵が手加減をしてるとしたら。
何故そんなことをしているのかなんてわからないけど、確実に私は命を救われている。
そんな相手を殺すのは、やっぱり嫌。
初めて煙草を吸ったときのような、苦い後味が残るだけ。

狙いを定めて、撃つ。
ただそれだけで、確実に誰かが傷ついていく。命を失っていく。
だって、やらなきゃやられるだけ。
殺されたくない、傷つきたくないなんて思ってる人は、こんなところに出てきやしない。
ほら、対等でしょう?

死にたくなんか、ない。
けど、もし殺されるとしても、誰にも助けを求めてはいけない気がする。
自分の意志で戦って、自分の意志で傷ついて。
それなのに、殺される時だけ、他人の意志を借りるなんて、おかしいよね?
大丈夫、独りでも。独りで死んだって、大丈夫。

最近は戦う時に仲間と顔を合わせるだけで、いつも独りでいるような気がする。
会話もせずに、部屋に閉じこもる。それなのに、戦いの時だけはきっちりと顔を出してる。
おかしいね。

昔は、独りが嫌いじゃなかった。
静かに何もない時間を過ごすのも、辛くなんてなかった。
一日の中にいくつもの空白があって、その空白で逆に心が埋まっていた。
今は?
今は、少し寂しい。
独りっていうのは、そんなに良い物じゃないなって思った。
悪いものじゃないけど、みんなといる方が良いと思った。

それなのに独りでいるのは、少しばかり考えたいことがあるから。
もう少ししたら、ひょっとしたらもっと長い時間が必要かも知れないけど、いずれは帰れる時が来るはず。
あの天空に浮かぶ城の中に、秘密があるのは確実なんだから。

けど、私は帰るんだろうか。
帰ったら、何をするんだろう。
勉強をして、進学をして、就職して。それが悪いこととは思わない。
ただ、その生活と今の生活を比べて、どちらが良いかと。
そのことばかり、真剣に考えてしまうの。

向こうにいた頃、私は全てがどうでもよかった。
大切なものも嫌いなものもあったけれど、どこか達観していた。
大切なものを奪われたら、きっと悲しむだろう。けれど、その痛みなんて、すぐに忘れてしまう。
そんな自分は、大切なものを持っているフリをしているだけのような気がした。
それなのに、そんな自分も好きでも嫌いでもなかった。
単純に、どうでもよかった。

煙草を吸い始めたのも、そんな理由からだった気がする。
自分に興味がないから、健康とかそう言ったことにも興味がなかった。
どちらかというと、少しくらい傷つけてみたかったのかもしれない。
それで、痛みとか、苦しみとかを感じて、自分を大事にしたかったのかもしれない。
結果的に、それは成功しなかったけれど、舌に走る苦みは、私が生きてるってことを実感させてくれた。

今、煙草はあんまり吸ってない。
命と命が削りあう、スレスレの境界線で戦っていると、これ以上もなく自分の生を感じられるから。
生きるために必死に戦ってる自分を見ると、情けないけど泣きそうになる。
嬉しくて。嬉しくて。

敵を自分の手で殺すことで、ようやく私は命の重さを知ることができた。
それでやっと自分の命に興味を持って、身を守りたいと思うようになった。
舌先に感じる一瞬の苦みに頼らなくても、生きてるっていう現実を、しっかりと感じ取れるようになった。
それが純粋に嬉しい。

その喜びを教えてくれたこの世界に、私は残るって言い出すかも知れない。
この世界だった、別にそんな命のやりとりをしなくても暮らしていける。
そしてそれは、本当に自分の力だけで生きていかなきゃならない。
親もいないんだから、お金は自分で稼ぐ。
食べ物もないから、稼いだお金で買うか、自分で育てたり狩ったりしなきゃならない。
でもそれは、どれも生きるための行動で、向こうみたいに受動的に生きなくてもいいってこと。
それはやっぱり魅力的。

この世界は、ある意味私にとっての天国なのかもしれない。
生きる意味を教えてくれる、素敵な世界。
楽に生きることも良いけれど、生きることを実感しながら暮らす方がいい。

ただ、帰らないのなら。
柚の花が見れないな、と思った。

「天国は見つかりそう?」

あの白い花が咲き乱れるような、そんな天国は見つかりそう?
焼け野が原での問いかけは、抜け殻となった誰かの身体の上を、通り過ぎていった。

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