ふぅわりと風が流れ込んで、生暖かな血のにおいを運んでくれる。それは生臭さよりも、鉄臭さが目立つ、深紅の薔薇のような甘い香り。
首筋から流れ出たそれを見て、彼女はうっとりと恍惚の表情を見せた。幸せで幸せで仕方がないと言いたげな顔は、とても美しかった。紅を差したように色づいた頬。それとは対照的に、色を失いだした唇。震える瞼の下では、濡れた瞳が揺れている。
柔らかな唇から零れる吐息は、何処までも甘い。
「嬉しい…」
「それは光栄」
心にもない言葉を返すと、彼女はまた微笑んだ。蕾がほころぶかのように、美しく、艶やかに。
「嬉しいわ。好きな人に殺してもらえるなんて。私はきっと世界一の果報者ね。誰よりも幸せな自信があるわ」
震える声と吐息は、矢張り甘い。句読点を忘れたように、一息で言い切ると、彼女はゆったりと身体から力を抜いた。
死にたがりで自殺志願の、まるで人形のような少女。心を持たず、思いを持たず、たった一つの望みを抱え、ここまで生きてきた彼女は、決して狂ってなどいなかった。
彼女はただ純粋に、死にたかったのだ。
「本望かい?」
「勿論よ」
「好きだよ」
「愛しているわ」
にっこりと微笑むと、彼女はそのまま目を閉じた。浅い呼吸は続いているが、しばらくすればそれも終わるだろう。彼女の身体から香る、血と死の匂いがそれを如実に表している。
この少女のことを、愛してると思ったことはない。
この少女のことを、助けてやろうと思ったこともない。
この少女のことを、利用しようとは思った。
けれど、この少女のことを、ただ愛しいと思った。
利害は一致した。
首筋から流れ出た紅玉のような液体を、一滴残らず飲み干す。舌先で生温い温度を味わい、渇いた喉を潤し、自身の身体の隅々まで、彼女が行き渡るように。
「ごちそうさま、お休み。愛しい人」
帽子掛けからシルクハットを取り、コートを羽織り、優雅に一礼。一瞬とはいえ、心動かされた愛しい御馳走へ、感謝の気持ちを込めて。
微かに後ろ髪引かれる思いを引きずりながら、彼はその場を立ち去った。
首筋から流れ出たそれを見て、彼女はうっとりと恍惚の表情を見せた。幸せで幸せで仕方がないと言いたげな顔は、とても美しかった。紅を差したように色づいた頬。それとは対照的に、色を失いだした唇。震える瞼の下では、濡れた瞳が揺れている。
柔らかな唇から零れる吐息は、何処までも甘い。
「嬉しい…」
「それは光栄」
心にもない言葉を返すと、彼女はまた微笑んだ。蕾がほころぶかのように、美しく、艶やかに。
「嬉しいわ。好きな人に殺してもらえるなんて。私はきっと世界一の果報者ね。誰よりも幸せな自信があるわ」
震える声と吐息は、矢張り甘い。句読点を忘れたように、一息で言い切ると、彼女はゆったりと身体から力を抜いた。
死にたがりで自殺志願の、まるで人形のような少女。心を持たず、思いを持たず、たった一つの望みを抱え、ここまで生きてきた彼女は、決して狂ってなどいなかった。
彼女はただ純粋に、死にたかったのだ。
「本望かい?」
「勿論よ」
「好きだよ」
「愛しているわ」
にっこりと微笑むと、彼女はそのまま目を閉じた。浅い呼吸は続いているが、しばらくすればそれも終わるだろう。彼女の身体から香る、血と死の匂いがそれを如実に表している。
この少女のことを、愛してると思ったことはない。
この少女のことを、助けてやろうと思ったこともない。
この少女のことを、利用しようとは思った。
けれど、この少女のことを、ただ愛しいと思った。
利害は一致した。
首筋から流れ出た紅玉のような液体を、一滴残らず飲み干す。舌先で生温い温度を味わい、渇いた喉を潤し、自身の身体の隅々まで、彼女が行き渡るように。
「ごちそうさま、お休み。愛しい人」
帽子掛けからシルクハットを取り、コートを羽織り、優雅に一礼。一瞬とはいえ、心動かされた愛しい御馳走へ、感謝の気持ちを込めて。
微かに後ろ髪引かれる思いを引きずりながら、彼はその場を立ち去った。
「何故、と聞かれてもね」
彼は心底困ったような口調で、腕の中の少女に呟いた。
「残念ながら僕は生きている。生きるという定義については、この際気にしないでおくとしようか」
そして少女の栗色の前髪を軽く払った。露わになった額に、冷えた唇を寄せる。その、触れるか触れないかの微妙な位置で、彼は静かに笑った。
「僕らは食べずとも眠らずとも、死なないだろう。けれど、喉は乾くし、飢えも疲労も感じる。現に先ほどまで、僕はとても疲れていた。最近、本当の食事をしていなかったしね」
額に一度、浅く口付け、その唇を彼は移動させた。額から、鼻筋を通って、固く閉ざされた瞼へと。この薄い皮膚の下には、何色の瞳があったか。それすら、覚えていない。
「君はそんな場合どうする? きっと優雅なティータイムなり、豪華なディナーを楽しむだろう?」
今度は瞼から、こめかみを伝って頬へ。暖かな薔薇色をしていた頬は、血の気が失せた今でも、柔らかい。
「僕も同じことをしたまでだ。渇いたまま生き続けるというのは、一種の拷問だからね」
顎の縁を伝うように唇を這わせる。
「君たちは、飢えたまま放置されれば死ぬ。それはとても良いことなんだよ。死ねると言うことは、この上なく幸福であり、安住の地を見つめられると言うことなんだから」
彼の腕の中で力無く横たわる身体は、重力に従い、すぐに膝の上からずり落ちそうになってしまう。一旦、彼は唇を離し、その身体を優しく抱き直してから、その顔に向き直った。
「長く生きると、生きることに飽きてくる。けれど自然に死ぬことは叶わなく、自ら消滅の道を選ぶのは、少しばかり癪でね。そうやって、ここまで来てしまった」
先ほど、唇で触れた頬に今度はそっと掌を寄せる。
「僕はとても不便な生き物なのさ。本当に何故、こんな生き物が存在しているんだろうね。それは誰にもわからない。繁殖に向いているわけでもないし、生きて苦労を感じたことはないが、常に疲労ばかり感じている」
それから、とてもおいしかった彼女に敬意を表し、その桜桃のような唇をそっと啄んだ。尤も、色はすでに薄紅色などしていなかったが。
「けれど、たまに君のような人に会えると、とても嬉しくなるよ。僕らを恐れず、疑問を投げかけてくれると、とても楽しい。ありがとう」
素直に礼を述べると、彼は少女の身体を抱き寄せた。すでに命の消えた身体は冷たくなっていたが、そのひんやりとした感触は心地よかった。
彼女の身体が、彼自身の体温と同じになったと感じたあと、彼女の身体をそっとその場に横たえた。
「ごちそうさま」
最後の挨拶に、彼はその言葉を選ぶと、翼を広げ夜の空に飛び立っていった。
彼は心底困ったような口調で、腕の中の少女に呟いた。
「残念ながら僕は生きている。生きるという定義については、この際気にしないでおくとしようか」
そして少女の栗色の前髪を軽く払った。露わになった額に、冷えた唇を寄せる。その、触れるか触れないかの微妙な位置で、彼は静かに笑った。
「僕らは食べずとも眠らずとも、死なないだろう。けれど、喉は乾くし、飢えも疲労も感じる。現に先ほどまで、僕はとても疲れていた。最近、本当の食事をしていなかったしね」
額に一度、浅く口付け、その唇を彼は移動させた。額から、鼻筋を通って、固く閉ざされた瞼へと。この薄い皮膚の下には、何色の瞳があったか。それすら、覚えていない。
「君はそんな場合どうする? きっと優雅なティータイムなり、豪華なディナーを楽しむだろう?」
今度は瞼から、こめかみを伝って頬へ。暖かな薔薇色をしていた頬は、血の気が失せた今でも、柔らかい。
「僕も同じことをしたまでだ。渇いたまま生き続けるというのは、一種の拷問だからね」
顎の縁を伝うように唇を這わせる。
「君たちは、飢えたまま放置されれば死ぬ。それはとても良いことなんだよ。死ねると言うことは、この上なく幸福であり、安住の地を見つめられると言うことなんだから」
彼の腕の中で力無く横たわる身体は、重力に従い、すぐに膝の上からずり落ちそうになってしまう。一旦、彼は唇を離し、その身体を優しく抱き直してから、その顔に向き直った。
「長く生きると、生きることに飽きてくる。けれど自然に死ぬことは叶わなく、自ら消滅の道を選ぶのは、少しばかり癪でね。そうやって、ここまで来てしまった」
先ほど、唇で触れた頬に今度はそっと掌を寄せる。
「僕はとても不便な生き物なのさ。本当に何故、こんな生き物が存在しているんだろうね。それは誰にもわからない。繁殖に向いているわけでもないし、生きて苦労を感じたことはないが、常に疲労ばかり感じている」
それから、とてもおいしかった彼女に敬意を表し、その桜桃のような唇をそっと啄んだ。尤も、色はすでに薄紅色などしていなかったが。
「けれど、たまに君のような人に会えると、とても嬉しくなるよ。僕らを恐れず、疑問を投げかけてくれると、とても楽しい。ありがとう」
素直に礼を述べると、彼は少女の身体を抱き寄せた。すでに命の消えた身体は冷たくなっていたが、そのひんやりとした感触は心地よかった。
彼女の身体が、彼自身の体温と同じになったと感じたあと、彼女の身体をそっとその場に横たえた。
「ごちそうさま」
最後の挨拶に、彼はその言葉を選ぶと、翼を広げ夜の空に飛び立っていった。
すでに日は落ち、辺りにガス灯の光が瞬き出す頃。
オープンカフェの一席に、一人の男が腰を下ろしていた。彼の目の前には白い生クリームに包まれたワッフルが、マイセンの皿の上に鎮座している。僅かに恥じらいを含んだかのように、クリームとストロベリーソースの合間から、丁寧に生地がのぞいている。
彼はナイフとフォークを使い、優雅にそれを切り分けると、なにやら神妙な面持ちで、その一切れを口に運んだ。
口の中に広がるのは、甘さを控えたクリームと、ストロベリーソースの絶妙な舌触り。そして柔らかなワッフルと、その下に少しだけ侍らされたカスタードクリーム。
それらを堪能し、彼は静かに、顔をほころばせた。
それを見た妙齢のご婦人や、瑞々しい少女が頬をそっと赤らめた。理由は単純だ。彼がとても美しかったからである。
年の頃は二十代半ばといった辺りだろう。
タキシードに包まれた身体は、どちらかと言えば細身ではあるが、脆弱な気配は全くない。ガス灯に照らされる髪は、一見黒に見えるが、よくよく見ると微かに紫を帯びている。同じように、瞳も黒に近い青。彼は神秘的な雰囲気が漂う青年だった。
けれどその近寄りがたさは、甘い物に舌鼓を打つ姿によって、薄められている。ご婦人方など、声をかけたいが、はしたないと思われたくないと真剣に思いながら、ちらりちらりと熱い眼差しを送っているのだ。
今日の副菜を食べ終えた青年は、黒に近い青の瞳をぐるりと巡らせた。そうすると、彼の周囲にいる女性達の姿が嫌と言うほど目に入る。だが、彼はそれを嫌と思ったことなど一度もない。むしろ嬉しいくらいだ。
一人一人、目を合わせないように観察し、彼は一人の少女に目をとめた。
年はまだ若い。二十歳にはなっていないだろう。柔らかそうなな白い肌をしている。襟ぐりの大きなドレスを身に纏い、栗色の髪をまとめ上げているので、華奢な項と首筋が露わになっている。その細い首筋に惹かれた。
立ち上がり、少女に近づくと、彼女は心底驚いた顔をして、そっと頬を赤らめた。その若く瑞々しい仕草は、実に愛らしいと青年は思う。
一言二言、言葉を交わし、ご一緒しませんかと告げると、彼女はみるみるその白い首筋を赤く染め、潤んだ瞳で頷いた。
彼はその赤くなった首筋を見つめ、それでも矢張り色の白い肌の下で脈動する、頸動脈に目を細めた。それは今すぐ、この場で口づけてしまいたい欲求を覚えるほどに、可憐で美しく、甘い香りを放っていた。
少女の手を取り歩きながら、彼は月に向かって笑った。
今日の主菜には、とても満足できそうだ。
これが甘党な吸血鬼の、愛すべき日常。
オープンカフェの一席に、一人の男が腰を下ろしていた。彼の目の前には白い生クリームに包まれたワッフルが、マイセンの皿の上に鎮座している。僅かに恥じらいを含んだかのように、クリームとストロベリーソースの合間から、丁寧に生地がのぞいている。
彼はナイフとフォークを使い、優雅にそれを切り分けると、なにやら神妙な面持ちで、その一切れを口に運んだ。
口の中に広がるのは、甘さを控えたクリームと、ストロベリーソースの絶妙な舌触り。そして柔らかなワッフルと、その下に少しだけ侍らされたカスタードクリーム。
それらを堪能し、彼は静かに、顔をほころばせた。
それを見た妙齢のご婦人や、瑞々しい少女が頬をそっと赤らめた。理由は単純だ。彼がとても美しかったからである。
年の頃は二十代半ばといった辺りだろう。
タキシードに包まれた身体は、どちらかと言えば細身ではあるが、脆弱な気配は全くない。ガス灯に照らされる髪は、一見黒に見えるが、よくよく見ると微かに紫を帯びている。同じように、瞳も黒に近い青。彼は神秘的な雰囲気が漂う青年だった。
けれどその近寄りがたさは、甘い物に舌鼓を打つ姿によって、薄められている。ご婦人方など、声をかけたいが、はしたないと思われたくないと真剣に思いながら、ちらりちらりと熱い眼差しを送っているのだ。
今日の副菜を食べ終えた青年は、黒に近い青の瞳をぐるりと巡らせた。そうすると、彼の周囲にいる女性達の姿が嫌と言うほど目に入る。だが、彼はそれを嫌と思ったことなど一度もない。むしろ嬉しいくらいだ。
一人一人、目を合わせないように観察し、彼は一人の少女に目をとめた。
年はまだ若い。二十歳にはなっていないだろう。柔らかそうなな白い肌をしている。襟ぐりの大きなドレスを身に纏い、栗色の髪をまとめ上げているので、華奢な項と首筋が露わになっている。その細い首筋に惹かれた。
立ち上がり、少女に近づくと、彼女は心底驚いた顔をして、そっと頬を赤らめた。その若く瑞々しい仕草は、実に愛らしいと青年は思う。
一言二言、言葉を交わし、ご一緒しませんかと告げると、彼女はみるみるその白い首筋を赤く染め、潤んだ瞳で頷いた。
彼はその赤くなった首筋を見つめ、それでも矢張り色の白い肌の下で脈動する、頸動脈に目を細めた。それは今すぐ、この場で口づけてしまいたい欲求を覚えるほどに、可憐で美しく、甘い香りを放っていた。
少女の手を取り歩きながら、彼は月に向かって笑った。
今日の主菜には、とても満足できそうだ。
これが甘党な吸血鬼の、愛すべき日常。
彼女の名はウィン。
『私の名前は“WIND”――縛られないもの』
彼の名はフリード。
『僕の名前は“FREEDOM”――囚われないもの』
彼女の名はリバー。
『あたしの名前は“LIBERATION”――解き放つもの』
地下の世界に人を閉じこめる神達。
けれど彼らは、何事にも縛られず、何者にも縛られず、解き放たれることを、求めていた。
『私の名前は“WIND”――縛られないもの』
彼の名はフリード。
『僕の名前は“FREEDOM”――囚われないもの』
彼女の名はリバー。
『あたしの名前は“LIBERATION”――解き放つもの』
地下の世界に人を閉じこめる神達。
けれど彼らは、何事にも縛られず、何者にも縛られず、解き放たれることを、求めていた。
『Liberation』
2004年2月5日 その他連作 一般人には立ち入りが禁止されている区域に入り込み、呆気なく警備員に捕まり、少年はこの牢獄に押し込められた。
この世界では、人間さえコンピュータで管理されている。そのため一度犯罪者と認定されると、その後の人生をずっと苦労することになる。文字通りレッテルを貼られ、公共の施設からは追い出される。
どれだけ演技力があろうと、どれほど肉体を改造しようと、登録されたDMAは取り消せない。そう言うことだ。
これから先のことを考え、少年は溜息を吐いた。
『よう、少年。顔が暗いネェ』
唐突に少女の声が聞こえ、彼ははっと顔を上げた。隣の牢獄に誰かがいたのだろうか。いや、人間の気配は何処にもなかった。
「誰だ!」
『あたしはあたしサ。何をやったんだい、少年』
甲高い少女の声は、少年のことなどお構いなしに喋り始めた。彼の質問には答えない癖に、勝手に質問を投げかけてくる。
『んん? 元気がないネ。人生明るく生きなきゃ損するぞ』
何が楽しいと聞きたくなるほどに、楽しげに笑いながら、彼女は叫ぶように喋り続けた。はっきり言って、新手の拷問かと思うほどに辛い。
「あんたがいなきゃ、もう少し元気かもしれない…」
『つれないネェ。唯一の話し相手じゃないか』
くつくつと笑いながら声は返事を寄越す。
その笑い声が気に障り、返事をするのをやめて無視しようと、心に決めた。
だが、一層しつこく話しかけられ挫折した。大音量で意味不明な言葉を叫ばれるよりは、おとなしくテンションの高い会話につきあった方がマシだ。
「何を話すって言うんだ?」
うんざりしながらも、会話を続ける。
『この塔からは出られそうか? 地上に手は届きそうか? ディクス』
この上なく自然に話しかけられ、首を振ってから、少年は気がついた。彼女は今なんと言った。
「なんでお前が俺の名前と投獄理由を知ってるんだ!?」
呆気にとられながら叫び返すと、声はきゃらきゃらと笑った。
『んん? あたしはココの神様だからサ。知らないことなんて一つもないヨ』
「ふざけるな」
『ふざけちゃいないサ。本当のことだよ、ディー』
馴れ馴れしく愛称を呼びながら、声は少年をからかうように喋り続ける。
「神なんていない」
『まぁネ』
あっさりとディクスの言葉を認めると、声は含み笑いをしながら、低く囁いた。
『でもね、あたしはこの世界の神なんだよ。巨大コンピュータ群を支配する管理脳、三柱が一柱、リバーさ』
この世界では、人間さえコンピュータで管理されている。そのため一度犯罪者と認定されると、その後の人生をずっと苦労することになる。文字通りレッテルを貼られ、公共の施設からは追い出される。
どれだけ演技力があろうと、どれほど肉体を改造しようと、登録されたDMAは取り消せない。そう言うことだ。
これから先のことを考え、少年は溜息を吐いた。
『よう、少年。顔が暗いネェ』
唐突に少女の声が聞こえ、彼ははっと顔を上げた。隣の牢獄に誰かがいたのだろうか。いや、人間の気配は何処にもなかった。
「誰だ!」
『あたしはあたしサ。何をやったんだい、少年』
甲高い少女の声は、少年のことなどお構いなしに喋り始めた。彼の質問には答えない癖に、勝手に質問を投げかけてくる。
『んん? 元気がないネ。人生明るく生きなきゃ損するぞ』
何が楽しいと聞きたくなるほどに、楽しげに笑いながら、彼女は叫ぶように喋り続けた。はっきり言って、新手の拷問かと思うほどに辛い。
「あんたがいなきゃ、もう少し元気かもしれない…」
『つれないネェ。唯一の話し相手じゃないか』
くつくつと笑いながら声は返事を寄越す。
その笑い声が気に障り、返事をするのをやめて無視しようと、心に決めた。
だが、一層しつこく話しかけられ挫折した。大音量で意味不明な言葉を叫ばれるよりは、おとなしくテンションの高い会話につきあった方がマシだ。
「何を話すって言うんだ?」
うんざりしながらも、会話を続ける。
『この塔からは出られそうか? 地上に手は届きそうか? ディクス』
この上なく自然に話しかけられ、首を振ってから、少年は気がついた。彼女は今なんと言った。
「なんでお前が俺の名前と投獄理由を知ってるんだ!?」
呆気にとられながら叫び返すと、声はきゃらきゃらと笑った。
『んん? あたしはココの神様だからサ。知らないことなんて一つもないヨ』
「ふざけるな」
『ふざけちゃいないサ。本当のことだよ、ディー』
馴れ馴れしく愛称を呼びながら、声は少年をからかうように喋り続ける。
「神なんていない」
『まぁネ』
あっさりとディクスの言葉を認めると、声は含み笑いをしながら、低く囁いた。
『でもね、あたしはこの世界の神なんだよ。巨大コンピュータ群を支配する管理脳、三柱が一柱、リバーさ』
少年が生まれ育ったのは、地下の塔だった。
深く深く、狂ったもぐらのように、底を掘り進めるマイナスの塔。最上階は地上への扉となっているらしいが、定かではない。
そこを管理するのは巨大なコンピュータ群だ。それらを一括して管理する脳が3つ。
そして地上に住む人はいない。少なくとも政府はそう発表しているが、そうでないことを少年は知っている。
塔の最上階に行ったことがある人間はそうそういない。少なくともそういった人間は、政府側の管理人であり、少年とはどうやっても相容れない。
けれど最上階まで行かずとも、塔のどこかに地上への抜け道があるというのは、ここで暮らす人間にとっては有名な話だ。そのため、政府の人間が見張っているドアや部屋は、外への道なのだと考えられている。
もちろん、外へ行った人間は帰ってこない。だからその噂が真実かどうかはわからない。単純に地上を求める誰かが言い始めた、都市伝説であるのかも知れない。もしかすれば、政府に殺された誰かを偲んでいるだけなのかもしれない。
それでも誰もがその噂を信じる。
誰もが地上への扉を求めているのだ。
少年はあの日のことを忘れてはいない。
共に暮らしていた少女が、地上への扉を見つけたと叫んだ日を。
驚き、本当かと聞き返すと、彼女は自信ありげに笑い、小さくウインクをして見せた。けれどどれだけ聞いても、その扉の在処を教えてはくれなかった。
そして次の日、彼女は消えた。
少年がどれほど探そうとも、その姿は見つからず、小さな手がかりさえ見つけることはできなかった。
だから少年は信じている。
彼女は自分を置いて、地上へ行ってしまったのだと。
深く深く、狂ったもぐらのように、底を掘り進めるマイナスの塔。最上階は地上への扉となっているらしいが、定かではない。
そこを管理するのは巨大なコンピュータ群だ。それらを一括して管理する脳が3つ。
そして地上に住む人はいない。少なくとも政府はそう発表しているが、そうでないことを少年は知っている。
塔の最上階に行ったことがある人間はそうそういない。少なくともそういった人間は、政府側の管理人であり、少年とはどうやっても相容れない。
けれど最上階まで行かずとも、塔のどこかに地上への抜け道があるというのは、ここで暮らす人間にとっては有名な話だ。そのため、政府の人間が見張っているドアや部屋は、外への道なのだと考えられている。
もちろん、外へ行った人間は帰ってこない。だからその噂が真実かどうかはわからない。単純に地上を求める誰かが言い始めた、都市伝説であるのかも知れない。もしかすれば、政府に殺された誰かを偲んでいるだけなのかもしれない。
それでも誰もがその噂を信じる。
誰もが地上への扉を求めているのだ。
少年はあの日のことを忘れてはいない。
共に暮らしていた少女が、地上への扉を見つけたと叫んだ日を。
驚き、本当かと聞き返すと、彼女は自信ありげに笑い、小さくウインクをして見せた。けれどどれだけ聞いても、その扉の在処を教えてはくれなかった。
そして次の日、彼女は消えた。
少年がどれほど探そうとも、その姿は見つからず、小さな手がかりさえ見つけることはできなかった。
だから少年は信じている。
彼女は自分を置いて、地上へ行ってしまったのだと。
連鎖よ。そう吐息のような細い声で、彼女は呟いた。天使と称された、綺麗な顔を、悲しげに歪めながら。
「父の死で全てが始まったの」
「お父さん?」
鸚鵡返しに呟くと、彼女は静かに頷いた。染色とは無縁な黒髪が、さらりと一筋揺れた。
「母は父を愛していた。だからその死に耐えられなかった」
違う世界に行ってしまったの。そう呟く彼女からは、力という物が感じられなかった。弱々しく、まるで耐えるだけの存在のように。
「そして狂った母は父によく似た兄を愛した。父本人と、信じて」
馬鹿な人。言葉には出さなかったが、彼女の唇が小さく震え、きっとそう言っているのだと安易に予想がついた。
「兄は代用品とわかっていながらも、本当に母を愛してしまった」
馬鹿な人。今度は言葉に出して、もう一度同じ言葉を呟いた彼女は、どこか遠くを見つめた。もう帰らない過去を惜しんでいるのか、懐かしんでいるのか、憎んでいるのか。
「そして幸せなまま母は死んでしまった」
静かに黒い目を伏せる。
「なのに、今度は兄が母に囚われた。彼は母によく似た私に、母の面影を探して写真を撮っているの」
「そんな、だってあの人は天使を撮りたいって…」
そう言っていた。彼は妹の中の天使を探していた。傷ついて、それでも立ち上がろうとする彼女の姿の中に、小さな天使を探していた。
「そうよ」
凛とした声で肯定を表すと、黒い瞳が寂しげにこちらを見つめた。
「兄にとって、母は天使だった。私は天使じゃない。けれど母は天使だった」
くだらない。小さな声で呟きながらも、彼女の声は何かを愛していた。その愚かなまでに一途な思いも、勘違いでしかない行動も、その全てを愛しいと思っているかのように。
その彼女の気持ちこそ、愚かだと思う。けれど、自分が彼女を愛しいと思う気持ちと、それはきっとよく似ているのだろう。
「父の死で全てが始まったの」
「お父さん?」
鸚鵡返しに呟くと、彼女は静かに頷いた。染色とは無縁な黒髪が、さらりと一筋揺れた。
「母は父を愛していた。だからその死に耐えられなかった」
違う世界に行ってしまったの。そう呟く彼女からは、力という物が感じられなかった。弱々しく、まるで耐えるだけの存在のように。
「そして狂った母は父によく似た兄を愛した。父本人と、信じて」
馬鹿な人。言葉には出さなかったが、彼女の唇が小さく震え、きっとそう言っているのだと安易に予想がついた。
「兄は代用品とわかっていながらも、本当に母を愛してしまった」
馬鹿な人。今度は言葉に出して、もう一度同じ言葉を呟いた彼女は、どこか遠くを見つめた。もう帰らない過去を惜しんでいるのか、懐かしんでいるのか、憎んでいるのか。
「そして幸せなまま母は死んでしまった」
静かに黒い目を伏せる。
「なのに、今度は兄が母に囚われた。彼は母によく似た私に、母の面影を探して写真を撮っているの」
「そんな、だってあの人は天使を撮りたいって…」
そう言っていた。彼は妹の中の天使を探していた。傷ついて、それでも立ち上がろうとする彼女の姿の中に、小さな天使を探していた。
「そうよ」
凛とした声で肯定を表すと、黒い瞳が寂しげにこちらを見つめた。
「兄にとって、母は天使だった。私は天使じゃない。けれど母は天使だった」
くだらない。小さな声で呟きながらも、彼女の声は何かを愛していた。その愚かなまでに一途な思いも、勘違いでしかない行動も、その全てを愛しいと思っているかのように。
その彼女の気持ちこそ、愚かだと思う。けれど、自分が彼女を愛しいと思う気持ちと、それはきっとよく似ているのだろう。
天使みたいな人だと思っていた。
白い肌と色の薄い茶色の髪。大きな目は真っ黒で全身が華奢な人だから。
真っ白なワンピースの裾からのぞく足と足首が、折れそうな程に細い人で、もちろん手首も細ければ首も細かった。
薄紅色の唇は不意に柔らかく弧を描いて、周囲の人を魅了するし、真っ直ぐに通った鼻梁は誰もが憧れたと思う。
ただ胸や腰の肉付きが悪いのが、欠点と言えば欠点だったのかも知れない。
でもあれだけ細い人なのだから、それくらいの方が丁度良いのだと、そう何も考えずに思っていた。
けれどある日気づいた。
彼女が天使のようなのは、顔の綺麗さもあるけど、性別を感じさせない所なんじゃないかって。
確かに見た感じは女性なのだけれど、不思議と彼女からは色めいたものを感じないのだ。
確かにこれ以上もなく女らしいのだけれど、その『らしさ』は儚さに由来するものなんじゃないかと。
男なら誰もが彼女には魅せられ、守りたいと願うだろう。
掴めば折ってしまいそうな手首や、触れたら汚してしまうんじゃないかと思わせる白い肌なんかが、その対象なんだ。
天使のような女は、何故か決して女を感じさせない。
彼女は化粧をしない。薄着はするけど、露出は嫌っている。
媚びるように笑ったりもしない。
守りたいとも守られたいとも思っていない。
どうでも良いことを言い連ねることも嫌っている。
さっぱりした気性と言ってしまえばそれだけだが、彼女にはそれ以上のものがあるような気がした。
天使と二人きりになる機会があって、そのことを尋ねたら彼女は口元に笑みを浮かべてこういった。
「不感症なの」
天使のようなこの人が、誰かに抱かれたと言うことは、とてもじゃないけど想像がつかない。
けれど彼女はそんな僕にはお構いなしにぽつりと呟いた。
「いつか女に戻れるのかな…」
性感さえ超越してしまった天使は、人間になりたがっていた。
白い肌と色の薄い茶色の髪。大きな目は真っ黒で全身が華奢な人だから。
真っ白なワンピースの裾からのぞく足と足首が、折れそうな程に細い人で、もちろん手首も細ければ首も細かった。
薄紅色の唇は不意に柔らかく弧を描いて、周囲の人を魅了するし、真っ直ぐに通った鼻梁は誰もが憧れたと思う。
ただ胸や腰の肉付きが悪いのが、欠点と言えば欠点だったのかも知れない。
でもあれだけ細い人なのだから、それくらいの方が丁度良いのだと、そう何も考えずに思っていた。
けれどある日気づいた。
彼女が天使のようなのは、顔の綺麗さもあるけど、性別を感じさせない所なんじゃないかって。
確かに見た感じは女性なのだけれど、不思議と彼女からは色めいたものを感じないのだ。
確かにこれ以上もなく女らしいのだけれど、その『らしさ』は儚さに由来するものなんじゃないかと。
男なら誰もが彼女には魅せられ、守りたいと願うだろう。
掴めば折ってしまいそうな手首や、触れたら汚してしまうんじゃないかと思わせる白い肌なんかが、その対象なんだ。
天使のような女は、何故か決して女を感じさせない。
彼女は化粧をしない。薄着はするけど、露出は嫌っている。
媚びるように笑ったりもしない。
守りたいとも守られたいとも思っていない。
どうでも良いことを言い連ねることも嫌っている。
さっぱりした気性と言ってしまえばそれだけだが、彼女にはそれ以上のものがあるような気がした。
天使と二人きりになる機会があって、そのことを尋ねたら彼女は口元に笑みを浮かべてこういった。
「不感症なの」
天使のようなこの人が、誰かに抱かれたと言うことは、とてもじゃないけど想像がつかない。
けれど彼女はそんな僕にはお構いなしにぽつりと呟いた。
「いつか女に戻れるのかな…」
性感さえ超越してしまった天使は、人間になりたがっていた。
天使になんてなりたくないのよ。
私は蜻蛉になりたかったの。
生まれて生きて、子をなして死にたいの。
死にたいの、何かを成し遂げて。
消えたいの、生きることを苦痛と感じる前に。
私は蜻蛉になりたかったの。
生まれて生きて、子をなして死にたいの。
死にたいの、何かを成し遂げて。
消えたいの、生きることを苦痛と感じる前に。
ふと思い出したのは、真っ白な柚の花。
柚が好きというそれだけの理由で、母は私の名に柚の文字をくれた。
戦いの前は、怖くない訳じゃない。
ただ、負けられないなと思うだけ。死にたくないから。
そう思いながら目を閉じてじっとしてると、少しだけ心が軽くなる。
集中の効果かもしれないけど、なんだか世界が薄い膜を被ったような感じになる。
そうなると、大丈夫って思えるの。
選んだ武器は銃だった。
手の平サイズで、これ以上もなく確実に命を奪う武器。
選んだ理由は単純。
軽いこと、持ち運びやすいこと。そして威力が強力であること。
殺される側にしたって、あっさり殺された方が嬉しいだろうと思ったの。
誰だって、痛いのは嫌でしょう?
敵は容赦なんてしてくれない。でも本当は容赦なんてしないで欲しい。
じゃなきゃ、私も容赦なく誰かを殺せない。
対等な立場にいるって、自分を納得させなきゃ、やっていけないから。
もし、敵が手加減をしてるとしたら。
何故そんなことをしているのかなんてわからないけど、確実に私は命を救われている。
そんな相手を殺すのは、やっぱり嫌。
初めて煙草を吸ったときのような、苦い後味が残るだけ。
狙いを定めて、撃つ。
ただそれだけで、確実に誰かが傷ついていく。命を失っていく。
だって、やらなきゃやられるだけ。
殺されたくない、傷つきたくないなんて思ってる人は、こんなところに出てきやしない。
ほら、対等でしょう?
死にたくなんか、ない。
けど、もし殺されるとしても、誰にも助けを求めてはいけない気がする。
自分の意志で戦って、自分の意志で傷ついて。
それなのに、殺される時だけ、他人の意志を借りるなんて、おかしいよね?
大丈夫、独りでも。独りで死んだって、大丈夫。
最近は戦う時に仲間と顔を合わせるだけで、いつも独りでいるような気がする。
会話もせずに、部屋に閉じこもる。それなのに、戦いの時だけはきっちりと顔を出してる。
おかしいね。
昔は、独りが嫌いじゃなかった。
静かに何もない時間を過ごすのも、辛くなんてなかった。
一日の中にいくつもの空白があって、その空白で逆に心が埋まっていた。
今は?
今は、少し寂しい。
独りっていうのは、そんなに良い物じゃないなって思った。
悪いものじゃないけど、みんなといる方が良いと思った。
それなのに独りでいるのは、少しばかり考えたいことがあるから。
もう少ししたら、ひょっとしたらもっと長い時間が必要かも知れないけど、いずれは帰れる時が来るはず。
あの天空に浮かぶ城の中に、秘密があるのは確実なんだから。
けど、私は帰るんだろうか。
帰ったら、何をするんだろう。
勉強をして、進学をして、就職して。それが悪いこととは思わない。
ただ、その生活と今の生活を比べて、どちらが良いかと。
そのことばかり、真剣に考えてしまうの。
向こうにいた頃、私は全てがどうでもよかった。
大切なものも嫌いなものもあったけれど、どこか達観していた。
大切なものを奪われたら、きっと悲しむだろう。けれど、その痛みなんて、すぐに忘れてしまう。
そんな自分は、大切なものを持っているフリをしているだけのような気がした。
それなのに、そんな自分も好きでも嫌いでもなかった。
単純に、どうでもよかった。
煙草を吸い始めたのも、そんな理由からだった気がする。
自分に興味がないから、健康とかそう言ったことにも興味がなかった。
どちらかというと、少しくらい傷つけてみたかったのかもしれない。
それで、痛みとか、苦しみとかを感じて、自分を大事にしたかったのかもしれない。
結果的に、それは成功しなかったけれど、舌に走る苦みは、私が生きてるってことを実感させてくれた。
今、煙草はあんまり吸ってない。
命と命が削りあう、スレスレの境界線で戦っていると、これ以上もなく自分の生を感じられるから。
生きるために必死に戦ってる自分を見ると、情けないけど泣きそうになる。
嬉しくて。嬉しくて。
敵を自分の手で殺すことで、ようやく私は命の重さを知ることができた。
それでやっと自分の命に興味を持って、身を守りたいと思うようになった。
舌先に感じる一瞬の苦みに頼らなくても、生きてるっていう現実を、しっかりと感じ取れるようになった。
それが純粋に嬉しい。
その喜びを教えてくれたこの世界に、私は残るって言い出すかも知れない。
この世界だった、別にそんな命のやりとりをしなくても暮らしていける。
そしてそれは、本当に自分の力だけで生きていかなきゃならない。
親もいないんだから、お金は自分で稼ぐ。
食べ物もないから、稼いだお金で買うか、自分で育てたり狩ったりしなきゃならない。
でもそれは、どれも生きるための行動で、向こうみたいに受動的に生きなくてもいいってこと。
それはやっぱり魅力的。
この世界は、ある意味私にとっての天国なのかもしれない。
生きる意味を教えてくれる、素敵な世界。
楽に生きることも良いけれど、生きることを実感しながら暮らす方がいい。
ただ、帰らないのなら。
柚の花が見れないな、と思った。
「天国は見つかりそう?」
あの白い花が咲き乱れるような、そんな天国は見つかりそう?
焼け野が原での問いかけは、抜け殻となった誰かの身体の上を、通り過ぎていった。
柚が好きというそれだけの理由で、母は私の名に柚の文字をくれた。
戦いの前は、怖くない訳じゃない。
ただ、負けられないなと思うだけ。死にたくないから。
そう思いながら目を閉じてじっとしてると、少しだけ心が軽くなる。
集中の効果かもしれないけど、なんだか世界が薄い膜を被ったような感じになる。
そうなると、大丈夫って思えるの。
選んだ武器は銃だった。
手の平サイズで、これ以上もなく確実に命を奪う武器。
選んだ理由は単純。
軽いこと、持ち運びやすいこと。そして威力が強力であること。
殺される側にしたって、あっさり殺された方が嬉しいだろうと思ったの。
誰だって、痛いのは嫌でしょう?
敵は容赦なんてしてくれない。でも本当は容赦なんてしないで欲しい。
じゃなきゃ、私も容赦なく誰かを殺せない。
対等な立場にいるって、自分を納得させなきゃ、やっていけないから。
もし、敵が手加減をしてるとしたら。
何故そんなことをしているのかなんてわからないけど、確実に私は命を救われている。
そんな相手を殺すのは、やっぱり嫌。
初めて煙草を吸ったときのような、苦い後味が残るだけ。
狙いを定めて、撃つ。
ただそれだけで、確実に誰かが傷ついていく。命を失っていく。
だって、やらなきゃやられるだけ。
殺されたくない、傷つきたくないなんて思ってる人は、こんなところに出てきやしない。
ほら、対等でしょう?
死にたくなんか、ない。
けど、もし殺されるとしても、誰にも助けを求めてはいけない気がする。
自分の意志で戦って、自分の意志で傷ついて。
それなのに、殺される時だけ、他人の意志を借りるなんて、おかしいよね?
大丈夫、独りでも。独りで死んだって、大丈夫。
最近は戦う時に仲間と顔を合わせるだけで、いつも独りでいるような気がする。
会話もせずに、部屋に閉じこもる。それなのに、戦いの時だけはきっちりと顔を出してる。
おかしいね。
昔は、独りが嫌いじゃなかった。
静かに何もない時間を過ごすのも、辛くなんてなかった。
一日の中にいくつもの空白があって、その空白で逆に心が埋まっていた。
今は?
今は、少し寂しい。
独りっていうのは、そんなに良い物じゃないなって思った。
悪いものじゃないけど、みんなといる方が良いと思った。
それなのに独りでいるのは、少しばかり考えたいことがあるから。
もう少ししたら、ひょっとしたらもっと長い時間が必要かも知れないけど、いずれは帰れる時が来るはず。
あの天空に浮かぶ城の中に、秘密があるのは確実なんだから。
けど、私は帰るんだろうか。
帰ったら、何をするんだろう。
勉強をして、進学をして、就職して。それが悪いこととは思わない。
ただ、その生活と今の生活を比べて、どちらが良いかと。
そのことばかり、真剣に考えてしまうの。
向こうにいた頃、私は全てがどうでもよかった。
大切なものも嫌いなものもあったけれど、どこか達観していた。
大切なものを奪われたら、きっと悲しむだろう。けれど、その痛みなんて、すぐに忘れてしまう。
そんな自分は、大切なものを持っているフリをしているだけのような気がした。
それなのに、そんな自分も好きでも嫌いでもなかった。
単純に、どうでもよかった。
煙草を吸い始めたのも、そんな理由からだった気がする。
自分に興味がないから、健康とかそう言ったことにも興味がなかった。
どちらかというと、少しくらい傷つけてみたかったのかもしれない。
それで、痛みとか、苦しみとかを感じて、自分を大事にしたかったのかもしれない。
結果的に、それは成功しなかったけれど、舌に走る苦みは、私が生きてるってことを実感させてくれた。
今、煙草はあんまり吸ってない。
命と命が削りあう、スレスレの境界線で戦っていると、これ以上もなく自分の生を感じられるから。
生きるために必死に戦ってる自分を見ると、情けないけど泣きそうになる。
嬉しくて。嬉しくて。
敵を自分の手で殺すことで、ようやく私は命の重さを知ることができた。
それでやっと自分の命に興味を持って、身を守りたいと思うようになった。
舌先に感じる一瞬の苦みに頼らなくても、生きてるっていう現実を、しっかりと感じ取れるようになった。
それが純粋に嬉しい。
その喜びを教えてくれたこの世界に、私は残るって言い出すかも知れない。
この世界だった、別にそんな命のやりとりをしなくても暮らしていける。
そしてそれは、本当に自分の力だけで生きていかなきゃならない。
親もいないんだから、お金は自分で稼ぐ。
食べ物もないから、稼いだお金で買うか、自分で育てたり狩ったりしなきゃならない。
でもそれは、どれも生きるための行動で、向こうみたいに受動的に生きなくてもいいってこと。
それはやっぱり魅力的。
この世界は、ある意味私にとっての天国なのかもしれない。
生きる意味を教えてくれる、素敵な世界。
楽に生きることも良いけれど、生きることを実感しながら暮らす方がいい。
ただ、帰らないのなら。
柚の花が見れないな、と思った。
「天国は見つかりそう?」
あの白い花が咲き乱れるような、そんな天国は見つかりそう?
焼け野が原での問いかけは、抜け殻となった誰かの身体の上を、通り過ぎていった。
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