ああ、まずい。そう思ったが、その時にはもう全て終わってしまっていた。あまり認識したくないような音がキールの身体から聞こえ、色んな感覚が一瞬で飛び跳ねた。そして消え去った。
視界が真っ赤に染まったのは、自分の血液の所為だとすぐに気づきはした。だけれど、だからといって、何をすることができるだろう。止血をしようにも指の一本すら動かすことができない。何より、止血した程度で塞がる傷ではないだろう。地面に広がる紅い染みを見れば一目瞭然だ。
すまない、と心の中で妻に詫びる。彼女は泣かないだろう。自分の死すら知らずに逝ってしまうだろう。だからといって、他に言葉が何も思いつかなかった。
瞼を閉じても世界は紅かった。
けれど、もう一度目を開くと、今度は怖いほどに青い空が広がっていた。
一瞬の思考の後、記憶の底からはい上がってきたのは、あの女を看取った空だった。そしてあの女の魂が飛び去っていった空と、今日の空はどこか似ていた。怖いほどの青さと、雲を従えない傲慢なまでの静けさ。
「馬鹿じゃねぇの。ここで終わりか」
何も聞こえなくなったと思っていた耳に、低い女の声が響いた。それはキールにとって忘れることのできない声。死んだはずの師の声だ。
何故彼女の声が聞こえるのか。そんな疑問は浮かばなかった。それは不思議と、非道く自然な現象のように感じられたのだ。
それと同時に、死者と会話ができると言うことによって、自分の近い未来を見ることも。
「リネア…?」
「死に方には拘れって言っただろう? これがお前の満足のいく死に方なのか?」
声など出ないとは思ったが、掠れた声は確かに自分自身のものだった。その声で名を呼ぶと、リネアはなんの感慨もなさげにキールを嘲った。
「惚れた女一人守れず、目的も果たせず、こんな僻地で一人で死ぬのがお前の望みだったのか?」
そう吐き捨てるリネアはいつになく不機嫌だと思った。彼女の弟子だった頃は、こんな表情にも声にも何度も触れていた。だから気まぐれな癖に手負いの豹のような女の不機嫌には慣れていた。
けれど今日の彼女はいつもとは一味違う。直感的にキールはそう感じた。
「いや」
「じゃあ、なんで倒れてるんだ?」
「手が届かなかっただけだ」
「はっ、自分の実力を知らないからそんなことになるんだよ」
「そうだな」
「お前は馬鹿だ」
「……ああ」
「お前は大馬鹿野郎だ、キール」
まただ、キールはそう思った。彼女は自身が死ぬときもキールの名前を呼んでくれた。そして今も名前を呼んでくれる。少しは認めてやってもいいと言わんばかりの態度で、馬鹿にしながらも非道く優しげに。
「お前、自分が何をしてるかわかってるのか?」
「死にかけてる」
「大当たりだ」
そしてリネアは溜息を吐く仕草をした。
「無駄に死ぬなって言っただろ」
「ああ、言われた」
「お前は生きて帰らなきゃいけないんじゃないのか?」
「ああ、その通りだ」
「なのになんで倒れてるんだ、馬鹿野郎」
激情を押さえたように吐き捨てたリネアの目は、ぎらぎらと輝いていた。最高級の紅玉すら霞むほどの、どこか狂気を秘めた深紅の目がキールをのぞき込む。そして、仕方がないというように笑った。
小さな子供をあやすように、馬鹿にするように、それでいて慈しむように。
「ま、仕方がねぇな。実力不足だ」
あっさりと言い捨て、リネアはキールの頬に掌を寄せた。女らしさや、柔らかさを捨てた手だった。乾燥してがさついていて、その上あちこちにたこができて、ごるごつしている。けれどその暖かさだけは何よりも優しい。
リネアはその優しい掌でキールの頬を包み込み、正面から顔をのぞき込んだ。倒れているキールの横に膝をついているらしく、少し斜めではあったが、彼女の視線はまっすぐにこちらを見ていた。
「あたしは怒ってるんだ、馬鹿な弟子が早死にしやがるから」
「リネア?」
「でも仕方がないとも思ってる。お前、割と平和主義者だっただろう」
「そうか?」
「ああ、暗殺なんかにゃ向いてなかったぜ?」
そしてリネアはふっと笑った。
それは彼女が死の直前に見せた、非道く優しく、見ていて涙がでるような微笑みだった。
「だからお前は他人のために死ぬと思ってた」
言葉を切ると、彼女は屈み込み、キールの唇に自分の唇を噛み付くように押しつけた。
その素っ気ない触れあいは生前の彼女そのもののようだった。触れようとすれば容赦なく切り刻もうとする癖に、不意に与える温もりは何よりも優しかった。けれど非道く気まぐれな性質の所為で、八つ当たりをされたり、殺されかけたりしながらも、惹かれてしまう、彼女そのものだと思った。
「だけどあたしは怒ってるんだ、それだけ覚えておけよ」
唇を離し、恨みがましく告げると、リネアの姿は光に透けて見えなくなった。
その白い光はとても眩しく、全てを吸い取られるような気がした。それはとても気持ちが良い行為のように感じられた。だが、どうせならもっと弱々しい、銀色の光に包まれたいとも思った。そう、病に伏した妻を守る、月のような。
そしてキールの意識は途切れた。彼は、死んだ。
視界が真っ赤に染まったのは、自分の血液の所為だとすぐに気づきはした。だけれど、だからといって、何をすることができるだろう。止血をしようにも指の一本すら動かすことができない。何より、止血した程度で塞がる傷ではないだろう。地面に広がる紅い染みを見れば一目瞭然だ。
すまない、と心の中で妻に詫びる。彼女は泣かないだろう。自分の死すら知らずに逝ってしまうだろう。だからといって、他に言葉が何も思いつかなかった。
瞼を閉じても世界は紅かった。
けれど、もう一度目を開くと、今度は怖いほどに青い空が広がっていた。
一瞬の思考の後、記憶の底からはい上がってきたのは、あの女を看取った空だった。そしてあの女の魂が飛び去っていった空と、今日の空はどこか似ていた。怖いほどの青さと、雲を従えない傲慢なまでの静けさ。
「馬鹿じゃねぇの。ここで終わりか」
何も聞こえなくなったと思っていた耳に、低い女の声が響いた。それはキールにとって忘れることのできない声。死んだはずの師の声だ。
何故彼女の声が聞こえるのか。そんな疑問は浮かばなかった。それは不思議と、非道く自然な現象のように感じられたのだ。
それと同時に、死者と会話ができると言うことによって、自分の近い未来を見ることも。
「リネア…?」
「死に方には拘れって言っただろう? これがお前の満足のいく死に方なのか?」
声など出ないとは思ったが、掠れた声は確かに自分自身のものだった。その声で名を呼ぶと、リネアはなんの感慨もなさげにキールを嘲った。
「惚れた女一人守れず、目的も果たせず、こんな僻地で一人で死ぬのがお前の望みだったのか?」
そう吐き捨てるリネアはいつになく不機嫌だと思った。彼女の弟子だった頃は、こんな表情にも声にも何度も触れていた。だから気まぐれな癖に手負いの豹のような女の不機嫌には慣れていた。
けれど今日の彼女はいつもとは一味違う。直感的にキールはそう感じた。
「いや」
「じゃあ、なんで倒れてるんだ?」
「手が届かなかっただけだ」
「はっ、自分の実力を知らないからそんなことになるんだよ」
「そうだな」
「お前は馬鹿だ」
「……ああ」
「お前は大馬鹿野郎だ、キール」
まただ、キールはそう思った。彼女は自身が死ぬときもキールの名前を呼んでくれた。そして今も名前を呼んでくれる。少しは認めてやってもいいと言わんばかりの態度で、馬鹿にしながらも非道く優しげに。
「お前、自分が何をしてるかわかってるのか?」
「死にかけてる」
「大当たりだ」
そしてリネアは溜息を吐く仕草をした。
「無駄に死ぬなって言っただろ」
「ああ、言われた」
「お前は生きて帰らなきゃいけないんじゃないのか?」
「ああ、その通りだ」
「なのになんで倒れてるんだ、馬鹿野郎」
激情を押さえたように吐き捨てたリネアの目は、ぎらぎらと輝いていた。最高級の紅玉すら霞むほどの、どこか狂気を秘めた深紅の目がキールをのぞき込む。そして、仕方がないというように笑った。
小さな子供をあやすように、馬鹿にするように、それでいて慈しむように。
「ま、仕方がねぇな。実力不足だ」
あっさりと言い捨て、リネアはキールの頬に掌を寄せた。女らしさや、柔らかさを捨てた手だった。乾燥してがさついていて、その上あちこちにたこができて、ごるごつしている。けれどその暖かさだけは何よりも優しい。
リネアはその優しい掌でキールの頬を包み込み、正面から顔をのぞき込んだ。倒れているキールの横に膝をついているらしく、少し斜めではあったが、彼女の視線はまっすぐにこちらを見ていた。
「あたしは怒ってるんだ、馬鹿な弟子が早死にしやがるから」
「リネア?」
「でも仕方がないとも思ってる。お前、割と平和主義者だっただろう」
「そうか?」
「ああ、暗殺なんかにゃ向いてなかったぜ?」
そしてリネアはふっと笑った。
それは彼女が死の直前に見せた、非道く優しく、見ていて涙がでるような微笑みだった。
「だからお前は他人のために死ぬと思ってた」
言葉を切ると、彼女は屈み込み、キールの唇に自分の唇を噛み付くように押しつけた。
その素っ気ない触れあいは生前の彼女そのもののようだった。触れようとすれば容赦なく切り刻もうとする癖に、不意に与える温もりは何よりも優しかった。けれど非道く気まぐれな性質の所為で、八つ当たりをされたり、殺されかけたりしながらも、惹かれてしまう、彼女そのものだと思った。
「だけどあたしは怒ってるんだ、それだけ覚えておけよ」
唇を離し、恨みがましく告げると、リネアの姿は光に透けて見えなくなった。
その白い光はとても眩しく、全てを吸い取られるような気がした。それはとても気持ちが良い行為のように感じられた。だが、どうせならもっと弱々しい、銀色の光に包まれたいとも思った。そう、病に伏した妻を守る、月のような。
そしてキールの意識は途切れた。彼は、死んだ。
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