『a deficiency disease』
2004年8月7日 狐 何が足りないのかと言われれば、全て足りなかった。
そのくせ、具体的に何がと聞かれたら、葉月は言葉に詰まるしかなかった。
思い出すのは父の背中。
追いかけることしかできない背中。手を伸ばしても、背伸びしても、そのままジャンプしても届かない高い壁。そんな父に葉月は憧れや尊敬や、それでいて拭いきれない曖昧な感情を抱いた。
父は我が子である葉月より、きっと母を愛していた。むしろ、我が子であるからこそ、自分の血を引いているからこそのことだったのだと、なんとなくは分かる年齢になった。
不器用な人だったのだ。感情というものをどこか余所余所しく見ているような人だった。素直に自分を好きになれない人だった。
きっと父は自分のことが嫌いだったのだ。
だから母の方を愛していたのだ。
それが恨めしいとか、悔しいとか思ったりはしない。ただ、命を失いつつある母と過ごした、あの日々を思い出しては、何故家にいてくれなかったのかと。時々、思ってしまう。
ああ、けれど。
父は決して強い人ではなかったのだろう。優しく弱く、何かに怯えていたのだろう。
身体の大きさを感じさせないほど、音もなく動き、時折振り返るあの眼差し。そして負ぶさったとき、自分が腕を回した首筋のたくましさは、今でも感触として残っている。
瞼に焼き付いたのは母の手のひら。
白く細い指先。仕事で少しがさついた体温。柔らかな愛おしさと緩やかな儚さばかりが、喉の奥から込み上がってくる。
暖かい眼差しを葉月に向け、白い両腕でそっと抱き寄せては、何かに安堵するように笑う母。その微笑みは微かな面影としてのみ、記憶に残っている。
母が病に倒れ、父が旅に出て行き、二人きりになった日々。
静かに、けれど確実に死へと向かう母と二人の生活は、幼く何も知らなかったからこそできたものだろう。あの頃は死というものが分からなかった。母がいなくなるということが、よく理解できていなかった。だからあんなにも自然に、葉月は笑えたのだ。
もし今、またあんな生活をすることがあったなら。
きっと涙がとまらない。
母は強い人だった。とても強い人だった。
怒って笑って、抱きしめて、怒鳴る姿は、何よりも真っ直ぐだった筈なのに、その姿は一つとして葉月の記憶に残っていない。
耳に残っているのは養い親の声。
幼かった葉月の前に突然現れた亡霊は、母が眠ったことを教えてくれた。他愛のない優しい嘘で、無知な子供を慰めて、そうして世界を見せてくれると言った。その声だ。
母の親友だという彼はとてもつかみ所のない人で、過保護だと思えば、急に放任主義に変わり、真面目と不真面目の間を行き来しながら、それでも葉月を可愛がってくれていたのだろう。
魔法の使い方や、独りでの生き方を教えてくれたのも、きっと彼だった。今更ながらにそう思う。
そのくせ、養い親はなんというか、馬鹿な人だった。
あんなに一緒に暮らしたというのに、結局分かってくれないことも山ほどあった。
だから、彼と過ごした日々が、穏やかとは言い切れないほどに騒がしく、けれどそんな慌ただしい日々が何よりも優しかっただなんて。
口が裂けても言ってはやらないのだ。
三人の家族がこの世界から消えてから流れる時間は、あまりに穏やかで、時々不安になる。本当に時間が動いているのか。それくらいに世界は静かに感じられる。
生活に大して不自由さは感じていない。
父に教えてもらったおかげか、武器の扱いもそれなりにできる。
母の血筋のおかげで、魔法も使える。尤もその実力は母の足下にも及ばないが、不思議と精霊には好かれている。
養い親は魔法の使い方と、様々な道具を作り出す術を教えてくれた。おかげである程度の収入は安定して手に入れられる。
けれど。
どれもが中途半端に終わってしまっているとも言えるのだ。
いつだって何かしら足りなかった。
両親からたくさんの物を貰い、養い親にたくさんのことを教えてもらったにもかかわらず、それでもまだ足りていない。
みんな、いないからだ。
ぽつりと呟いた言葉は、葉月自身にさえ聞き取れないほど、小さく響いた。
そのくせ、具体的に何がと聞かれたら、葉月は言葉に詰まるしかなかった。
思い出すのは父の背中。
追いかけることしかできない背中。手を伸ばしても、背伸びしても、そのままジャンプしても届かない高い壁。そんな父に葉月は憧れや尊敬や、それでいて拭いきれない曖昧な感情を抱いた。
父は我が子である葉月より、きっと母を愛していた。むしろ、我が子であるからこそ、自分の血を引いているからこそのことだったのだと、なんとなくは分かる年齢になった。
不器用な人だったのだ。感情というものをどこか余所余所しく見ているような人だった。素直に自分を好きになれない人だった。
きっと父は自分のことが嫌いだったのだ。
だから母の方を愛していたのだ。
それが恨めしいとか、悔しいとか思ったりはしない。ただ、命を失いつつある母と過ごした、あの日々を思い出しては、何故家にいてくれなかったのかと。時々、思ってしまう。
ああ、けれど。
父は決して強い人ではなかったのだろう。優しく弱く、何かに怯えていたのだろう。
身体の大きさを感じさせないほど、音もなく動き、時折振り返るあの眼差し。そして負ぶさったとき、自分が腕を回した首筋のたくましさは、今でも感触として残っている。
瞼に焼き付いたのは母の手のひら。
白く細い指先。仕事で少しがさついた体温。柔らかな愛おしさと緩やかな儚さばかりが、喉の奥から込み上がってくる。
暖かい眼差しを葉月に向け、白い両腕でそっと抱き寄せては、何かに安堵するように笑う母。その微笑みは微かな面影としてのみ、記憶に残っている。
母が病に倒れ、父が旅に出て行き、二人きりになった日々。
静かに、けれど確実に死へと向かう母と二人の生活は、幼く何も知らなかったからこそできたものだろう。あの頃は死というものが分からなかった。母がいなくなるということが、よく理解できていなかった。だからあんなにも自然に、葉月は笑えたのだ。
もし今、またあんな生活をすることがあったなら。
きっと涙がとまらない。
母は強い人だった。とても強い人だった。
怒って笑って、抱きしめて、怒鳴る姿は、何よりも真っ直ぐだった筈なのに、その姿は一つとして葉月の記憶に残っていない。
耳に残っているのは養い親の声。
幼かった葉月の前に突然現れた亡霊は、母が眠ったことを教えてくれた。他愛のない優しい嘘で、無知な子供を慰めて、そうして世界を見せてくれると言った。その声だ。
母の親友だという彼はとてもつかみ所のない人で、過保護だと思えば、急に放任主義に変わり、真面目と不真面目の間を行き来しながら、それでも葉月を可愛がってくれていたのだろう。
魔法の使い方や、独りでの生き方を教えてくれたのも、きっと彼だった。今更ながらにそう思う。
そのくせ、養い親はなんというか、馬鹿な人だった。
あんなに一緒に暮らしたというのに、結局分かってくれないことも山ほどあった。
だから、彼と過ごした日々が、穏やかとは言い切れないほどに騒がしく、けれどそんな慌ただしい日々が何よりも優しかっただなんて。
口が裂けても言ってはやらないのだ。
三人の家族がこの世界から消えてから流れる時間は、あまりに穏やかで、時々不安になる。本当に時間が動いているのか。それくらいに世界は静かに感じられる。
生活に大して不自由さは感じていない。
父に教えてもらったおかげか、武器の扱いもそれなりにできる。
母の血筋のおかげで、魔法も使える。尤もその実力は母の足下にも及ばないが、不思議と精霊には好かれている。
養い親は魔法の使い方と、様々な道具を作り出す術を教えてくれた。おかげである程度の収入は安定して手に入れられる。
けれど。
どれもが中途半端に終わってしまっているとも言えるのだ。
いつだって何かしら足りなかった。
両親からたくさんの物を貰い、養い親にたくさんのことを教えてもらったにもかかわらず、それでもまだ足りていない。
みんな、いないからだ。
ぽつりと呟いた言葉は、葉月自身にさえ聞き取れないほど、小さく響いた。
コメント