『夏の雨』

2004年8月25日
 ぱらぱらという雨音に、ふと目が覚めた。どうもうたた寝をしていたらしい。やる気のないぼやけた欠伸を一つして、氷河は何度も瞬きを繰り返した。
 夢を見た。
 それは過去の再現だった。
 どうもこの雨音の所為らしく、夢の舞台も雨の中だった。森に囲まれた故郷の土と緑の匂い。温い夕立を浴びて、一層濃くなったその匂いの中に響いた声が、今でも鼓膜の裏でがんがんと耳鳴りのように、それでいておぼろに聞こえてくる。
 繰り返す瞬きの合間にも、夢で見た懐かしい風景がちらほらと見え隠れしてならない。懐かしい景色と楽しげに笑う紅い瞳。親友の姿だった。
 目を閉じてはいけない。あの風景を思い出してはいけない。
 そんな命令を理性が必死になって発していたけれど、何も考えないまま氷河は目を閉じていた。
 そうして鮮明な映像と、色褪せない言葉の数々を手にしてしまった。

 その後のことは、なにがなんだか彼には分からなかった。
 ただ、何かがぐちゃぐちゃになるような感覚を味わい、自分のどこかがぶるぶると震えるような感覚を味わったことだけ、それだけ分かった。
 知っていた筈なのだ。
 分かっていた筈なのに。
 ――彼女の記憶だけは、心の準備もなく思い出してはいけないと。

 氷河にとって、彼女だけはどうしようもないほどに、特別だったのだ。
 特別という陳腐な言葉でしか、言い表せないほどに。他のどんな言葉でも代用できないほどに、唯一無二の存在だった。
 まだ彼女が近くにいた、あの頃の生活はとても幸せなものだった。柔らかな真綿にくるまれ、爽やかな緑の風に包まれているような、穏やかで優しすぎる日々。
 あの懐かしい日々は、今となってはあまりにも、遠い。

 何も見たくないと、空虚な目を見開いていると、今度は本当に何も見えなくなって、氷河は半ば無意識に目を閉じた。
 今度は暗闇が広がっただけ。
 懐かしい光景が見えないことに、安堵と落胆を感じながら、彼は細い溜息を吐いた。
 夕立のように唐突に現れ、何事もなかったかのように消え去っていく風景は、壊れかけた心に染み渡ることもなく、ただ冷たすぎる優しさで、彼の何かを毀していった。

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