体中の感覚が麻痺している。
 ただ、体の奥がやけに熱くて、それなのに表面からどんどん熱が消えていく。そうして、それはもう二度と戻らないということだけが、何故かはっきりと理解できた。
 耳鳴りが酷く、何も聞こえない。雑音ばかりが響いて、すべてが遠く感じられる。
 重苦しい瞼を無理矢理引き上げても、そこに広がる景色は滲んでいる。
 おそらく広がっているであろう空を見上げ、その灰色の視界を閉じようとした時、頬にそっと何かが触れた。
 手の平だと瞬時に理解できたことが、彼には何よりも不思議だった。
 体中の感覚が消えてしまったというのに、頬だけが鋭敏になったかのようだった。柔らかいというには、少しばかり荒れた指先が、そっと頬をなで上げていく。それだけが、予想ではなく、事実として自分の中に流れ込んできたのだ。

 「馬鹿ね」
 唐突に、耳鳴りがやんだ気がした。
 変わりに聞こえてきたのは、細い女の声だった。彼が求めてやまない声だった。遠い日に聞いて以来、何度となく思い描いた声だった。
 細く、凛としているようで、張りつめた儚さがある声。
 何年も聞いていなかったというのに、その声の主を彼は一瞬で理解することができた。そしてそれと同時に、その事実が信じられなかった。その思いから微かに首を振る。
「どうしてここにいるの」
 声の主は哀しげに彼を詰った。
 それから言葉とは裏腹に、優しく彼の頬を撫で、どうしてとまた呟いた。
 重い瞼を引き摺るように、何度か瞬きを繰り返すと、灰色の視界に微かに色が戻った。景色はやはり滲んだままだったけれど、声の主の姿を確かめるには十分だった。
 そして彼は、ああと微かに呻いた。
 思い焦がれた彼女がそこにいた。別れてからどれくらいの月日がたったのか、今の頭では計算することができない。その間に彼は多少変わった。そして彼女も少しばかり変わっていた。
 まだ幼さを残していた風貌。それでいて大人びた眼差しをもっていた彼女からは、幼さだけが綺麗にそぎ落とされていた。そこには哀しいほどの静謐さがあった。
 けれどその瞳だけは変わっていなかった。
 どことなく寂しげで、何かを置いてきてしまったかのような眼差し。そんな影が奥底に潜む目だった。

 そんなことを思っていると、彼の頬にぽつりと何かが落ちた。まだ鋭敏な感覚を保持している頬だけが、その正体を知っていた。
 もう一度どうしてと呟く彼女に対し、彼は君に会いたかったんだと掠れた声で囁いた。

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