『死の間合い』

2005年4月1日
 それ以上近づくなよ、と女は笑った。

 彼女の拾われてから、彼は生傷の絶えない日々を過ごした。毎日毎日、本物の刃物で斬り合いをさせられるのだから、当然といえば当然だ。逆に生傷程度ですんでいることが驚きだ。その辺の加減ができる人間で本当に良かったと、彼は素直な気持ちで思う。
 事実、それほどの大けがをしたことは今までない。一番大きな怪我でも、背中をばさりと切りつけられ、全治二週間となったものだ。斬られたとはいえ、浅い傷だったのが幸いした。もう少し深ければ、出血が激しすぎて、当分動けなかったことだろう。
 彼女としても、彼が動けなくなることも、ましてや死ぬことも本意ではない。だからその時も、出来るだけ浅く斬りつけたのだろう。
 そして倒れた彼を見下ろしながら、背中を見せるなと冷ややかに一言呟いた。

 彼女に拾われて、一年がたつ頃、彼は武器を選ばされた。
 知り合いの武器屋だという店に連れて行かれ、棚から壁まで、部屋中に並べられた刃物を見せられ、彼は硬直した。
「どれでもいい。どれを使ったって、結局何も変わらない」
 彼女は相変わらず冷めた口調でそういった。
 そして次に、
「人を殺すなんて、簡単なんだ」
紅い瞳をゆっくりと細め、心の底から楽しそうに笑った。

 三年目。
 いつものように斬り合っていると、一瞬だけ、彼女の隙が見えた。
 それは本当に一瞬のことだったが、彼は反射的にその隙を狙った。彼女が彼の刀を払う。その時にできる、僅かな隙間。一秒にも満たない時間だが、その時彼女の心臓が見えた。
 例えば、彼女が師であるとか。
 例えば、そこを攻撃すれば、人は死ぬこととか。
 つまり、彼女を殺してしまうとか。
 そういうことは、一切頭には浮かばなかった。
 ただ、その心臓に向かって、刀を突き出した。

 気付くと、彼の武器は真っ二つに折れていた。
 二年前、例の武器屋で譲ってもらった。切れ味は最高だが、耐久性は低いといわれた刀だった。
 呆気にとられていると、彼女が一歩後ろに下がった。
 間合いをとるようなその仕草が、どこか逃げるように見えた。初めてのことだった。
「――リネア」
「ああ、待て。それ以上近づくなよ」
 彼女は顔を押さえ、くつくつと楽しそうに笑っていた。楽しくて楽しくて仕方がないというように。
 そうして次に彼を見た紅い瞳は、ぎらぎらと輝いていた。流れ出した瞬間の血液のようだと思った。てらてらと光るそれは、不気味な光沢を放っていた。
 いつもはつまらなさそうに、冷ややかな鈍い光しか持たない瞳が、今はねっとりとした熱を持っている。
「楽しいことをしてくれるな」
 けれどその声は、弟子の成長を喜ぶものではなかった。
 でもそれ以上近づくなよ、ともう一度、彼女は警告のように呟いた。
 否、それは実際警告だった。

 「それ以上近づいたら、お前、死ぬから」
 戦うことと殺すことを何より好み、命を削り合いながら生きる女は、楽しそうに紅い瞳を歪めた。

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